心霊研究会の怪1 海野十三
青空文庫より引用
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問題文
(「そのころのけんきゅう」)
【その頃の研究】
(しょうわごねんからじゅうねんごろまで、わがくにで、しんれいけんきゅうがかなりさかんだった)
昭和五年から十年頃まで、わが国で、心霊研究がかなり盛んだった
(ことがある。がいこくでは、そのとうじもしんれいけんきゅうがさかんであり、)
ことがある。外国では、その当時も心霊研究が盛んであり、
(ゆうめいなしゃーろっくほーむずたんていのものがたりをたくさんかいた)
有名なシャーロック・ホームズ探偵の物語をたくさん書いた
(こーなんどいるおうもねっしんなけんきゅうかであり、そのちょしょもそのころ)
コーナン・ドイル翁も熱心な研究家であり、その著書もその頃
(わがくにへとらいし、しょうかいされた。あめりかでは、もっとはやくから、)
わが国へ渡来し、紹介された。アメリカでは、もっと早くから、
(しんれいけんきゅうがさかんであった。そしてそれがさじゅつであるという)
心霊研究が盛んであった。そしてそれが詐術であるという
(しょうめいをすることが、つうぞくかがくざっしのしめんをまいつきにぎわしていた。)
証明をすることが、通俗科学雑誌の紙面を毎月賑わしていた。
(わがくにでは、むしろどいるおうなどのけんきゅうにかたんしていたひとがおおかった)
わが国では、むしろドイル翁などの研究に加担していた人が多かった
(ようである。たとえば、おおもときょうのかんぶとしてしられていた)
ようである。たとえば、大本教の幹部として知られていた
(あさのわさぶろうぶんがくしなどは、そのひとりであった。)
浅野和三郎文学士などは、そのひとりであった。
(あさのしは、どっちかというと、けんきゅうにどくじのたちばをとっていたようで、)
浅野氏は、どっちかというと、研究に独自の立場を取っていたようで、
(いわゆるしんれいけんきゅうかいやしょうれいかいなどのけいえいには、あまりきょうみを)
いわゆる心霊研究会や招霊会などの経営には、あまり興味を
(もっていないようにみえた。とにかくそのころ、しんれいけんきゅうしゃが)
持っていないように見えた。とにかくその頃、心霊研究者が
(きゅうにふえた。それはとうじのぜつぼうてきこくじょうをはんえいし、しんじゃがひましに)
急に殖えた。それは当時の絶望的国情を反映し、信者が日増しに
(ふえてきたものだとおもわれる。しんれいけんきゅうかいでやることは、だいいちに、)
殖えて来たものだと思われる。心霊研究会でやることは、第一に、
(れいばいをつかってのしょうれいもんどうであり、だいにには、やはりれいばいをつかって)
霊媒を使っての招霊問答であり、第二には、やはり霊媒を使って
(しょうれいし、そのしんれいにいろいろふしぎなるげんしょうをみせてもらう)
招霊し、その心霊にいろいろふしぎなる現象を見せてもらう
(ことだった。だいさんには、わるいしんれいにとりつかれているかんじゃを)
ことだった。第三には、悪い心霊に取憑かれている患者を
(ちりょうすることであった。これにもれいばいのちからをかりなくては)
治療することであった。これにも霊媒の力を借りなくては
(ならなかった。だいよんには、じぶんがれいばいとなるしゅぎょうであった。)
ならなかった。第四には、自分が霊媒となる修行であった。
(まず、とうじのしんれいけんきゅうかいのすぺくたるはいじょうのよっつであった。)
まず、当時の心霊研究会のスペクタルは以上の四つであった。
(これによってわかるとおり、しんれいけんきゅうには、れいばいのりょうひがちょくせつに)
これによって分かるとおり、心霊研究には、霊媒の良否が直接に
(えいきょうするのであった。だから、いいれいばいをさがしだすこと、)
影響するのであった。だから、いい霊媒を探し出すこと、
(れいばいのしゅぎょうをつませることが、しんれいけんきゅうかいのじゅうだいなる)
霊媒の修行を積ませることが、心霊研究会の重大なる
(とうしてきしごとであった。いいれいばいには、つねにそうだつせんがついてまわった。)
投資的仕事であった。いい霊媒には、常に争奪戦がついて回った。
(いいれいばいはたいへんいそがしくなり、せきのあたたまるいとまもないくらいであった。)
