『愛』岡本かの子1【完】

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プレイ回数748難易度(4.5) 3765打 長文
男に恋する女の話
※分かりやすくする為、表記等を一部改変しております

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問題文

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(そのひとにまたあうまでは、とてもおもくるしくてきぐろうのおおいひと、)

その人にまた会うまでは、とても重苦しくて気苦労の多い人、

(もうめったにはあうまいとおもいます。そうおもえばさばさばして)

もう滅多には会うまいと思います。そう思えばサバサバして

(なんのこともなくふつうのつきひにもどり、まいにちさんじのおちゃもまちどおしいくらい)

なんの事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶も待ち遠しいくらい

(まちかねていただきます。にんげんのじゅみょうにふさわしい、よめいり、こそだて、)

待ち兼ねて頂きます。人間の寿命に相応しい、嫁入り、子育て、

(ろうごのだんどりなぞじみちにかんがえても、それをべつにとしよりじみた)

老後の段取りなぞ地道に考えても、それを別に年寄りじみた

(ふけこみようとはおもいません。ぬいばりのあなに、いとはたやすくとおります。)

老けこみようとは思いません。縫い針の穴に、糸はたやすく通ります。

(たたみざわりがすあしのうらに、さらさらときもちよくふれます。)

畳触りが素足の裏に、サラサラと気持ち良く触れます。

(きいろいきくなどをかってきて、かきにいけます。)

黄色い菊などを買ってきて、花器にいけます。

(そのひとにまたあうときには、なんだかよかんというようなものがございます。)

その人にまた会う時には、何だか予感というようなものがございます。

(ふと、ただこれだけのつきひ、ただこれだけのじぶんではというような)

ふと、ただこれだけの月日、ただこれだけの自分ではというような

(ふまんがおぼえられて、ばかばかしいきもちになりかけます。)

不満が覚えられて、バカバカしい気持ちになりかけます。

(けれども、おもえばそのきもちもまたばからしく、)

けれども、思えばその気持ちもまたバカらしく、

(こうしてたがいちがいにむねにうかぶことをうちけすさまは、)

こうして互い違いに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、

(ちょうどやみのよぞらのねおんでしょうか。みるうちに「あかのこつぶ」とでたり、)

ちょうど闇の夜空のネオンでしょうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、

(みるうちに「じんたん」とでたり、せわしないことです。)

見るうちに「ジンタン」と出たり、せわしないことです。

(そのうちきっと、そのひとにあうきかいがでてくるのでございます。)

そのうちきっと、その人に会う機会が出てくるのでございます。

(でかけるときは、やれやれまたおもくるしくきぐろうのおおいことと、)

出かける時は、やれやれまた重苦しく気苦労の多いことと、

(うんざりいたします。あってみるとおもいのほか、)

うんざりいたします。会ってみると思いのほか、

(あっさりしてしろいもののかんじがするひとでございます。)

あっさりして白いものの感じがする人でございます。

(ただそれにぬれぬれしたあわいあおみのかんじが、なしのはなびらのように)

ただそれに濡れ濡れした淡い青みの感じが、梨の花びらのように

など

(いろをさしているのが、わたしにはきっとじゃまになるのでございましょう。)

色を差しているのが、私にはきっと邪魔になるのでございましょう。

(そのひとはたいかくのよいからだを、しゃんとたてていすにこしかけ、)

その人は体格の良い体を、しゃんと立てて椅子に腰かけ、

(みぎひざをおりまげています。いつもなんだかわからないがっきをそのうえにのせて、)

右膝を折り曲げています。いつも何だか分からない楽器をその上に乗せて、

(かなでています。ふつうには、ほとんどきこえません。)

奏でています。普通には、ほとんど聞えません。

(わたしはははからとどけるようたのまれたしたてものをさしだします。)

私は母から届けるよう頼まれた仕立て物を差しだします。

(そのひとはもくれいしてうけとって、そばのつくえのうえにおきます。)

その人は目礼して受け取って、そばの机の上に置きます。

(そしててでさしずして、わたしをちょうどそのひとのまむこうのいすにかけさせて、)

そして手で指図して、私をちょうどその人の真向こうの椅子に掛けさせて、

(またがっきをかなでつづけます。そのひとはなにもいいません。)

また楽器を奏で続けます。その人は何も言いません。

(ほそいめのあいだからおだやかなひとみをしずかにわたしのむねのあたりになげて、)

細い目の間から穏やかな瞳を静かに私の胸の辺りに投げて、

(がっきをかなでます。わたしのふしぎなくるしみは、これからおこります。)

楽器を奏でます。私の不思議な苦しみは、これから起こります。

(そのひとのなかにはたしかに、じぶんもとけこまねばならぬかわがながれている。)

その人の中には確かに、自分も溶けこまねばならぬ川が流れている。

(それをだんだんとせまってかんじだすのです。けれどもそのひとは、)

