「こころ」1-9 夏目漱石
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問題文
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(わたくしはそれからときどきせんせいをほうもんするようになった。)
私はそれから時々先生を訪問するようになった。
(いくたびにせんせいはざいたくであった。せんせいにあうどすうがかさなるにつれて、)
行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるにつれて、
(わたくしはますますしげくせんせいのげんかんへあしをはこんだ。)
私はますます繁く先生の玄関へ足を運んだ。
(けれどもせんせいのわたくしにたいするたいどははじめてあいさつをしたときも、)
けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶をした時も、
(こんいになったそのあとも、あまりかわりはなかった。)
懇意になったその後も、あまり変りはなかった。
(せんせいはいつもしずかであった。あるときはしずかすぎてさびしいくらいであった。)
先生は何時も静かであった。ある時は静か過ぎて淋しいくらいであった。
(わたくしはさいしょからせんせいにはちかづきがたいふしぎがあるようにおもっていた。)
私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。
(それでいて、どうしてもちかづかなければいられないというかんじが、)
それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、
(どこかにつよくはたらいた。こういうかんじをせんせいにたいしてもっていたのは、)
どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたのは、
(おおくのひとのうちであるいはわたくしだけかもしれない。)
多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。
(しかしそのわたくしだけにはこのちょっかんがのちになってじじつのうえにしょうこだてられた)
しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられた
(のだから、わたくしはわかわかしいといわれても、ばかげているとわらわれても、)
のだから、私は若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、
(それをみこしたじぶんのちょっかんをとにかくたのもしくまたうれしくおもっている。)
それを見越した自分の直感をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。
(にんげんをあいしうるひと、あいせずにはいられないひと、)
人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、
(それでいてじぶんのふところにはいろうとするものを、てをひろげてだきしめることの)
それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の
(できないひと、ーーこれがせんせいであった。)
できない人、ーーこれが先生であった。
(いまいったとおりせんせいはしじゅうしずかであった。おちついていた。)
今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。
(けれどもときとしてへんなくもりがそのかおをよこぎることがあった。)
けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。
(まどにくろいとりかげがさすように。さすかとおもうと、すぐにきえるにはきえたが。)
窓に黒い鳥影が射すように。射すかと思うと、すぐに消えるには消えたが。
(わたくしがはじめてそのくもりをせんせいのみけんにみとめたのは、ぞうしがやのぼちで、)
私が始めてその曇りを先生の眉間に認めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、
など
(ふいにせんせいをよびかけたときであった。わたくしはそのいようのしゅんかんに、)
不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間に、
(いままでこころよくながれていたしんぞうのちょうりゅうをちょっとにぶらせた。)
今まで快く流れていた心臓の潮流をちょっと鈍らせた。
(しかしそれはたんにいちじのけったいにすぎなかった。)
しかしそれは単に一時の結滞に過ぎなかった。
(わたくしのこころはごふんとたたないうちにへいそのだんりょくをかいふくした。)
私の心は五分と経たないうちに平素の弾力を回復した。
(わたくしはそれぎりくらそうなこのくものかげをわすれてしまった。)
私はそれぎり暗そうなこの雲の影を忘れてしまった。
(ゆくりなくまたそれをおもいださせられたのは、こはるのつきるにまのない)
ゆくりなくまたそれを思い出させられたのは、小春の尽きるに間のない
(あるばんのことであった。)
或る晩の事であった。