いい霊媒はたいへん忙しくなり、席の温まる遑もない位であった。
(れいばいにはふじんがおおかった。そしてかのじょたちは、ちほうにおいてきいをえんじ、)
霊媒には婦人が多かった。そして彼女たちは、地方に於て奇異を演じ、
(それがだんだんゆうめいになってくると、しんれいけんきゅうかいがききつけて)
それがだんだん有名になって来ると、心霊研究会が聞きつけて
(とかいへひっぱりだしにくるというのがふつうのじゅんじょであった。)
都会へ引張り出しに来るというのが普通の順序であった。
(しんれいけんきゅうかいにきょうみをもつひとびとが、だんだんおおくつどってくると、)
心霊研究会に興味を持つ人々が、だんだん多く集って来ると、
(しんれいのかがくてきこうさつがさかんとなり、あたらしいかがくのぶんやにわれこそさきに)
心霊の科学的考察が盛んとなり、新しい科学の分野にわれこそ先に
(ふみこむのだというとくがくのねっしんかがあらわれ、「しんれいでんしろん」だとか、)
踏みこむのだという篤学の熱心家が現れ、「心霊電子論」だとか、
(「しんれいよじげんろん」だとか、「しんれいさんぜせつ」とかをていしょうしてたいけいづけ、)
「心霊四次元論」だとか、「心霊三世説」とかを提唱して体系づけ、
(しんれいのそんざいにかっこたるうらうちをほどこすのであった。でんしろんの)
心霊の存在に確乎たる裏打ちを施すのであった。電子論の
(うわっつらだけしかしらないてあいは、このろんせつにころりとまいってしまって、)
上っ面だけしか知らない手合は、この論説にころりと参ってしまって、
(つぎにはじぶんがそれをとくたちばへすすむのであった。)
次には自分がそれを説く立場へ進むのであった。
(りろんのほうは、やまのいものようなもので、いくらとらえようとしても、)
理論の方は、山の芋のようなもので、いくら捕らえようとしても、
(ぬらぬらして、にげられてしまうが、しんれいじっけんのぶつりかがくてきせつめいと)
ぬらぬらして、逃げられてしまうが、心霊実験の物理化学的説明と
(なると、これはなかなかうまくいかず、じっけんのじょうけんがどうのこうのとの)
なると、これはなかなかうまく行かず、実験の条件がどうのこうのとの
(あらそいがひんぱつし、あげくのはては、せっかくかいのほうへはんぶんくらいひきずりこんだ)
争いが頻発し、挙句の果は、折角会の方へ半分位引摺りこんだ
(ほんかくてきりがくしゃたちににげられてしまったり、わるいばあいは、しっぽを)
本格的理学者たちに逃げられてしまったり、悪い場合は、尻尾を
(おさえられそうになったりして、けつろんほんかくてきがくしゃからはみはなされるに)
おさえられそうになったりして、結論本格的学者からは見離されるに
(いたった。いしはらじゅんはかせのごときは、ずいぶんちょうきにわたってねっしんにしんれいじっけんに)
至った。石原純博士の如きは、ずいぶん長期に亘って熱心に心霊実験に
(たちあわれたひとりである。そのた、げんそんのけんいあるはかせたちで、)
立ち合われた一人である。その他、現存の権威ある博士達で、
(しんれいけんきゅうかいへひっぱりだされたひとびとはすくなくない。しかしいしはらはかせが)
心霊研究会へ引張りだされた人々は少なくない。しかし石原博士が
(いちばんねっしんのようにみえた。いしはらはかせのりんせきが、れいばいにとって)
一番熱心のように見えた。石原博士の臨席が、霊媒にとって
(だんだんくつうになってきたものとみえ、しばしばじっけんが)
だんだん苦痛になって来たものと見え、しばしば実験が
(ふせいこうにおちいった。そればかりか、くらやみのなかにおいて、しんれいがいしはらはかせの)
不成功に陥った。そればかりか、暗闇の中に於て、心霊が石原博士の
(よこつらをなぐってめがねをたたきこわしたり、どうはんのはらあさおじょしのおうぎを)
横面を殴って眼鏡を叩き壊したり、同伴の原阿佐緒女史の扇を
(しんれいがひきさくなどのぼうこうがあり、そこではかせはこれいじょうのりんせきは)
心霊が引き裂くなどの暴行があり、そこで博士はこれ以上の臨席は
(きけんだとさとって、それっきりしゅっせきされなかった。はかせは、せいめいのきけんを)
危険だと悟って、それっきり出席されなかった。博士は、生命の危険を
(かんじたから、てをひいたのですと、わたしにかたられたことがある。)
感じたから、手を引いたのですと、私に語られたことがある。