それを段々とせまって感じだすのです。けれどもその人は、

(もぞうのかわでこしらえて、そのひょうめんにえなめるをぬり、)

模造の革でこしらえて、その表面にエナメルを塗り、

(ゆびではじくとぱかぱかあじけないおとのするひふでまとい、)

指ではじくとパカパカ味気ない音のする皮膚でまとい、

(あらわれたきがするのです。わたしのたましいはどこかにいりぐちはないかと、)

現れた気がするのです。私の魂はどこかに入口はないかと、

(そのひとのからだのまわりをさがしあるくようです。くるしくせつないいなずまが、)

その人の体の周りを探し歩くようです。苦しく切ない稲妻が、

(もぬけのわたしのからだのなかをかけめぐり、ところどころひふからむりなほうでんをするので、)

もぬけの私の体の中を駆けめぐり、所々皮膚から無理な放電をするので、

(いたいとりはだがたちます。とまどったわたしのたましいは、ときどきそのひとのくちびるとか)

痛い鳥肌が立ちます。戸惑った私の魂は、時々その人の唇とか

(ひたいとかにむかってうちあたっていくようです。)

額とかに向かって打ち当っていくようです。

(がいとうにはねかえされるよるのせみのように、わたしのたましいはすべりおちては)

外灯にはね返される夜のセミのように、私の魂は滑り落ちては

(にじむようなこえでなくようです。わたしはくるしみにたえかねて、)

にじむような声で鳴くようです。私は苦しみに堪え兼ねて、

(ひっしにりょうてをくみあわせ、わけのわからないあいがんのことばを)

必死に両手を組み合せ、訳の分からない哀願の言葉を

(くちのなかでつぶやきます。けれどもそのひとは、あいかわらずからだをしゃんとたて、)

口の中でつぶやきます。けれどもその人は、相変らず体をしゃんと立て、

(ほそいめのあいだからおだやかなひとみをわたしのむねになげたまま、)

細い目の間から穏やかな瞳を私の胸に投げたまま、

(ほとんどおとのきこえないがっきをかなでています。わたしのたましいはさいごに、)

ほとんど音の聞こえない楽器を奏でています。私の魂は最後に、

(そのひとのむなもとにむかってきばをたてます。かみやぶります。)

その人の胸元に向って牙を立てます。噛み破ります。

(ふときがつくと、わたしはしゅびよくそのひとのなかにとびこめて、)

ふと気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、

(かわにとけあったようです。かわはもうみえません。)

川に溶け合ったようです。川はもう見えません。

(わたしじしんがかわになったのでしょうか。なんだかわたしにはたくましいちからがみなぎり、)

私自身が川になったのでしょうか。何だか私には逞しい力がみなぎり、

(のはらのどこへでもすきほうだいにながれていけそうです。)

野原のどこへでも好き放題に流れていけそうです。

(あかるくてつよいにおいがつきあげるようなのはらです。)

明るくて強い匂いが突き上げるような野原です。

(もうわたしのかんがえには、よめいりもろうごのくろうもないのです。)

もう私の考えには、嫁入りも老後の苦労もないのです。

(いまおとこのだれしもがわたしにさわったら、じりりとやけうせてはいになりましょう。)

いま男の誰しもが私に触ったら、ジリリと焼け失せて灰になりましょう。

(そのことをおとこたちにしらせたいです。なのにそのひとはもとのまま、)

そのことを男達に知らせたいです。なのにその人は元のまま、

(しずかにがっきをかなでています。ただこんどのわたしは、だいぶつのなかにはいった)

静かに楽器を奏でています。ただ今度の私は、大仏の中に入った

(けんぶつにんのように、そのひとをうちがわからながめるだけです。)

見物人のように、その人を内側から眺めるだけです。

(がっきのおとがはじめてたかくきこえます。それはみずのせせらぎのようにたのしいおとです。)

楽器の音が初めて高く聞えます。それは水のせせらぎのように楽しい音です。

(わたしはそこから、またふたたびもとのじぶんにもどるのにひとくろうします。)

私はそこから、また再び元の自分に戻るのに一苦労します。

(うみのようにふかく、やまのようにたかいさびしさをこえねばなりません。)

海のように深く、山のように高い寂しさを越えねばなりません。

(しかしわたしにとって、こういうきせきてきなそんざいのひとが、)

しかし私にとって、こういう奇跡的な存在の人が、

(せけんではわたしのははのやすいしたてもののおとくいさまであって、)

世間では私の母の安い仕立て物のお得意様であって、

(せいかがいしゃのかきゅうしゃいんで、まいにちびすけっとをまちなかにとどけてあるき、)

製菓会社の下級社員で、毎日ビスケットを町なかに届けて歩き、

(きゅうりょうがやすいひとであるとは、どうにもがってんがゆきませんです。)

給料が安い人であるとは、どうにも合点がゆきませんです。

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