「野分」夏目漱石 2

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とても長いです。
夏目漱石の小説「野分」のタイピングです。

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(どうやのみたびさったのは、このんでみずからきゅうちにおちいるためではない。つみも)

道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥るためではない。罪も

(ないさいにくろうをかけるためではなおさらない。せけんがおのれをいれぬから)

ない妻に苦労を掛けるためではなおさらない。世間が己れを容れぬから

(しかたがないのである。よがいれぬならなぜこちらからよにいれられよう)

仕方がないのである。世が容れぬならなぜこちらから世に容れられよう

(とはせぬ?よにいれられようとするせつなにどうやはきれいにしょうめつしてしまう)

とはせぬ? 世に容れられようとする刹那に道也は奇麗に消滅してしまう

(からである。どうやはじんかくにおいてりゅうぞくよりたかいとじしんしている。りゅうぞくより)

からである。道也は人格において流俗より高いと自信している。流俗より

(たかければたかいほど、ひくいもののてをひいて、たかいほうへみちびいてやるのが)

高ければ高いほど、低いものの手を引いて、高い方へ導いてやるのが

(せきにんである。たかいとしりながらもひくきにつくのは、みずからたねんのきょういくを)

責任である。高いと知りながらも低きにつくのは、自から多年の教育を

(うけながら、このきょういくのけっかがもたらしたざいほうをゆかしたにうずむるような)

受けながら、この教育の結果がもたらした財宝を床下に埋むるような

(ものである。じぶんのじんかくをほかにおよぼさぬいじょうは、せっかくにきずきあげた)

ものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、せっかくに築き上げた

(じんかくは、きずきあげぬむかしとおなじくむくりきで、きずきあげたろうりょくだけをとひした)

人格は、築きあげぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力だけを徒費した

(わけになる。えいごをおしえ、れきしをおしえ、あるときはりんりさえおしえたのは、)

訳になる。英語を教え、歴史を教え、ある時は倫理さえ教えたのは、

(じんかくのしゅうようにふずいしてたくわえられた、げいをおしえたのである。たんに)

人格の修養に附随して蓄えられた、芸を教えたのである。単に

(このげいをもくてきにしてがくもんをしたならば、きょうじょうでしょもつをひらいてさえいれば)

この芸を目的にして学問をしたならば、教場で書物を開いてさえいれば

(すむ。しょもつをひらいてめしをくってまんぞくしているのはつなわたりがつなをわたって)

済む。書物を開いて飯を食って満足しているのは綱渡りが綱を渡って

(めしをくい、さらまわしがさらをまわしてめしをくうのとりろんにおいてことなる)

飯を食い、皿廻しが皿を廻わして飯を食うのと理論において異なる

(ところはない。がくもんはつなわたりやさらまわしとはちがう。げいをおぼえるのはすえのこと)

ところはない。学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事

(である。にんげんができあがるのがもくてきである。だいしょうのくべつのつく、けいちょうのとうさ)

である。人間が出来上るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差

(をしる、こうおのはんぜんする、ぜんあくのぶんかいをのみこんだ、けんぐ、しんぎ、せいじゃの)

を知る、好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の

(ひはんをあやまらざるだいじょうぶができあがるのがもくてきである。)

批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。

(どうやはこうかんがえている。だからげいをうってくちをこするのをちじょくとせぬと)

道也はこう考えている。だから芸を售って口を糊するのを恥辱とせぬと

など

(どうじに、がくもんのこんていたるりっきゃくちをはなるるのをふかくろうれつとこころえた。かれが)

同時に、学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋劣と心得た。彼が

(いたるところにいれられぬのは、がくもんのほんたいにこんきょちをかまえてのうえのきょしゅうである)

至る所に容れられぬのは、学問の本体に根拠地を構えての上の去就である

(から、かれじしんはうちにかえりみてやましいところもなければ、いくじがないとも)

から、彼自身は内に顧みて疚しいところもなければ、意気地がないとも

(おもいつかぬ。がんぐなどというちょうばは、てのひらへのせて、なつのひのなんけんに、)

