陰翳礼讃 16 完結
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問題文
(このあいだなにかのざっしかしんぶんでいぎりすのおばあさんたちがぐちをこぼしているきじを)
この間何かの雑誌か新聞で英吉利のお婆さんたちが愚痴をこぼしている記事を
(よんだら、じぶんたちがわかいじぶんにはとしよりをたいせつにしていたわってやったのに)
読んだら、自分たちが若い時分には年寄りを大切にして労わってやったのに
(いまのむすめたちはいっこうわれわれをかまってくれない、ろうじんというとうすぎたないもののように)
今の娘たちは一向われ/\を構ってくれない、老人と云うと薄汚いもののように
(おもってそばへもよりつかない、むかしといまとはわかいもののきふうがたいへんちがったと)
思って傍へも寄りつかない、昔と今とは若い者の気風が大変違ったと
(なげいているので、どこのくにでもろうじんはおなじようなことをいうものだとかんしんしたが)
歎いているので、何処の国でも老人は同じようなことを云うものだと感心したが
(にんげんはとしをとるにしたがい、なにごとによらずいまよりはむかしのほうがよかったとおもいこむもの)
人間は年を取るに従い、何事に依らず今よりは昔の方がよかったと思い込むもの
(であるらしい。で、ひゃくねんまえのろうじんはにひゃくねんまえのじだいをしたい、)
であるらしい。で、百年前の老人は二百年前の時代を慕い、
(にひゃくねんまえのろうじんはさんびゃくねんまえのじだいをしたい、いつのじだいにもげんじょうに)
二百年前の老人は三百年前の時代を慕い、いつの時代にも現状に
(まんぞくすることはないわけだが、べっしてさいきんはぶんかのあゆみがきゅうげきであるうえに、)
満足することはない訳だが、別して最近は文化の歩みが急激である上に、
(わがくにはまたとくしゅなじじょうがあるので、いしんいらいのへんせんはそれいぜんの)
我が国はまた特殊な事情があるので、維新以来の変遷はそれ以前の
(さんびゃくねんごひゃくねんにもあたるであろう。などというわたしが、やはりろうじんのくちまねをする)
三百年五百年にも当るであろう。などという私が、やはり老人の口真似をする
(ねんぱいになったのがおかしいが、しかしげんだいのぶんかせつびがもっぱらわかいものにこびて)
年配になったのがおかしいが、しかし現代の文化設備が専ら若い者に媚びて
(だんだんろうじんにふしんせつなじだいをつくりつつあることはたしかなようにおもわれる。)
だん/\老人に不親切な時代を作りつゝあることは確かなように思われる。
(はやいはなしが、がいとうのじゅうじろをごうれいでよこぎるようになっては、もうろうじんはあんしんして)
早い話が、街頭の十字路を号令で横切るようになっては、もう老人は安心して
(まちへでることができない。じどうしゃでのりまわせるみぶんのものはいいけれども、)
町へ出ることが出来ない。自動車で乗り廻せる身分の者はいゝけれども、
(わたしなどでも、たまにおおさかへでると、こちらがわからむこうがわへわたるのに)
私などでも、たまに大阪へ出ると、此方側から向う側へ渡るのに
(こんしんのしんけいをきんちょうさせる。ごーすとっぷのしんごうにしてからが、つじの)
渾身の神経を緊張させる。ゴーストップの信号にしてからが、辻の
(まんなかにあるのはみよいが、おもいがけないよこっちょのそらにあおやあかのでんとうが)
真ん中にあるのは見よいが、思いがけない横っちょの空に青や赤の電燈が
(めいめつするのは、なかなかにみつけだしにくいし、ひろいつじだと、そくめんのしんごうを)
明滅するのは、中々に見つけ出しにくいし、廣い辻だと、側面の信号を
(しょうめんのしんごうとみちがえたりする。きょうとにこうつうじゅんさがたつようになっては)
正面の信号と見違えたりする。京都に交通巡査が立つようになっては
(もうおしまいだとつくづくそうおもったことがあったが、こんにちじゅんにっぽんふうの)
もうおしまいだとつく/″\そう思ったことがあったが、今日純日本風の
(まちのじょうしゅは、にしのみや、さかい、わかやま、ふくやま、あのていどのとしへ)
町の情趣は、西宮、堺、和歌山、福山、あの程度の都市へ
(いかなければあじわわれない。たべるものでも、だいとかいではろうじんのくちにあうような)
行かなければ味わわれない。食べる物でも、大都会では老人の口に合うような
(ものをさがしだすのにほねがおれる。さきだってもしんぶんきしゃがきてなにかかわった)
