生きている腸2 海野十三

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生きている腸/海野十三 著
青空文庫より引用

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問題文

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(「さんばんめのまど」)

【三番目の窓】

(すでにごごじゅうじごじゅうはっぷんであった。まるまるけいむびょういんのちいさなてつもんに、ひとりの)

すでに午後十時五十八分であった。○○刑務病院の小さな鉄門に、一人の

(だいがくせいのからだがどしんとぶつかった。「やにはやくしめるじゃないか」と、ひとこと)

大学生の身体がどしんとぶつかった。「やに早く締めるじゃないか」と、一言

(もんくをいっててつもんをおした。てつもんは、わけなくひらいた。じょうをかけてあるわけでは)

文句をいって鉄門を押した。鉄門は、わけなく開いた。錠をかけてあるわけでは

(なく、てつもんのしたにこんくりのかたまりをおもりとして、ちょっとおさえてある)

なく、鉄門の下にコンクリの固まりを錘りとして、ちょっとおさえてある

(ばかりなのであったから。「やあ、ーー」しゅえいは、ふきやにあいさつされてぺこんと)

ばかりなのであったから。「やあ、ーー」守衛は、吹矢に挨拶されてペコンと

(おじぎをした。どういうわけかしらんが、このびょういんのだいけんいくまもとはかせを)

お辞儀をした。どういうわけかしらんが、この病院の大権威熊本博士を

(よびすてにしているくらいのいがくせいであるから、ふうさいはむくつけであるが)

呼び捨てにしているくらいの医学生であるから、風采はむくつけであるが

(くまもとはかせのきゅうはんしゅのちなんかひいているのであろうとぜんいにかいし、したがって)

熊本博士の旧藩主の血なんか引いているのであろうと善意に解し、したがって

(このえいもんでは、つねにだいいちこうしきのけいれいをしていた。ふふんとはなをならして、)

この衛門では、常に第一公式の敬礼をしていた。ふふんと鼻を鳴らして、

(へいふくししがしらのいがくせいふきやりゅうじは、しゅえいのまえをとおりぬけると、くらいびょういんのうえこみに)

弊服獅子頭の医学生吹矢隆二は、守衛の前を通りぬけると、暗い病院の植込みに

(ほをはこんだ。かれはすたすたとあしをはやめ、くらいにわを、ふくろうのようにたっしゃに)

歩を運んだ。彼はすたすたと足をはやめ、暗い庭を、梟のように達者に

(ぬってあるいた。やがてめのまえにだいよんびょうしゃがあらわれた。(みなみからさんばんめの)

縫って歩いた。やがて目の前に第四病舎が現われた。(南から三番目の

(まどだったな)かれはおそれげもなく、そうかにちかづいた。そこにはみかんばこらしい)

窓だったな)彼はおそれげもなく、窓下に近づいた。そこには蜜柑函らしい

(ものがころがっていた。これもくまもとはかせのさーヴぃすであろうーーとおもって、)

ものが転がっていた。これも熊本博士のサーヴィスであろうーーとおもって、

(それをふみだいにつかってやった。そしておもいまどをうんとうえにつきあげたのである。)

それを踏み台に使ってやった。そして重い窓をうんと上につき上げたのである。

(まどがらすは、するするとうえにあがった。うべなるかな、くまもとはかせは、まどをささえる)

窓ガラスは、するすると上にあがった。うべなるかな、熊本博士は、窓を支える

(かっしゃのしゃふとにもあぶらをさしておいたから、こうらくにあがるのだ。)

滑車のシャフトにも油をさしておいたから、こう楽に上るのだ。

(よっていがくせいふきやは、すぐめのまえなるてーぶるのうえから、やけにふとい、)

よって医学生吹矢は、すぐ目の前なるテーブルの上から、やけに太い、

(ながさいちめーとるばかりもあるがらすかんをわしづかみにすることができた。)

長さ一メートルばかりもあるガラス管を鷲づかみにすることができた。

など

(「ほほう、はいっているぞ」いがくせいふきやは、そのずっしりとおもいがらすかんを)

「ほほう、入っているぞ」医学生吹矢は、そのずっしりと重いガラス管を

(へいのうえにひかるがいろとうのほうにすかしてみた。がらすかんのなかに、せいちょうなえきを)

塀の上に光る街路燈の方にすかしてみた。ガラス管の中に、清澄な液を

(くちのところまでみたしており、そのなかにはいいろともうすむらさきいろともつかないみょうないろの、)

口のところまで充たしており、その中に灰色とも薄紫色ともつかない妙な色の、

(どろっとしたものがつかっていた。「うん、ほしいとおもっていたものが、)

どろっとしたものが漬かっていた。「うん、欲しいとおもっていたものが、

(やっとてにはいったぞ、こいつはほんとうにすばらしいや」ふきやは、にやりとかいしんの)