思いつかぬ。頑愚などと云う嘲罵は、掌へ載せて、夏の日の南軒に、

(むしめがねでけんさしてもりょうかいができん。)

虫眼鏡で検査しても了解が出来ん。

(さんどきょうしとなってさんどおいだされたかれは、おいだされるたびに)

三度教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに

(はかせよりもいだいなてがらをたてたつもりでいる。はかせはえらかろう、しかし)

博士よりも偉大な手柄を立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかし

(たかがげいでとるしょうごうである。ふごうがせいかんひをけんのうしてじゅごいをちょうだい)

たかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従五位をちょうだい

(するのとたいしたかわりはない。どうやがおいだされたのはどうやのじんぶつがたかい)

するのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高い

(からである。ただしきひとはかみのつくれるすべてのうちにてもっともとうときものなり)

からである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなり

(とはにしのくにのしじんのことばだ。みちをまもるものはかみよりもたっとしとはどうやが)

とは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは神よりも貴しとは道也が

(おわるるごとにこころのうちでくりかえすもんくである。ただしさいくんはかつて)

追わるるごとに心のうちで繰り返す文句である。ただし妻君はかつて

(このもんくをどうやのくちからきいたことがない。きいてもわかるまい。)

この文句を道也の口から聞いた事がない。聞いても分かるまい。

(わからねばこそうえじにもせぬさきから、おっとにたいしてふへいなのである。)

わからねばこそ餓え死にもせぬ先から、夫に対して不平なのである。

(ふへいなつまをきのどくとおもわぬほどのどうやではない。ただつまのかんしんをえる)

不平な妻を気の毒と思わぬほどの道也ではない。ただ妻の歓心を得る

(ためにわがいくみちをまげぬだけがふつうのおっととちがうのである。よはたんに)

ために吾が行く道を曲げぬだけが普通の夫と違うのである。世は単に

(ひととよぶ。めとればおっとである。まじわればともである。てをひけばあに、ひかるれば)

人と呼ぶ。娶れば夫である。交われば友である。手を引けば兄、引かるれば

(おとうとである。しゃかいにたてばせんかくしゃにもなる。こうしゃにはいればきょうしにちがいない。)

弟である。社会に立てば先覚者にもなる。校舎に入れば教師に違いない。

(さるをたんにひととよぶ。ひととよんでことたるほどのせけんならたんじゅんである。)

さるを単に人と呼ぶ。人と呼んで事足るほどの世間なら単純である。

(さいくんはつねにこのたんじゅんなせかいにすんでいる。さいくんのせかいにはおっととしての)

妻君は常にこの単純な世界に住んでいる。妻君の世界には夫としての

(どうやのほかにはがくしゃとしてのどうやもない、ししとしてのどうやもない。)

道也のほかには学者としての道也もない、志士としての道也もない。

(みちをまもりぞくにこうするどうやはなおさらない。おっとがいくさきざきでひょうばんが)

道を守り俗に抗する道也はなおさらない。夫が行く先き先きで評判が

(わるくなるのは、おっとのさいがたらぬからで、いたるところにしょくをじするのは、みずから)

悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、到る所に職を辞するのは、自から

(もとむるすいきょうにほかならんとまでかんがえている。)

求むる酔興にほかならんとまで考えている。

(すいきょうをみたびかさねて、とうきょうへでてきたどうやは、もういなかへはいかぬと)

酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田舎へは行かぬと

(いいだした。きょうしももうやらぬとさいくんにうちあけた。がっこうにあいそを)

言い出した。教師ももうやらぬと妻君に打ち明けた。学校に愛想を

(つかしたかれは、あいそをつかしたしゃかいじょうたいをきょうせいするにはふでのちからによらねば)

つかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯正するには筆の力によらねば

(ならぬとさとったのである。いままではいずこのはてで、どんなしょくぎょうをしよう)

ならぬと悟ったのである。今まではいずこの果てで、どんな職業をしよう

(とも、おのれさえまっすぐであればまがったものはおがらのようにむこうでおれべき)

とも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻のように向うで折れべき

(ものとこころえていた。せいめいはわがのぞむところではない。いぼうもわがほっする)

