谷崎潤一郎 痴人の愛 38
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ゆうりん | 5729 | A | 5.8 | 97.5% | 1114.9 | 6556 | 168 | 99 | 2024/11/15 |
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問題文
(いっしゅんかん、わたしをとりまくからくりのいとがおどろくほどのめいりょうさであらわれました。)
一瞬間、私を取り巻くからくりの糸が驚く程の明瞭さで露われました。
(そこにはほとんど、わたしのようなたんじゅんなにんげんにはとうていそうぞうもできなかった、)
そこには殆ど、私のような単純な人間には到底想像も出来なかった、
(にじゅうにもさんじゅうにものうそがあり、ねんにはねんをいれたしめしあわせがあり、しかも)
二重にも三重にもの嘘があり、念には念を入れた謀し合わせがあり、しかも
(どれほどおおぜいのやつらがそのいんぼうにかたんしているかわからないくらい、それはふくざつに)
どれ程大勢の奴等がその陰謀に加担しているか分らないくらい、それは複雑に
(おもわれました。わたしはとつぜん、たいらな、あんぜんなじめんから、どしんとふかいおとしあなへ)
思われました。私は突然、平らな、安全な地面から、どしんと深い陥穽へ
(たたきおとされ、あなのそこから、たかいところをがやがやわらいながらとおっていくなおみや、)
叩き落され、穴の底から、高い所をガヤガヤ笑いながら通って行くナオミや、
(くまがいや、はまだや、せきや、そのたむすうのかげをうらやましそうにみおくっているのでした。)
熊谷や、浜田や、関や、その他無数の影を羨ましそうに見送っているのでした。
(「おかみさん、ぼくはこれからでかけてきますが、もしいきちがいにもどってきても、)
「おかみさん、僕はこれから出かけて来ますが、もし行き違いに戻って来ても、
(ぼくがかえってきたことはどうぞだまっていてください、すこしかんがえがあるんですから」)
僕が帰って来たことは何卒黙っていて下さい、少し考があるんですから」
(そういいすてて、わたしはおもてへとびだしました。)
そう云い捨てて、私は表へ飛び出しました。
(かいひんほてるのまえへでて、おしえられたみちを、なるべくくらいかげによりながら)
海浜ホテルの前へ出て、教えられた路を、成るべく暗い蔭に寄りながら
(たどっていきました。そこはりょうがわにおおきなべっそうのならんでいる、しんかんとした、)
辿って行きました。そこは両側に大きな別荘の並んでいる、森閑とした、
(よるはひとどおりのすくないまちで、いいあんばいにそうあかるくはありませんでした。)
夜は人通りの少い街で、いい塩梅にそう明るくはありませんでした。
(とあるもんとうのひかりのしたで、わたしはとけいをだしてみました。じゅうじがやっと)
とある門燈の光の下で、私は時計を出して見ました。十時がやっと
(まわったばかりのところでした。そのおおくぼのべっそうというのに、くまがいとふたりきりで)
廻ったばかりのところでした。その大久保の別荘というのに、熊谷と二人きりで
(いるのか、それともれいのごじょうれんとさわいでいるのか、とにかくげんばを)
いるのか、それとも例の御定連と騒いでいるのか、とにかく現場を
(つきとめてやりたい。もしできるならかれらにかんづかれないようにこっそり)
突き止めてやりたい。若し出来るなら彼等に感づかれないようにコッソリ
(しょうこをつかんできて、あとでかれらがどんなしらじらしいでまかせをいうか)
証拠を掴んで来て、あとで彼等がどんなしらじらしい出まかせを云うか
(ためしてやりたい。そしてうごきがとれないようにしておいて、とっちめて)
試してやりたい。そして動きが取れないようにして置いて、トッチメて
(やりたいとおもったので、わたしはほちょうをはやめていきました。)
やりたいと思ったので、私は歩調を早めて行きました。
(もくてきのいえはすぐわかりました。わたしはしばらくそのまえどおりをいったりきたりして、かまえの)
目的の家はすぐ分りました。私は暫くその前通を往ったり来たりして、構えの