やっと手に入ったぞ、こいつはほんとうに素晴しいや」吹矢は、にやりと快心の

(えみをたたえて、まどがらすをもとのようにおろした。そしてぬすみだしたふとい)

笑みをたたえて、窓ガラスをもとのようにおろした。そして盗みだした太い

(がらすかんをみぎてにすてっきのようにつかんで、じめんにおりた。)

ガラス管を右手にステッキのようにつかんで、地面に下りた。

(「やあ、よるのていえんさんぽはいいですなあ」えいもんのまえをとおりぬけるときに、)

「やあ、夜の庭園散歩はいいですなあ」衛門の前をとおりぬけるときに、

(およそかれにはにつかわしからぬあいさつをした。が、かれはそのよるのぞうひんが、)

およそ彼には似つかわしからぬ挨拶をした。が、彼はその夜の臓品が、

(よほどうれしかったのにちがいない。「うえっ、おそれいりました」しゅえいは、)

よほど嬉しかったのにちがいない。「うえっ、恐れいりました」守衛は、

(ぜんしんをこうちょくさせ、ほんとうにおそれいってあいさつをかえした。もんをでると、かれはふとい)

全身を硬直させ、本当に恐れいって挨拶をかえした。門を出ると、彼は太い

(がらすかんをかたにかつぎげたばきのまま、どんどんあるきだした。そしてさんじかんも)

ガラス管を肩にかつぎ下駄ばきのまま、どんどん歩きだした。そして三時間も

(かかって、やっとじたくへかえってきた。まちはもうさわぎつかれて)

かかって、やっと自宅へかえってきた。街はもう騒ぎつかれて

(たおれてしまったようにひっそりかんとしていた。かれはだれにもみられないで、)

倒れてしまったようにひっそり閑としていた。彼は誰にも見られないで、

(いえのなかにはいることができた。かれはでんとうをつけた。「うん、じつにすばらしい。)

家の中に入ることができた。彼は電燈をつけた。「うん、実に素晴しい。

(じつにみごとなはらわただ」かれは、がらすかんをもちあげでんとうのひかりにすかしてみてさんたんした。)

実に見事な腸だ」彼は、ガラス管をもちあげ電燈の光に透かしてみて三嘆した。

(すこしあおみのついたえきたいのなかにかれのいう「はらわた」なるものがどろんと)

すこし青味のついた液体の中に彼のいう「腸」なるものがどろんと

(よどんでいる。「あ、いきているぞ」うすむらさきいろのはらわたが、よくみると、)

よどんでいる。「あ、生きているぞ」薄紫色の腸が、よく見ると、

(ぐにゃりぐにゃりとうごいている。りんげるしえきのなかで、)

ぐにゃりぐにゃりと動いている。リンゲル氏液の中で、

(ぜんどうをやっているのであった。いきているはらわた!)

蠕動をやっているのであった。生きている腸!

(いがくせいふきやが、もういちねんこのかた、くまもとはかせにたいしねっしんにねだっていたのは、)

医学生吹矢が、もう一年この方、熊本博士に対し熱心にねだっていたのは、

(じつにこのいきているはらわたであった。ほかのことはききいれても、このいきているはらわたの)

実にこの生きている腸であった。他のことはききいれても、この生きている腸の

(ねがいだけは、なかなかききいれなかったくまもとはかせだった。「なんだい、はかせ。)

願いだけは、なかなかききいれなかった熊本博士だった。「なんだい、博士。

(おまえのところは、だんしゅうがにせんきゅうひゃくめいもいるんじゃないか。なかにはしけいになる)

お前のところは、男囚が二千九百名もいるんじゃないか。中には死刑になる

(やつもいるしさ、もうちょうえんになったりまたへんしするやつもいるだろうじゃないか。)

やつもいるしさ、盲腸炎になったりまた変死するやつもいるだろうじゃないか。

(そのなかから、わずかひゃくつぇーえむぐらいのはらわたをごまかせないはずはない。こら、)

その中から、わずか百C・Mぐらいの腸をごまかせないはずはない。こら、

(おまえ、いうことをきかないなら、れいのあれをあれするがいいか。いやなら、)

お前、いうことをきかないなら、例のあれをあれするがいいか。いやなら、

(はやくおれのいうことをきけ」などときょうかつ、ここにいちねんぶりに、やっとたいぼう)

早く俺のいうことをきけ」などと恐喝、ここに一年ぶりに、やっと待望

(ひさしかりしいきているはらわたをてにいれたのであった。)

久しかりし生きている腸を手にいれたのであった。

(かれはなぜ、そのようなきみのわるいいきているはらわたをてにいれたがったので)

彼はなぜ、そのような気味のわるい生きている腸を手に入れたがったので

(あろうか。それはかれのしゅうしゅうへきをまんぞくするためであったろうか。いな!)

あろうか。それは彼の蒐集癖を満足するためであったろうか。否!

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