ものと心得ていた。盛名はわが望むところではない。威望もわが欲する

(ところではない。ただわがじんかくのちからで、みらいのこくみんをかたちづくるせいねんに、)

ところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、

(こうじょうのまなこをひらかしむるため、しゅしゃふんべつのこうれいをじかしんじょうにしめせばたる)

向上の眼を開かしむるため、取捨分別の好例を自家身上に示せば足る

(とのみおもいこんで、おもいこんだとおりをろくねんあまりじっこうして、みごとにしっぱいした)

とのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗した

(のである。わたるせけんにおにはないというから、どうじょうはただしきところ、たかきところ、)

のである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、

(もののりくつのよくわかるところにあつまるとはやがてんして、このとしつきをこんどこそ、)

物の理窟のよく分かる所に聚まると早合点して、この年月を今度こそ、

(こんどこそ、とけいけんのたらぬわがみに、まちうけたのはしょうがいのあやまりである。)

今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。

(よはわがおもうほどにこうしょうなものではない、かんしきのあるものでもない。)

世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。

(どうじょうとはつよきもの、とめるものにのみしたがうかげにほかならぬ。)

同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。

(ここまですすんでおらぬよをかいかぶって、いっそくとびにいなかへいったのは、)

ここまで進んでおらぬ世を買い被って、一足飛びに田舎へ行ったのは、

(じならしをせぬじめんのうえへじょうぶなうちをたてようとあせるようなものだ。)

地ならしをせぬ地面の上へ丈夫な家を建てようとあせるようなものだ。

(たてかけるがはやいか、かぜといいあめというくせものがきてこわしてしまう。)

建てかけるが早いか、風と云い雨と云う曲者が来て壊してしまう。

(じならしをするか、あめかぜをたいじるかせぬうちは、おちついてこのよに)

地ならしをするか、雨風を退治るかせぬうちは、落ちついてこの世に

(すめぬ。おちついてすめぬよをすめるようにしてやるのがてんかのしの)

住めぬ。落ちついて住めぬ世を住めるようにしてやるのが天下の士の

(しごとである。)

仕事である。

(かねもいきおいもないものがてんかのしにはじぬじぎょうをなすにはふでのちからにたよらねば)

金も勢もないものが天下の士に恥じぬ事業を成すには筆の力に頼らねば

(ならぬ。したのたすけをからねばならぬ。のうみそをあっさくしてりたのちえを)

ならぬ。舌の援を藉らねばならぬ。脳味噌を圧搾して利他の智慧を

(しぼらねばならぬ。のうみそはかれる、したはただれる、ふではなんぼんでもおれる、)

絞らねばならぬ。脳味噌は涸れる、舌は爛れる、筆は何本でも折れる、

(それでもよのなかがいうことをきかなければそれまでである。)

それでも世の中が云う事を聞かなければそれまでである。

(しかしてんかのしといえどもくわずにははたらけない。よしじぶんだけは)

しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは

(くわんですむとしても、さいはくわずにしんぼうするきづかいはない。ゆたかにさいを)

食わんで済むとしても、妻は食わずに辛抱する気遣はない。豊かに妻を

(やしなわぬおっとは、さいのめからみればたいざいにんである。ことしのはる、いなかから)

養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である。今年の春、田舎から

(でてきて、しばことひらちょうのやすやどへついたとき、どうやとさいくんのあいだにはこんな)

出て来て、芝琴平町の安宿へ着いた時、道也と妻君の間にはこんな

(かいわがおこった。)

会話が起った。

(「きょうしをおやめなさるって、これからなにをなさるおつもりですか」)

「教師をおやめなさるって、これから何をなさるおつもりですか」

(「べつにこれというつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう」)

「別にこれと云うつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう」

(「そのうちどうかなるだろうって、それじゃまるでくもをつかむようなはなし)

「その内どうかなるだろうって、それじゃまるで雲を攫むような話し

(じゃありませんか」「そうさな。あんまりはんぜんとしちゃいない」)

じゃありませんか」「そうさな。あんまり判然としちゃいない」

(「そうのんきじゃこまりますわ。あなたはおとこだからそれでようござんしょうが、)