ものを捜し出すのに骨が折れる。先だっても新聞記者が来て何か変った
(うまいりょうりのはなしをしろというから、よしののさんかんへきちのひとがたべるかきのはずしという)
旨い料理の話をしろと云うから、吉野の山間僻地の人が食べる柿の葉鮨と云う
(もののせいほうをかたった。ついでにここでひろうしておくが、こめいっしょうにつきさけいちごうの)
ものの製法を語った。ついでにこゝで披露しておくが、米一升に付酒一合の
(わりでめしをたく。さけはかまがふいてきたときにいれる。さてめしがむれたらかんぜんに)
割りで飯を焚く。酒は釜が噴いて来た時に入れる。さて飯がムレたら完全に
(ひえるまでさましたあとにてにしおをつけてかたくにぎる。このさいてにすこしでも)
冷えるまで冷ました後に手に塩をつけて固く握る。この際手に少しでも
(みずけがあってはいけない。しおばかりでにぎるのがひけつだ。それからべつに)
水気があってはいけない。塩ばかりで握るのが秘訣だ。それから別に
(さけのあらまきをうすくきり、それをめしのうえにのせて、そのうえからかきのはのおもてを)
鮭のアラマキを薄く切り、それを飯の上に載せて、その上から柿の葉の表を
(うちがわにしてつつむ。かきのはもさけもあらかじめかわいたふきんでじゅうぶんにみずけを)
内側にして包む。柿の葉も鮭もあらかじめ乾いたふきんで十分に水気を
(ふきとっておく。それができたら、すしおけでもめしびつでもいい、なかをからからに)
拭き取っておく。それが出来たら、鮨桶でも飯櫃でもいゝ、中をカラカラに
(かわかしておいて、こぐちからすきまのないようにすしをつめ、おしぶたをおいて)
乾かしておいて、小口から隙間のないように鮨を詰め、押蓋を置いて
(つけものいしぐらいなおもしをのせる。こんやつけたらよくあさあたりからたべることが)
漬物石ぐらいな重石を載せる。今夜漬けたら翌朝あたりからたべることが
(でき、そのひいちにちがもっともびみで、にさんにちはたべられる。たべるときにちょっと)
出来、その日一日が最も美味で、二三日は食べられる。食べる時にちょっと
(たでのはですをふりかけるのである。よしのへあそびにいったゆうじんがあまりうまいので)
蓼の葉で酢を振りかけるのである。吉野へ遊びに行った友人があまり旨いので
(つくりかたをおそわってきてでんじゅしてくれたのだが、かきのきとあらまきさえあれば)
作り方を教わって来て伝授してくれたのだが、柿の木とアラマキさえあれば
(どこでもこしらえられる。みずけをぜったいになくすることとめしをかんぜんにさますことさえ)
何処でも拵えられる。水気を絶対になくすることと飯を完全に冷ますことさえ
(わすれなければいいので、ためしにいえでつくってみると、なるほどうまい。)
忘れなければいゝので、試しに家で作ってみると、なるほどうまい。
(さけのあぶらとしおけとがいいあんばいにめしににじみこんで、さけはかえってなまみのように)
鮭の脂と塩気とがいゝ塩梅に飯に滲み込んで、鮭は却って生身のように
(やわらかくなっているぐあいがなんともいえない。とうきょうのにぎりずしとはかくべつなあじで、)
柔かくなっている工合が何とも云えない。東京の握り鮨とは格別な味で、
(わたしなどにはこのほうがくちにあうので、ことしのなつはこればかりたべてくらした。)
私などにはこの方が口に合うので、今年の夏はこればかり食べて暮らした。
(それにつけてもこんなしおざけのたべかたもあったのかと、ぶっしにとぼしい)
それにつけてもこんな塩鮭の食べかたもあったのかと、物資に乏しい
(さんかのひとのはつめいにかんしんしたが、そういういろいろのきょうどのりょうりをきいてみると、)
山家の人の発明に感心したが、そう云ういろ/\の郷土の料理を聞いてみると、
(げんだいではとかいのひとよりいなかのひとのみかくのほうがよっぽどたしかで、あるいみで)
現代では都会の人より田舎の人の味覚の方がよっぽど確かで、或る意味で
(われわれのそうぞうもおよばぬぜいたくをしている。そこでろうじんはおいおいとかいにみきりを)
われ/\の想像も及ばぬ贅沢をしている。そこで老人は追い/\都会に見切りを
(つけていなかへいんせいするのもあるが、いなかのまちもすずらんとうなどがとりつけられて、)
つけて田舎へ隠棲するのもあるが、田舎の町も鈴蘭燈などが取り附けられて、
(ねんねんきょうとのようになるので、そうあんしんしているわけにはいかない。いまにぶんめいが)
年々京都のようになるので、そう安心している訳には行かない。今に文明が