(ようすをうかがいましたが、りっぱないしのもんのうちにはこんもりとしたうえこみがあり、)
様子を窺いましたが、立派な石の門の内にはこんもりとした植込みがあり、
(そのうえこみのあいだをぬうて、ずっとおくまったげんかんのほうへじゃりをしきつめたみちが)
その植込みの間を縫うて、ずっと奥まった玄関の方へ砂利を敷き詰めた道が
(あり、「おおくぼべってい」としるされたひょうさつのもじのふるさといい、ひろいにわを)
あり、「大久保別邸」と記された表札の文字の古さと云い、ひろい庭を
(かこんでいるこけのついたいしがきといい、べっそうというよりはねんすうをへたやしきのかんじで、)
囲んでいる苔のついた石垣と云い、別荘と云うよりは年数を経た屋敷の感じで、
(こんなところにこんなこうそうなていたくをもったくまがいのしんせきがあろうなどとは、)
こんな所にこんな宏壮な邸宅を持った熊谷の親戚があろうなどとは、
(おもえばおもうほどいがいでした。)
思えば思うほど意外でした。
(わたしはなるべく、じゃりにあしおとをひびかせないように、もんのなかへしのんでいきました。)
私は成る可く、砂利に足音を響かせないように、門の中へ忍んで行きました。
(なにぶんじゅもくがしげっているので、おうらいからはおもやのようすはよくは)
何分樹木が繁っているので、往来からは母屋の様子はよくは
(わかりませんでしたが、ちかよってみると、きみょうなことに、おもてげんかんもうらげんかんも、)
分りませんでしたが、近寄って見ると、奇妙なことに、表玄関も裏玄関も、
(にかいもしたも、そこからのぞまれるへやというへやはことごとくひっそりとして、)
二階も下も、そこから望まれる部屋と云う部屋は悉くひっそりとして、
(とがしまって、くらくなっているのです。)
戸が締まって、暗くなっているのです。
(「はてな、うらのほうにでもくまがやのへやがあるのじゃないか」)
「ハテナ、裏の方にでも熊谷の部屋があるのじゃないか」
(わたしはそうおもって、またあしおとをころしながら、おもやにそってうしろがわへまわりました。)
私はそう思って、又足音を殺しながら、母屋に添って後側へ廻りました。
(するとはたして、にかいのひとまと、そのしたにあるかってぐちに、あかりが)
すると果して、二階の一と間と、その下にある勝手口に、明りが
(ついているのでした。)
ついているのでした。
(そのにかいがくまがいのいまであることをしるには、たったひとめでじゅうぶんでした。)
その二階が熊谷の居間であることを知るには、たった一と目で十分でした。
(なぜかというのに、えんがわをみるとれいのふらっと・まんどりんがてすりに)
なぜかと云うのに、縁側を見ると例のフラット・マンドリンが手すりに
(よせかけてあるばかりか、ざしきのなかには、たしかにわたしのみおぼえがあるたすかんの)
寄せかけてあるばかりか、座敷の中には、たしかに私の見覚えがあるタスカンの
(なかおれぼうしがはしらにかかっていたからです。が、しょうじがあけはなされているのに、)
中折帽子が柱にかかっていたからです。が、障子が明け放されているのに、
(はなしごえひとつもれてこないので、いまそのへやにだれもいないことはあきらかでした。)
話声一つ洩れて来ないので、今その部屋にだれもいないことは明かでした。
(そういえばかってぐちのほうのしょうじも、いましがただれかがそこから)
そう云えば勝手口の方の障子も、今しがた誰かがそこから
(でていったらしく、やはりあけはなしになっていました。と、わたしのちゅういは、)
出て行ったらしく、矢張明け放しになっていました。と、私の注意は、
(かってぐちからじめんへさしているほのかなあかりをつたわって、ついにさんげんさきのところに)
勝手口から地面へさしている仄かな明りを伝わって、つい二三間先のところに
(うらもんのあるのをはっけんしました。もんはとびらがついていないふるいにほんのきのはしらで、)
裏門のあるのを発見しました。門は扉がついていない古い二本の木の柱で、
(はしらとはしらのあいだから、ゆいがはまにくだけるなみがやみにかっきりとしろいせんになってみえ、)
柱と柱の間から、由比ヶ浜に砕ける波が闇にカッキリと白い線になって見え、
(つよいうみのこうがおそってきました。)