「そう呑気じゃ困りますわ。あなたは男だからそれでようござんしょうが、

(ちっとはわたしのみにもなってみてくださらなくっちゃあ・・・・・・」「だからさ、)

ちっとは私の身にもなって見て下さらなくっちゃあ……」「だからさ、

(もういなかへはいかない、きょうしにもならないことにきめたんだよ」)

もう田舎へは行かない、教師にもならない事にきめたんだよ」

(「きめるのはごかってですけれども、きめたってげっきゅうがとれなけりゃ)

「きめるのは御勝手ですけれども、きめたって月給が取れなけりゃ

(しかたがないじゃありませんか」「げっきゅうがとれなくってもかねがとれれば、)

仕方がないじゃありませんか」「月給がとれなくっても金がとれれば、

(よかろう」「かねがとれれば・・・・・・そりゃようござんすとも」「そんなら、)

よかろう」「金がとれれば……そりゃようござんすとも」「そんなら、

(いいさ」「いいさって、おかねがとれるんですか、あなた」「そうさ、)

いいさ」「いいさって、御金がとれるんですか、あなた」「そうさ、

(まあとれるだろうとおもうのさ」「どうして?」「そこはいまかんがえちゅうだ。)

まあ取れるだろうと思うのさ」「どうして?」「そこは今考え中だ。

(そうちゃく、そうそうけいかくがたつものか」「だからしんぱいになるんですわ。いくら)

そう着、早々計画が立つものか」「だから心配になるんですわ。いくら

(とうきょうにいるときめたって、きめただけのしあんじゃしかたがないじゃ)

東京にいるときめたって、きめただけの思案じゃ仕方がないじゃ

(ありませんか」「どうもおまえはむやみにしんぱいしょうでいけない」「しんぱいも)

ありませんか」「どうも御前はむやみに心配性でいけない」「心配も

(しますわ、どこへいらしってもおりあいがわるくっちゃ、おやめになる)

しますわ、どこへいらしっても折合がわるくっちゃ、おやめになる

(んですもの。わたしがしんぱいしょうなら、あなたはよっぽどかんしゃくもちですわ」)

んですもの。私が心配性なら、あなたはよっぽど癇癪持ちですわ」

(「そうかもしれない。しかしおれのかんしゃくは・・・・・・まあ、いいや。)

「そうかも知れない。しかしおれの癇癪は……まあ、いいや。

(どうにかとうきょうでくえるようにするから」「おあにいさんのところへいらしって)

どうにか東京で食えるようにするから」「御兄おあにいさんの所へいらしって

(おたのみなすったら、どうでしょう」「うん、それもいいがね。あにはいったいひとの)

御頼みなすったら、どうでしょう」「うん、それも好いがね。兄はいったい人の

(せわなんかするおとこじゃないよ」「あら、そうなんでもひとりできめておしまいに)

世話なんかする男じゃないよ」「あら、そう何でも一人できめて御おしまいに

(なるからわるいんですわ。きのうもあんなにしんせつにいろいろいってくださった)

なるから悪るいんですわ。昨日もあんなに親切にいろいろ言って下さった

(じゃありませんか」「きのうか。きのうはいろいろせわをやくようなことをいった。)

じゃありませんか」「昨日か。昨日はいろいろ世話を焼くような事を言った。

(いったがね・・・・・・」「いってもいけないんですか」「いけなかないよ。いうのは)

言ったがね……」「言ってもいけないんですか」「いけなかないよ。言うのは

(けっこうだが・・・・・・あんまりあてにならないからな」「なぜ?」「なぜって、その)

結構だが……あんまり当てにならないからな」「なぜ?」「なぜって、その

(うちだんだんわかるさ」「じゃおともだちのかたにでもねがって、あしたからでもうんどうを)

内だんだんわかるさ」「じゃ御友達の方にでも願って、あしたからでも運動を

(なすったらいいでしょう」「ともだちってべつにともだちなんかありゃしない。どうきゅうせいは)

なすったらいいでしょう」「友達って別に友達なんかありゃしない。同級生は

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