(いちだんとすすんだら、こうつうきかんはくうちゅうやちかへうつってまちのろめんはひとむかしまえのしずかさに)
一段と進んだら、交通機関は空中や地下へ移って町の路面は一と昔前の静かさに
(かえるというせつもあるが、いずれそのじぶんにはまたあたらしいろうじんいじめの)
復ると云う説もあるが、いずれその時分にはまた新しい老人いじめの
(せつびがうまれることはわかりきっている。けっきょくとしよりはひっこんでいろということに)
設備が生れることは分りきっている。結局年寄りは引っ込んでいろと云うことに
(なるので、じぶんのいえにちぢこまっててりょうりをさかなにばんしゃくをかたむけながら、)
なるので、自分の家にちゞこまって手料理を肴に晩酌を傾けながら、
(らじおでもきいているよりほかにしょざいがなくなる。ろうじんばかりがこんな)
ラジオでも聞いているより外に所在がなくなる。老人ばかりがこんな
(こごとをいうのかとおもうと、まんざらそうでもないとみえて、ころらいおおさかあさひの)
叱言を云うのかと思うと、満更そうでもないとみえて、頃来大阪朝日の
(てんせいじんごごは、ふのやくにんがみのおこうえんにどらいヴうぇーをつくろうとしてみだりに)
天声人語子は、府の役人が箕面公園にドライヴウェーを作ろうとして濫りに
(しんりんをきりひらき、やまをあさくしてしまうのをわらっているが、あれをよんで)
森林を伐り開き、山を浅くしてしまうのを嗤っているが、あれを読んで
(わたしはいささかいをつようした。おくふかいさんちゅうのきのしたやみをさえうばってしまうのは、)
私は聊か意を強うした。奥深い山中の木の下闇をさえ奪ってしまうのは、
(あまりといえばこころなきごうである。このちょうしだと、ならでも、)
あまりと云えば心なき業である。この調子だと、奈良でも、
(きょうとおおさかのこうがいでも、めいしょというめいしょはたいしゅうてきになるかわりに、だんだんそういう)
京都大阪の郊外でも、名所と云う名所は大衆的になる代りに、だん/\そう云う
(ふうにしてまるぼうずにされるのであろう。が、ようするにこれもぐちのいっしゅで、)
風にして丸坊主にされるのであろう。が、要するにこれも愚痴の一種で、
(わたしにしてもいまのじせいのありがたいことはまんまんしょうちしているし、いまさら)
私にしても今の時勢の有難いことは万々承知しているし、今更
(なんといったところで、すでににほんがせいようぶんかのせんにそうてあゆみだしたいじょう、)
何と云ったところで、既に日本が西洋文化の線に沿うて歩み出した以上、
(ろうじんなどはおきざりにしてゆうおうまいしんするよりほかにしかたがないが、でもわれわれの)
老人などは置き去りにして勇往邁進するより外に仕方がないが、でもわれ/\の
(ひふのいろがかわらないかぎり、われわれにだけかせられたそんはえいきゅうに)
皮膚の色が変らない限り、われ/\にだけ課せられた損は永久に
(せおっていくものとかくごしなければならぬ。もっともわたしがこういうことをかいた)
背負って行くものと覚悟しなければならぬ。尤も私がこう云うことを書いた
(しゅいは、なんらかのほうめん、たとえばぶんがくげいじゅつなどにそのそんをおぎなうみちが)
趣意は、何等かの方面、たとえば文学藝術等にその損を補う道が
(のこされていはしまいかとおもうからである。わたしは、われわれがすでにうしないつつある)
残されていはしまいかと思うからである。私は、われ/\が既に失いつゝある
(いんえいのせかいを、せめてぶんがくのりょういきへでもよびかえしてみたい。ぶんがくという)
陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という
(でんどうののきをふかくし、かべをくらくし、みえすぎるものをやみにおしこめ、)
殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、
(むようのしつないそうしょくをはぎとってみたい。それものきなみとはいわない、)
無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、
(いっけんぐらいそういういえがあってもよかろう。まあどういうぐあいになるか、)
一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、
(ためしにでんとうをけしてみることだ。)
試しに電燈を消してみることだ。