「こころ」1-25 夏目漱石
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問題文
(ぞうしがやにあるだれだかわからないひとのはか、)
雑司ヶ谷にある誰だか分からない人の墓、
(ーーこれもわたくしのきおくにときどきうごいた。)
ーーこれも私の記憶に時々動いた。
(わたくしはそれがせんせいとふかいえんこのあるはかだということをしっていた。)
私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。
(せんせいのせいかつにちかづきつつありながら、ちかづくことのできないわたくしは、)
先生の生活に近づきつつありながら、近づく事のできない私は、
(せんせいのあたまのなかにあるいのちのだんぺんとして、そのはかをわたくしのあたまのなかにもうけいれた。)
先生の頭の中にある生命の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。
(けれどもわたくしにとってそのはかはまったくしんだものであった。)
けれども私にとってその墓は全く死んだものであった。
(ふたりのあいだにあるいのちのとびらをあけるかぎにはならなかった。)
二人の間にある生命の扉を開ける鍵にはならなかった。
(むしろふたりのあいだにたって、じゆうのおうらいをさまたげるまもののようであった。)
むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。
(そうこうしているうちに、わたくしはまたおくさんとさしむかいで)
そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差向いで
(はなしをしなければならないじきがきた。)
話をしなければならない時機が来た。
(そのころはひのつまっていくせわしないあきに、だれもちゅういをひかれる)
その頃は日の詰って行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる
(はださむのきせつであった。)
肌寒の季節であった。
(せんせいのふきんでとうなんにかかったものがさん、よっかつづいてでた。)
先生の附近で盗難に罹ったものが三、四日続いて出た。
(とうなんはいずれもよいのくちであった。)
盗難はいずれも宵の口であった。
(たいしたものをもっていかれたうちはほとんどなかったけれども、)
大したものを持って行かれた家はほとんどなかったけれども、
(はいられたところではかならずなにかとられた。)
はいられた所では必ず何か取られた。
(おくさんはきみをわるくした。)
奥さんは気味をわるくした。
(そこへせんせいがあるばんいえをあけなければならないじじょうができてきた。)
そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情ができてきた。
(せんせいとどうきょうのゆうじんでちほうのびょういんにほうしょくしているものがじょうきょうしたため、)
先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、
(せんせいはほかのに、さんめいとともに、あるところでそのゆうじんにめしをくわせなければ)
先生は外の二、三名と共に、ある所でその友人に飯を食わせなければ
(ならなくなった。)
ならなくなった。
(せんせいはわけをはなして、わたくしにかえってくるあいだまでのるすばんをたのんだ。)
先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。
(わたくしはすぐひきうけた。)
私はすぐ引き受けた。
(わたくしのいったのはまだひのつくかつかないくれがたであったが、)
私の行ったのはまだ灯の点くか点かない暮方であったが、
(きちょうめんなせんせいはもううちにいなかった。)
几帳面な先生はもう宅にいなかった。
(「じかんにおくれるとわるいって、ついいましがたでかけました」)
「時間に後れると悪いって、つい今しがた出掛けました」
(といったおくさんは、わたくしをせんせいのしょさいへあんないした。)
といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。
(しょさいにはてーぶるといすのほかに、たくさんのしょもつがうつくしいせがわをならべて、)
書斎には洋机と椅子の外に、沢山の書物が美しい背皮を並べて、
(がらすごしにでんとうのひかりでてらされていた。)
硝子越に電燈の光で照らされていた。
(おくさんはひばちのまえにしいたざぶとんのうえへわたくしをすわらせて、)
奥さんは火鉢の前に敷いた座蒲団の上へ私を坐らせて、
(「ちっとそこいらにあるほんでもよんでいてください」)
「ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さい」
(とことわってでていった。わたくしはちょうどしゅじんのかえりをまちうける)
と断って出て行った。私はちょうど主人の帰りを待ち受ける
(きゃくのようなきがしてすまなかった。)
客のような気がして済まなかった。