強い海の香が襲って来ました。
(「きっとここからでていったんだな」)
「きっと此処から出て行ったんだな」
(そしてわたしがうらもんからかいがんへでるとほとんどどうじに、うたがうべくもないなおみのこえが)
そして私が裏門から海岸へ出ると殆ど同時に、疑うべくもないナオミの声が
(すぐときんじょできこえました。それがいままできこえなかったのは、おおかたかぜのかげんか)
すぐと近所で聞えました。それが今まで聞えなかったのは、大方風の加減か
(なにかだったのでしょう。)
何かだったのでしょう。
(「ちょっと!くつんなかへすながはいっちゃって、あるけやしないよ。だれかこのすなを)
「ちょっと!靴ン中へ砂が這入っちゃって、歩けやしないよ。誰かこの砂を
(とってくんない?・・・・・・・・・まあちゃん、あんたくつをぬがしてよ!」)
取ってくんない?・・・・・・・・・まアちゃん、あんた靴を脱がしてよ!」
(「いやだよ、おれあ。おれあおまえのどれいじゃあねえよ」)
「いやだよ、己あ。己あお前の奴隷じゃあねえよ」
(「そんなことをいうと、もうかわいがってやらないわよ。)
「そんなことを云うと、もう可愛がってやらないわよ。
(・・・・・・・・・じゃあはまさんはしんせつだわね、・・・・・・・・・ありがと、)
・・・・・・・・・じゃあ浜さんは親切だわね、・・・・・・・・・ありがと、
(ありがと、はまさんにかぎるわ、あたしはまさんがいちばんすきさ」)
ありがと、浜さんに限るわ、あたし浜さんが一番好きさ」
(「ちくしょう!ひとがいいとおもってばかにするない」)
「畜生!人が好いと思って馬鹿にするない」
(「あ、あっはははは!いやよはまさん、そんなにあしのうらをくすぐっちゃ!」)
「あ、あッはははは!いやよ浜さん、そんなに足の裏を擽っちゃ!」
(「くすぐっているんじゃないんだよ、こんなにすながついているから、)
「擽っているんじゃないんだよ、こんなに砂が附いているから、
(はらってやっているんじゃないか」)
払ってやっているんじゃないか」
(「ついでにそれをなめちゃったら、ぱぱさんになるぜ」)
「ついでにそれを舐めちゃったら、パパさんになるぜ」
(そういったのはせきでした。つづいてどっとしごにんのおとこのわらいごえがしました。)
そう云ったのは関でした。つづいてどっと四五人の男の笑い声がしました。
(ちょうどわたしのたっているばしょからさきゅうがだらだらとくだりざかになったあたりに、)
ちょうど私の立っている場所から沙丘がだらだらと降り坂になったあたりに、
(よしずばりのちゃみせがあって、こえはそのこやからきこえてくるのです。わたしとこやとの)
葭簀張りの茶店があって、声はその小屋から聞えて来るのです。私と小屋との
(かんかくはいつまとはなれていませんでした。まだかいしゃからかえったままのちゃのあるぱかの)
間隔は五間と離れていませんでした。まだ会社から帰ったままの茶のアルパカの
(せびろふくをきていたわたしは、うわぎのえりをたて、まえのぼたんをすっかりはめて、)
背広服を着ていた私は、上衣の襟を立て、前のボタンをすっかり嵌めて、
(からーとわいしゃつがめだたぬようにし、むぎわらぼうしをわきのしたにかくしました。)
カラーとワイシャツが目立たぬようにし、麦藁帽子を脇の下に隠しました。
(そしてみをかがめてはうようにしながら、こやのうしろのいどがわのかげへ)
そして身を屈めて這うようにしながら、小屋のうしろの井戸側の蔭へ
(ついとはしっていきましたが、とたんにかれらは、)
ついと走って行きましたが、とたんに彼等は、
(「さあ、もういいわよ、こんどはあっちへいってみようよ」)
「さあ、もういいわよ、今度は彼方へ行って見ようよ」
(と、なおみがおんどをとりながら、ぞろぞろつながってでてきました。)
と、ナオミが音頭を取りながら、ぞろぞろ繋がって出て来ました。
(かれらはわたしにはきがつかないで、こやのまえからなみうちぎわへおりていきました。)
彼等は私には気が付かないで、小屋の前から波打ち際へ降りて行きました。
(はまだにくまがいにせきになかむら、よにんのおとこはゆかたのきながしで、そのまんなかに)
浜田に熊谷に関に中村、四人の男は浴衣の着流しで、そのまん中に
