戯作三昧（五）

(にんげんもまたすくなかったのである。そうして、このこういのうえではまったくはんたいに)

人間もまた少なかったのである。そうして、この行為の上では全く反対に

(おもわれるふたつのけっかが、じつはおなじげんいんーーおなじしんけいさようからきている)

思われる二つの結果が、実は同じ原因ーー同じ神経作用から来ている

(というじじつにも、もちろんかれはとうからきがついていた。)

という事実にも、もちろん彼はとうから気がついていた。

(「しかし、おれをふかいにするものは、まだほかにもある。それはおれがあのすがめと、)

「しかし、己を不快にするものは、まだほかにもある。それは己があの眇と、

(たいこうするようないちにおかれたということだ。おれはむかしからそういういちに)

対抗するような位置に置かれたということだ。己は昔からそういう位置に

(みをおくことをこのまない。しょうぶごとをやらないのも、そのためだ。」)

身を置くことを好まない。勝負事をやらないのも、そのためだ。」

(ここまでぶんせきしてきたかれのあたまは、さらにいっぽをすすめるとどうじに、おもいもよらない)

ここまで分析して来た彼の頭は、さらに一歩を進めると同時に、思いもよらない

(へんかを、きぶんのうえにおこさせた。それはかたくむすんでいたかれのくちびるが、このとき)

変化を、気分の上に起させた。それはかたくむすんでいた彼の唇が、この時

(きゅうにゆるんだのをみても、しれることであろう。)

急にゆるんだのを見ても、知れることであろう。

(「さいごに、そういういちへおれをおいたあいてが、あのすがめだというじじつも、)

「最後に、そういう位置へ己を置いた相手が、あの眇だという事実も、

(たしかにおれをふかいにしている。もしあれがもうすこしこうとうなあいてだったら、おれは)

確かに己を不快にしている。もしあれがもう少し高等な相手だったら、己は

(このふかいをはんぱつするだけの、はんこうしんをおこしていたのにそういない。なににしても、)

この不快を反撥するだけの、反抗心を起していたのに相違ない。何にしても、

(あのすがめがあいてでは、いくらおれでもへいこうするはずだ。」)

あの眇が相手では、いくら己でも閉口するはずだ。」

(ばきんはくしょうしながら、たかいそらをあおいだ。そのそらからは、ほがらかなとびのこえが、)

馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗かな鳶の声が、

(ひのひかりとともに、あめのごとくおちてくる。かれはいままでしずんでいたきぶんがしだいに)

日の光とともに、雨のごとく落ちて来る。彼は今まで沈んでいた気分が次第に

(かるくなってくることをいしきした。)

軽くなって来ることを意識した。

(「しかし、すがめがどんなあくひょうをたてようとも、それはせいぜい、おれをふかいに)

「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快に

(させるくらいだ。いくらとびがないたからといって、てんじつのあゆみがとまるものでは)

させるくらいだ。いくら鳶が鳴いたからといって、天日の歩みが止まるものでは

(ない。おれのはっけんでんはかならずかんせいするだろう。そうしてそのときは、にほんが)

ない。己の八犬伝は必ず完成するだろう。そうしてその時は、日本が

(ここんにひりんのないだいでんきをもつときだ。」)

古今に比倫のない大伝奇を持つ時だ。」

(かれはかいふくしたじしんをいたわりながら、ほそいこうじをしずかにいえのほうへまがっていった。)

彼は恢復した自信をいたわりながら、細い小路を静かに家の方へ曲って行った。