晩年 69

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プレイ回数528難易度(4.2) 5092打 長文 かな
太宰 治
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 pechi 6483 S 7.0 93.0% 744.8 5221 392 70 2024/03/06

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問題文

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(またこれをいっているあいだくちをまげたり、ひつよういじょうにめをぎらぎらさせたり)

またこれを言っているあいだ口をまげたり、必要以上に眼をぎらぎらさせたり

(せずにほとんどほほえむようにしていたいものだと、そのれんしゅうをもおこたらなかった)

せずにほとんど微笑むようにしていたいものだと、その練習をも怠らなかった

(これでじゅんびはできた。いよいよけんかのしゅぎょうであった。じろべえはぶきをもつことを)

これで準備はできた。いよいよ喧嘩の修行であった。次郎兵衛は武器を持つ事を

(きらった。ぶきのちからでかったとてそれはおとこでない。すでのちからでかたないことには、)

きらった。武器の力で勝ったとてそれは男でない。素手の力で勝たない事には、

(おのれのこころがすっきりしない。まずこぶしのつくりかたからけんきゅうした。)

おのれの心がすっきりしない。まずこぶしの作りかたから研究した。

(おやゆびをこぶしのそとへだしておくとおやゆびをくじかれるおそれがある。じろべえは)

親指をこぶしの外へ出して置くと親指をくじかれるおそれがある。次郎兵衛は

(いろいろとけんきゅうしたあげく、こぶしのなかにおやゆびをかくしてほかのよんほんのゆびの)

いろいろと研究したあげく、こぶしの中に親指をかくしてほかの四本の指の

(だいいちかんせつのせをきっちりすきまなくならべてみた。ひどくがんじょうそうなこぶしが)

第一関節の背をきっちりすきまなく並べてみた。ひどく頑丈そうなこぶしが

(できあがった。このきっちりならんだだいいちかんせつのせでじぶんのひざがしらをとんとついて)

できあがった。このきっちり並んだ第一関節の背で自分の膝頭をとんとついて

(みると、こぶしはすこしもいたくなくてそのかわりにひざがしらのほうがあっととびあがる)

みると、こぶしは少しも痛くなくてそのかわりに膝頭のほうがあっと飛びあがる

(ほどいたかった。これははっけんであった。じろべえはつぎにそのだいいちかんせつのせのかわを)

ほど痛かった。これは発見であった。次郎兵衛はつぎにその第一関節の背の皮を

(あつくかたくすることをけいかくした。あさ、めをさますとすぐにかれのしんあんのこぶしで)

厚く固くすることを計画した。朝、眼をさますとすぐに彼の新案のこぶしで

(もってまくらもとのたばこぼんをひとるなぐった。まちをあるきながら、みちみちのどべいや)

もって枕元の煙草盆をひとる殴った。まちを歩きながら、みちみちの土塀や

(いたべいをなぐった。いざかやのたくをなぐった。いえのろぶちをなぐった。このしゅぎょうにいちねんを)

板塀を殴った。居酒屋の卓を殴った。家の炉縁を殴った。この修行に一年を

(ついやした。たばこぼんがばらばらにこわれどべいやいたべいにむすうのだいしょうのあながあき、)

費やした。煙草盆がばらばらにこわれ土塀や板塀に無数の大小の穴があき、

(いざかやのたくのひびができ、いえのろぶちがはいからなくらいでこぼこになったころ、)

居酒屋の卓の罅ができ、家の炉縁がハイカラなくらいでこぼこになったころ、

(じろべえはやっとおのれのこぶしのかたさにじしんをえた。このしゅぎょうのあいだに)

次郎兵衛はやっとおのれのこぶしの固さに自信を得た。この修行のあいだに

(じろべえはなぐりかたにもこつのあることをはっけんした。すなわちうでを、よこから)

次郎兵衛は殴りかたにもこつのあることを発見した。すなわち腕を、横から

(おおまわしにまわしてなぐるよりはわきしたからぴすとんのようにまっすぐにつきだして)

大廻しに廻して殴るよりは脇下からピストンのようにまっすぐに突きだして

(なぐったほうがやくさんばいのこうかがあるということであった。まっすぐにつきだす)

殴ったほうが約三倍の効果があるということであった。まっすぐに突きだす

など

(とちゅうでうでをうちがわにはんかいてんほどひねったならさらによんばいくらいのこうりょくがあるという)

途中で腕を内側に半回転ほどひねったなら更に四倍くらいの効力があるという

(ことをもしった。うでがらせんのようにあいてのにくたいへきりきりくいいるという)

ことをも知った。腕が螺旋のように相手の肉体へきりきり食いいるという

(わけであった。つぎのいちねんはいえのうらてにあるこくぶんじあとのまつばやしのなかでしゅぎょうをした。)

