山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 18
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問題文
(おえつをしずめるためだったろう、しばらくしてそっとはなをかみ、)
嗚咽をしずめるためだったろう、暫くしてそっと洟(はな)をかみ、
(そうして、かんじょうをころしたひらべったいようなちょうしでかたった。)
そうして、感情をころした平べったいような調子で語った。
(かのじょにはやくそくしたおとこがあったのだ。さんやにいるちちのともだちのこで、)
彼女には約束した男があったのだ。山谷にいる父の友達の子で、
(おやのいえをとびだしてき、おなじちょうないにすんで、だいくのてまどりをしていた。)
親の家をとびだして来、同じ町内に住んで、大工の手間取りをしていた。
(おなかとおないどしだったが、)
おなかと同い年だったが、
(じゅうろくしちのころから「おれはこのうちのにんげんになるんだ」といって、)
十六七のころから「おれはこのうちの人間になるんだ」と云って、
(かせいだものをおなかのかぞくにみついでいた。はたちになったとき、)
稼いだ物をおなかの家族に貢いでいた。二十歳になったとき、
(はっきりおなかがほしいといい、かのじょのおやたちはよろこんでしょうちした。)
はっきりおなかが欲しいといい、彼女の親達はよろこんで承知した。
(ーーあたしがそれをしったのは、)
ーーあたしがそれを知ったのは、
(あなたからはなしをきくちょっとまえのことでした。)
あなたから話を聞くちょっとまえのことでした。
(かのじょのきもちはまだはっきりしていなかった。)
彼女の気持はまだはっきりしていなかった。
(そのおとこがきらいではなかったし、)
その男が嫌いではなかったし、
(じぶんたちのかぞくがしてもらったことにおんぎもかんじていた。)
自分たちの家族がして貰ったことに恩義も感じていた。
(しかし、そのおとこのつまになるということは、)
しかし、その男の妻になるということは、
(まるでひとごとのようにじっかんがもてなかった。)
まるでひとごとのように実感がもてなかった。
(そのときさはちにあったのである。おなかはさはちにつよくひきつけられた。)
そのとき佐八に会ったのである。おなかは佐八に強くひきつけられた。
(はっきりじじつをいって、ことわらなければいけないとおもいながら、)
はっきり事実を云って、断わらなければいけないと思いながら、
(じぶんでじぶんがどうにもならず、なかばむちゅうで、さはちにひきずられていった。)
自分で自分がどうにもならず、なかば夢中で、佐八にひきずられていった。
(ーーだってどうしようもなかったのよ。)
ーーだってどうしようもなかったのよ。
(おなかはそういいながらまたなきだし、こえをしのんで、ながいことおえつしていた。)
おなかはそう云いながらまた泣きだし、声を忍んで、ながいこと嗚咽していた。
(やがておなかはこころをきめた。)
やがておなかは心をきめた。
(さはちといっしょになろう、おんぎはおんぎ、あとでどうとでもかえすほうはあろうから。)
佐八といっしょになろう、恩義は恩義、あとでどうとでも返す法はあろうから。
(そうけっしんして、えちとくのしゅじんにもはなし、さんやのおやたちにもはなした。)
そう決心して、越徳の主人にも話し、山谷の親たちにも話した。
(じぶんでもこわいほどつよいきもちになり、なみだもこぼさずにねばりぬいた。)
自分でもこわいほど強い気持になり、涙もこぼさずにねばりぬいた。
(・・・・・・さはちのおやかたがはなしにいったとき、えちとくのしゅじんがしぶったのも、)
……佐八の親方が話しにいったとき、越徳の主人が渋ったのも、
(またさはちがさんやのいえをたずねたとき、かぞくのものがひどくれいたんだったのも、)
また佐八が山谷の家を訪ねたとき、家族の者がひどく冷淡だったのも、
(それだけのりゆうがあったからなのだ。)
それだけの理由があったからなのだ。
(そしてふたりはいっしょになった。)
そして二人はいっしょになった。
(やくいちねんのせいかつは、おなかにとっていっしょうにかえてもおしくないほど、)
約一年の生活は、おなかにとって一生に代えても惜しくないほど、
(しあわせな、みちたりたものであった。)
仕合せな、満ち足りたものであった。
(ーーあなたとのいちねんで、)
ーーあなたとの一年で、
(あたしはこのよにうまれてきたかいがあったとおもいました、)
あたしはこの世に生れて来た甲斐があったと思いました、
(こんなにしあわせでいいはずはない、)
こんなに仕合せでいい筈はない、
(このままではいまにばちがあたるにちがいないって、)
このままではいまに罰(ばち)が当るにちがいないって、
(ひとりのときはよくかんがえたものです。)
独りのときはよく考えたものです。
(かじのとき、おなかのあたまにひらめいたのは、)
火事のとき、おなかの頭に閃いたのは、
(この「ばちがあたるにちがいない」というかんがえであった。)
この「罰が当るにちがいない」という考えであった。
(そんなばかなことがと、ひにおわれてにげながら、じぶんのおろかしいかんがえを、)
そんなばかなことがと、火に追われて逃げながら、自分の愚かしい考えを、
(ひていしたが、ひていすればするほど、そのおもいはつよくなるばかりだった。)
否定したが、否定すればするほど、そのおもいは強くなるばかりだった。
(もうひとのいっしょうぶんもしあわせにくらした、このかじがそのしょうこだ。)
もう人の一生分も仕合せにくらした、この火事がその証拠だ。
(このかじが、くぎりをつけろというしょうこだ。)
この火事が、区切りをつけろという証拠だ。
(そういうことばが、だれかのささやきのように、)
そういう言葉が、誰かの囁きのように、
(あたまのなかではっきりときこえるようであった。)
頭の中ではっきりと聞えるようであった。
(さはちはじぶんがやけしんだとおもうだろう、それでいっさいのけりがつく、)
佐八は自分が焼け死んだと思うだろう、それで一切のけりがつく、
(けりをつけるときがきたのだ。)
けりをつけるときが来たのだ。
(そんなふうにおもいながら、ふときがつくと、さんやのうちのまえにたっていた。)
そんなふうに思いながら、ふと気がつくと、山谷のうちの前に立っていた。
(ーーそれからのあたしは、ほんとうのあたしじゃあなく、)
ーーそれからのあたしは、本当のあたしじゃあなく、
(べつのにんげんになったようなきもちでした。)
べつの人間になったような気持でした。
(ほんとうのじぶんはさはちのところにいる、ここにいるのはじぶんとはちがうにんげんだ、)
本当の自分は佐八のところにいる、ここにいるのは自分とは違う人間だ、
(おなかはそうおもった。)
おなかはそう思った。
(じじつ、それからはふぬけにでもなったようで、)
事実、それからは腑抜(ふぬ)けにでもなったようで、
(おやのいうままにそのおとことふうふになり、ほんじょのほうでせたいをもった。)
親の云うままにその男と夫婦になり、本所のほうで世帯をもった。