晩年 63

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太宰 治

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問題文

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(はちがつには、ぼくはぼうそうのほうのかいがんでおよそふたつきをすごした。くがつのおわりまで)

八月には、僕は房総のほうの海岸で凡そ二月をすごした。九月のおわりまで

(いたのである。かえってすぐそのひのひるすぎ、ぼくはみやげのかれいのひものをすこしばかり)

いたのである。帰ってすぐその日のひるすぎ、僕は土産の鰈の干物を少しばかり

(もってせいせんをおとずれた。このようにぼくは、ただならぬしんぼくをかれにかんじ、ちからこぶを)

持って青扇を訪れた。このように僕は、ただならぬ親睦を彼に感じ、力こぶを

(さえいれていたのであった。にわさきからはいっていくと、せいせんは、いかにも)

さえいれていたのであった。庭先からはいって行くと、青扇は、いかにも

(うれしげにぼくをむかえた。とうはつをみじかくかってしまって、いよいよわかくみえた。)

嬉しげに僕をむかえた。頭髪を短く刈ってしまって、いよいよ若く見えた。

(けれどようしょくはどこやらけわしくなっていたようであった。こんがすりのひとえをきていた)

けれど容色はどこやらけわしくなっていたようであった。紺絣の単衣を着ていた

(ぼくもなんだかなつかしくて、かれのやせたかたにもたれかかるようにしてへやへ)

僕もなんだかなつかしくて、彼の痩せた肩にもたれかかるようにして部屋へ

(はいったのである。へやのまんなかにちゃぶだいがそなえられ、たくのうえには、)

はいったのである。部屋のまんなかにちゃぶだいが具えられ、卓のうえには、

(いちだあすほどのびいるびんとこっぷがふたつおかれていた。「ふしぎです。きょうは)

一ダアスほどのビイル瓶とコップが二つ置かれていた。「不思議です。きょうは

(くるとたしかにそうおもっていたのです。いや、ふしぎです。それであさからこんな)

来るとたしかにそう思っていたのです。いや、不思議です。それで朝からこんな

(したくをして、おまちもうしていました。ふしぎだな。まあ、どうぞ。」)

仕度をして、お待ち申していました。不思議だな。まあ、どうぞ。」

(やがてぼくたちはゆるゆるとびいるをのみはじめたわけであった。)

やがて僕たちはゆるゆるとビイルを呑みはじめたわけであった。

(「どうです。おしごとができましたか?」「それがだめでした。このさるすべりに)

「どうです。お仕事ができましたか?」「それが駄目でした。この百日紅に

(あぶらぜみがいっぱいたかって、あさっからばんまでしゃあしゃあなくのできがくるいかけ)

油蝉がいっぱいたかって、朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけ

(ました。」ぼくはおもわずわらわされた。「いや、ほんとうですよ。かなわないので、)

ました。」僕は思わず笑わされた。「いや、ほんとうですよ。かなわないので、

(こんなにかみをみじかくしたり、さまざまこれでくしんをしたのですよ。でも、きょうは)

こんなに髪を短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうは

(よくおいでくださいました。」くろずんでいるくちびるをおどけものらしくちょっと)

よくおいでくださいました。」黒ずんでいる唇をおどけものらしくちょっと

(とがらせて、こっぷのびいるをほとんどひといきにのんでしまった。「ずっとこっちに)

尖らせて、コップのビイルをほとんど一息に呑んでしまった。「ずっとこっちに

(いたのですか。」ぼくはくちびるにあてたびいるのこっぷをしたへおいた。)

いたのですか。」僕は唇にあてたビイルのコップを下へ置いた。

(こっぷのなかにはぶよににたちいさいむしがいっぴきういて、あわのうえでしきりにもがいて)

コップの中には蚋に似た小さい虫が一匹浮いて、泡のうえでしきりにもがいて

など

(いた。「ええ。」せいせんはたくにりょうひじをついてこっぷをめのたかさまでささげ、)

いた。「ええ。」青扇は卓に両肘をついてコップを眼の高さまでささげ、

(ふきあがるびいるのあわをぼんやりながめながらよねんなさそうにいった。)

噴きあがるビイルの泡をぼんやり眺めながら余念なさそうに言った。

(「ほかにいくところもないのですものねえ。」「ああ。おみやげをもって)

「ほかに行くところもないのですものねえ。」「ああ。お土産を持って

(きましたよ。」「ありがとう。」なにかかんがえているらしく、ぼくのさしだすひものには)

来ましたよ。」「ありがとう。」何か考えているらしく、僕の差しだす干物には

(めもくれず、やはりじぶんのこっぷをすかしてみていた。めがすわっていた。)

眼もくれず、やはり自分のコップをすかして見ていた。眼が坐っていた。

(もうよっているらしいのである。ぼくは、こゆびのさきであわのうえのむしをすくいあげて)

もう酔っているらしいのである。僕は、小指のさきで泡のうえの虫を掬いあげて

(から、だまってごくごくのみほした。「ひんすればどんすということばがあります)

から、だまってごくごく呑みほした。「貧すれば貪すという言葉があります

(ねえ。」せいせんはねちねちしたちょうしでいいだした。「まったくだとおもいますよ。)

ねえ。」青扇はねちねちした調子で言いだした。「まったくだと思いますよ。

(せいひんなんてあるものか。かねがあったらねえ。」「どうしたのです。へんに)

清貧なんてあるものか。金があったらねえ。」「どうしたのです。へんに

(からみつくじゃないか。」ぼくはひざをくずして、わざとにわをながめた。いちいち)

搦みつくじゃないか。」僕は膝をくずして、わざと庭を眺めた。いちいち

(とりあっていてもしようがないとおもったのである。「さるすべりがまださいています)