わけであった。つぎの一年は家の裏手にある国分寺跡の松林の中で修行をした。

(ひとのかたちをしたごしゃくしごすんのたかさのかれたねかぶをなぐるのであった。)

人の形をした五尺四伍寸の高さの枯れた根株を殴るのであった。

(じろべえはおのれのからだをすみからすみまでなぐってみて、みけんとみぞおちがいちばん)

次郎兵衛はおのれのからだをすみからすみまで殴ってみて、眉間と水落ちが一番

(いたいというじじつをしらされた。なお、むかしからいいつたえられているおとこの)

いたいという事実を知らされた。尚、むかしから言い伝えられている男の

(きゅうしょをもいちおうはかんがえてみたけれども、これはやはりげひんなきがして、ごうまんなおとこの)

急所をも一応は考えてみたけれども、これはやはり下品な気がして、傲邁な男の

(ねらうところではないとおもった。むこうずねもまたそうとうにいたいことをしったが、)

覘うところではないと思った。むこうずねもまた相当に痛いことを知ったが、

(これはあしでけるのにつごうのよいところであって、じろべえはけんかにあしをつかうことは)

これは足で蹴るのに都合のよいところであって、次郎兵衛は喧嘩に足を使う事は

(ひきょうでもありうしろめたくもあるとおもい、もっぱらみけんとみぞおちをねらうことに)

卑怯でもありうしろめたくもあると思い、もっぱら眉間と水落ちを覘うことに

(きめたのである。かれたねかぶの、みけんとみぞおちにそうとうするたかさのかしょへこがたなで)

きめたのである。枯れた根株の、眉間と水落ちに相当する高さの個処へ小刀で

(さんかくのしるしをつけ、まいにちまいにち、ぽかりぽかりとなぐりつけた。おまえ、まちがっては)

三角の印をつけ、毎日毎日、ぽかりぽかりと殴りつけた。おまえ、間違っては

(いませんか。じょうだんじゃないかしら。おまえのそのはなのさきがむらさきいろにはれあがると)

いませんか。冗談じゃないかしら。おまえのその鼻の先が紫いろに腫れあがると

(おかしくみえますよ。なおすのにひゃくにちもかかる。なんだかまちがっていると)

おかしく見えますよ。なおすのに百日もかかる。なんだか間違っていると

(おもいます。とたんにぽかりとみけんをなぐる。ひだりてはみぞおちを。いちねんのしゅぎょうののち、)

思います。とたんにぽかりと眉間を殴る。左手は水落ちを。一年の修行ののち、

(かれきのさんかくのしるしはわんくらいのふかさにまるくくぼんだ。じろべえはかんがえた。)

枯木の三角の印は椀くらいの深さに丸くくぼんだ。次郎兵衛は考えた。

(いまはひゃっぱつひゃくちゅうである。けれどもまだまだあんしんはできない。あいてはこのねかぶの)

いまは百発百中である。けれどもまだまだ安心はできない。相手はこの根株の

(ようにいつもだまってたちつくしてはいない。うごいているのだ。)

ようにいつもだまって立ちつくしてはいない。動いているのだ。

(じろべえはみしまのまちのほとんどどこのまがりかどにでもあるすいしゃへめをつけた。)

次郎兵衛は三島のまちのほとんどどこの曲りかどにでもある水車へ眼をつけた。

(ふじのふもとのゆきがとけてすうじゅうじょうのすいりょうのたっぷりなすんだおがわとなり、)

富士の麓の雪が溶けて数十条の水量のたっぷりな澄んだ小川となり、

(みしまのいえいえのどだいかやえんさきやにわのなかをとおってながれていてこけのはえたすいしゃが)

三島の家々の土台下や縁先や庭の中をとおって流れていて苔の生えた水車が

(そのたくさんのおがわのようしょようしょでゆっくりゆっくりまわっていた。)

そのたくさんの小川の要処要処でゆっくりゆっくり廻っていた。

(じろべえはよる、さけをのんでのかえりみちかならずひとつのすいしゃをせいばつした。)

次郎兵衛は夜、酒を呑んでのかえりみち必ずひとつの水車を征伐した。

(まわりめぐっているすいしゃのじゅうろくまいのいたのしたを、じゅんじゅんにぽかりぽかりとなぐるのである)

廻りめぐっている水車の十六枚の板の舌を、順々にぽかりぽかりと殴るのである

(はじめはけんとうがむずかしくてなかなかうまくいかなかったのであるが、)

はじめは見当がむずかしくてなかなかうまく行かなかったのであるが、

(しだいにみしまのまちでやぶれたしたをだらりとさげたままやすんでいるすいしゃを)