(はさまったなおみは、くろいまんとをひっかけて、かかとのたかいくつをはいているのだけが)
挟まったナオミは、黒いマントを引っかけて、踵の高い靴を穿いているのだけが
(わかりました。かのじょはかまくらのやどのほうへ、まんとやくつをもってきては)
分りました。彼女は鎌倉の宿の方へ、マントや靴を持って来ては
(いないのですから、それはだれかのかりものにちがいありません。かぜがふくので)
いないのですから、それは誰かの借り物に違いありません。風が吹くので
(まんとのすそがぱたぱためくれそうになる、それをうちがわからりょうてでしっかりからだへ)
マントの裾がぱたぱためくれそうになる、それを内側から両手でしっかり体へ
(まきつけているらしく、あるくたびごとにまんとのなかでおおきなしりがまるくむっくりと)
巻きつけているらしく、歩く度毎にマントの中で大きな臀が円くむっくりと
(うごきます。そしてかのじょはよっぱらいのようなほちょうで、りょうほうのかたをさゆうのおとこに)
動きます。そして彼女は酔っ払いのような歩調で、両方の肩を左右の男に
(うっつけながら、わざとよろけていくのでした。)
打ッつけながら、わざとよろけて行くのでした。
(それまでじっとちいさくなっていきをこらしていたわたしは、かれらとのきょりがはんちょうぐらい)
それまでじっと小さくなって息をこらしていた私は、彼等との距離が半町ぐらい
(へだたって、しろいゆかたがとおくのほうにほんのちらちらみえるじぶん、はじめて)
隔たって、白い浴衣が遠くの方にほんのちらちら見える時分、始めて
(たちあがってそっとそのあとをおいました。さいしょかれらは、かいがんをまっすぐに、)
立ち上がってそっとその跡を追いました。最初彼等は、海岸を真っ直ぐに、
(ざいもくざのほうへいくのだろうかとおもわれましたが、ちゅうとでだんだんひだりへまがって、)
材木座の方へ行くのだろうかと思われましたが、中途でだんだん左へ曲って、
(まちのほうへでるすなやまをこえたようでした。かれらのすがたが、そのすなやまのむこうへ)
街の方へ出る沙山を越えたようでした。彼等の姿が、その沙山の向うへ
(かくれきってしまうと、わたしはきゅうにぜんそくりょくでやまへかけあがりはじめました。なぜなら)
隠れきってしまうと、私は急に全速力で山へ駈け上り始めました。なぜなら
(わたしは、ちょうどかれらのでるみちが、まつばやしのおおい、みをかくすのにくっきょうなものかげのある、)
私は、ちょうど彼等の出る路が、松林の多い、身を隠すのに究竟な物蔭のある、
(くらいべっそうがいであるのをしっていたので、そこならもっとそばへよっても、たぶん)
暗い別荘街であるのを知っていたので、そこならもっと傍へ寄っても、多分
(かれらにはっけんされるおそれはないとおもったからです。)
彼等に発見される恐れはないと思ったからです。
(おりるとたちまち、かれらのようきなうたごえがわたしのじだをうちました。それもそのはず、)
降りると忽ち、彼等の陽気な唄声が私の耳朶を打ちました。それもその筈、
(かれらはわずかごろっぽにたらぬところを、がっしょうしながらひょうしをとって)
彼等は僅か五六歩に足らぬところを、合唱しながら拍子を取って
(すすんでいくのです。)
進んで行くのです。
(just before the battle, mother,)
Just before the battle, mother,
(i am thinking most of you, ・・・・・・・・・)
I am thinking most of you, ・・・・・・・・・
(それはなおみがくちぐせにうたううたでした。くまがいはさきにたって、しきぼうをふるような)
それはナオミが口癖にうたう唄でした。熊谷は先に立って、指揮棒を振るような
(てつきをしています。なおみはやはりあっちへよろよろ、こっちへよろよろと、かたを)
手つきをしています。ナオミは矢張彼方へよろよろ、此方へよろよろと、肩を
(うっつけてあるいていきます。するとうっつけられたおとこも、ぼーとでも)
打ッつけて歩いて行きます。すると打ッつけられた男も、ボートでも
(こいでいるように、いっしょになってはしからはしへよろけていきます。)
漕いでいるように、一緒になって端から端へよろけて行きます。