とり合っていても仕様がないと思ったのである。「百日紅がまだ咲いています

(でしょう?いやなはなだなあ。もうみつきはさいていますよ。ちりたくても)

でしょう?いやな花だなあ。もう三月は咲いていますよ。散りたくても

(ちれぬなんて、きのきかないきだよ。」ぼくはきこえぬふりしてたくのしたのうちわを)

散れぬなんて、気のきかない樹だよ。」僕は聞えぬふりして卓のしたの団扇を

(とりあげ、ばさばさつかいはじめた。「あなた。わたしはまたひとりものですよ。」)

とりあげ、ばさばさ使いはじめた。「あなた。私はまたひとりものですよ。」

(ぼくはふりかえった。せいせんはびいるをひとりでついで、ひとりでのんでいた。)

僕は振りかえった。青扇はビイルをひとりでついで、ひとりで呑んでいた。

(「まえからきこうとおもっていたのですが、どうしたのだろう。あなたはばかに)

「まえから聞こうと思っていたのですが、どうしたのだろう。あなたは莫迦に

(うわきじゃないか。」「いいえ。みんなにげてしまうのです。どうしようもないさ」)

浮気じゃないか。」「いいえ。みんな逃げてしまうのです。どう仕様もないさ」

(「しぼるからじゃないかな。いつかそんなはなしをしていましたね。しつれいだが、)

「しぼるからじゃないかな。いつかそんな話をしていましたね。失礼だが、

(あなたはおんなのかねでくらしていたのでしょう?」「あれはうそです。」かれはたくの)

あなたは女の金で暮らしていたのでしょう?」「あれは嘘です。」彼は卓の

(したのにっけるのたばこいれからたばこをいっぽんつまみだし、おちついてすいはじめた。)

したのニッケルの煙草入から煙草を一本つまみだし、おちついて吸いはじめた。

(「ほんとうはわたしのいなかからのしおくりがあるのです。いいえ。わたしはにょうぼうをときどき)

「ほんとうは私の田舎からの仕送りがあるのです。いいえ。私は女房をときどき

(かえるのがほんとうだとおもうね。あなた。たんすからきょうだいまで、みんなわたしの)

かえるのがほんとうだと思うね。あなた。箪笥から鏡台まで、みんな私の

(ものです。にょうぼうはきのみきのままでわたしのうちへきて、それからまたそのまま)

ものです。女房は着のみ着のままで私のうちへ来て、それからまたそのまま

(いつでもかえっていけるのです。わたしのはつめいだよ。」「ばかだね。」ぼくはかなしい)

いつでも帰って行けるのです。私の発明だよ。」「莫迦だね。」僕は悲しい

(きもちでびいるをあおった。「かねがあればねえ。かねがほしいのですよ。)

気持でビイルをあおった。「金があればねえ。金がほしいのですよ。

(わたしのからだはくさっているのだ。ごろくじょうくらいのたきにうたせてきよめたいのです。)

私のからだは腐っているのだ。五六丈くらいの滝に打たせて清めたいのです。

(そうすれば、あなたのようなよいひととも、もっともっとわけへだてなく)

そうすれば、あなたのようなよい人とも、もっともっとわけへだてなく

(つきあえるのだし。」「そんなことはきにしなくてよいよ。」やちんなどあてに)

つき合えるのだし。」「そんなことは気にしなくてよいよ。」屋賃などあてに

(していないことをいおうとおもったが、いえなかった。かれのすっているたばこが)

していないことを言おうと思ったが、言えなかった。彼の吸っている煙草が

(ほーぷであることにふときづいたからでもあった。おかねがまるっきりない)

ホープであることにふと気づいたからでもあった。お金がまるっきりない

(わけでもないな、とおもったのだ。せいせんは、ぼくのしせんがかれのたばこにそそがれている)

わけでもないな、と思ったのだ。青扇は、僕の視線が彼の煙草にそそがれている

(ことをしり、またそれをみつめたぼくのきもちをすぐにさっしてしまったようで)

ことを知り、またそれを見つめた僕の気持ちをすぐに察してしまったようで

(あった。「ほーぷはいいですよ。あまくもないし、からくもないし、なんでもない)

あった。「ホープはいいですよ。甘くもないし、辛くもないし、なんでもない

(あじなものだからすきなんだ。だいいちなまえがよいじゃないか。」ひとりでそんな)

味なものだから好きなんだ。だいいち名前がよいじゃないか。」ひとりでそんな

(べんめいらしいことをいってから、こんどはふとごちょうをかえた。「しょうせつをかいたのです)

弁明らしいことを言ってから、今度はふと語調をかえた。「小説を書いたのです

(じゅうまいばかり。そのあとがつづかないのです。」たばこをゆびさきにはさんだまま)

十枚ばかり。そのあとがつづかないのです。」煙草を指先にはさんだまま

(てのひらでりょうのびよくのあぶらをゆっくりぬぐった。「しげきがないからいけないのだと)

てのひらで両の鼻翼の油をゆっくり拭った。「刺激がないからいけないのだと

(おもって、こんなこころみまでもしてみたのですよ。いっしょうけんめいにかねをためて、じゅうにさんえん)

思って、こんな試みまでもしてみたのですよ。一生懸命に金をためて、十二三円

(たまってから、それをもってかふぇへいき、もっともばからしくつかってきました)

たまってから、それを持ってカフェへ行き、もっともばからしく使って来ました

(かいこんのじょうをあてにしたわけですね。」「それでかけましたか。」「だめでした」)

悔恨の情をあてにしたわけですね。」「それで書けましたか。」「駄目でした」

(ぼくはふきだした。せいせんもわらいだして、ほーぷをぽんとにわへほうった。)

僕は噴きだした。青扇も笑い出して、ホープをぽんと庭へほうった。

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