しだいに三島のまちで破れた舌をだらりとさげたまま休んでいる水車を

(みかけることがおおくなった。じろべえはしばしばおがわでみずをあびた。)

見かけることが多くなった。次郎兵衛はしばしば小川で水を浴びた。

(そこふかくもぐってじっとしていることもあった。けんかさいちゅうにあやまってあしを)

底ふかくもぐってじっとしていることもあった。喧嘩さいちゅうに誤って足を

(すべらしおがわへてんらくしたばあいのことをこうりょしたのであった。おがわがまちなかを)

すべらし小川へ転落した場合のことを考慮したのであった。小川が町中を

(ながれているのだから、あるいはそんなばあいもあるであろう。さらしもめんのはらおびを)

流れているのだから、あるいはそんな場合もあるであろう。さらし木綿の腹帯を

(さらにぎゅっとつよくまきしめた。さけをおおくはらへいれさせまいというようじんからで)

更にぎゅっと強く巻きしめた。酒を多く腹へいれさせまいという用心からで

(あった。よいどれたならばあしがふらつきおもわぬふかくをとることもあろう。)

あった。酔いどれたならば足がふらつき思わぬ不覚をとることもあろう。

(さんねんたった。たいしゃのおまつりがさんどきて、さんどすぎた。しゅぎょうがおわった。)

三年経った。大社のお祭りが三度来て、三度すぎた。修行がおわった。

(じろべえのふうぼうはいよいよどっしりとしてどんじゅうになった。くびをひだりかみぎへ)

次郎兵衛の風貌はいよいよどっしりとして鈍重になった。首を左か右へ

(ねじむけてしまうのにさえいっぷんかんかかった。にくしんはちのつながりのおかげで)

ねじむけてしまうのにさえ一分間かかった。肉親は血のつながりのおかげで

(びんかんである。ちちおやのいっぺいは、じろべえのしゅぎょうをみぬいた。なにをしゅぎょうしたかは)

敏感である。父親の逸平は、次郎兵衛の修行を見抜いた。何を修行したかは

(しらなかったけれど、なにかしらおおものになったらしいということにだけは)

知らなかったけれど、何かしら大物になったらしいということにだけは

(かんづいた。いっぺいはまえからのたくらみをじっこうした。じろべえにひけしがしらの)

感づいた。逸平はまえからのたくらみを実行した。次郎兵衛に火消し頭の

(めいよしょくうけつがせたのである。じろべえはそのなんだかわけのわからぬおもおもしげな)

名誉職受けつがせたのである。次郎兵衛はそのなんだか訳のわからぬ重々しげな

(ものごしによっておおくのひけしたちのしんらいをえた。かしら、かしらと)

ものごしによって多くの火消したちの信頼を得た。かしら、かしらと

(うやまわれるばかりでけんかのきかいはとんとなかった。ひょっとしたらもうこれは)

うやまわれるばかりで喧嘩の機会はとんとなかった。ひょっとしたらもうこれは

(しょうがい、けんかをせずにこのまましんでいくのかもしれないとわかいかしらは)

生涯、喧嘩をせずにこのまま死んで行くのかも知れないと若いかしらは

(あじけないおもいをしていた。ねりにねりあげたりょううではよごとにむずかゆくなり、)

味気ない思いをしていた。ねりにねりあげた両腕は夜ごとにむずかゆくなり、

(わびしいきもちでぽりぽりひっかいた。ちからのやりばにこまってみもだえのはて、)

わびしい気持ちでぽりぽり引っ掻いた。力のやり場に困って身もだえの果、

(とうとうやけくそないたずらごころをおこしせなかいっぱいにいれずみをした。ちょっけいごすんほどの)

とうとうやけくそな悪戯心を起し背中いっぱいに刺青をした。直径五寸ほどの

(しんくのばらのはなを、さばににたほそながいごひきのさかながとがったくちばしでしほうから)

真紅の薔薇の花を、鯖に似た細長い五匹の魚が尖ったくちばしで四方から

(つついているもようであった。せなかからむねにかけてあおいさざなみがいちめんに)

つついている模様であった。背中から胸にかけて青い小波がいちめんに

(うごいていた。このいれずみのためにじろべえはいよいよとうかいどうにかくれなき)

うごいていた。この刺青のために次郎兵衛はいよいよ東海道にかくれなき

(おとことなり、ひけしたちはもちろん、しゅくばのならずものにさえうやまわれ、もはや)

男となり、火消したちは勿論、宿場のならずものにさえうやまわれ、もはや

(けんかののぞみはたえてしまった。じろべえは、これはやりきれないとおもった。)

喧嘩の望みは絶えてしまった。次郎兵衛は、これはやりきれないと思った。

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