卍 6

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プレイ回数29難易度(4.5) 6260打 長文
谷崎潤一郎 「卍」

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問題文

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(「あんたもなかなかすみいおけんなあ。」「ふふん、うちかって)

「あんたもなかなか隅い置けんなあ。」「ふふん、うちかって

(すこいよってなあ」と、みつこさんはくつくつわらわれて、「むこがわるいひとやったら)

スコイよってなあ」と、光子さんはくつくつ笑われて、「向が悪い人やったら

(こっちかってりようしてやらんとそんやわ。」「けど、あんたのほうがはだんになって、)

こっちかって利用してやらんと損やわ。」「けど、あんたの方が破談になって、

(しかいぎいんのいとはんもよろこんではるやろなあ。」「そしたらあんたは)

市会議員のいとはんもよろこんではるやろなあ。」「そしたらあんたは

(りょうほうからかんしゃしられるべきやわ」なんかと、おたがいにあれやこれや)

両方から感謝しられるべきやわ」なんかと、お互にあれやこれや

(いいあいまして、やまのうえでいちじかんいじょうもしゃべってました。わたしいままででも)

いい合いまして、山の上で一時間以上もしゃべってました。わたし今まででも

(わかくさやまいのぼったことなんべんでもありますけど、そんなにひいくれてしまうまで)

若草山い上ったこと何遍でもありますけど、そんなに日イ暮れてしまうまで

(やまのうえにいたことあれしませなんだのんで、あそこからゆうもやのけしき)

山の上にいたことあれしませなんだのんで、あそこから夕靄の景色

(みわたすのんは、ほんまにそのときがはじめでした。ついさっきまでまだそのへんに)

見わたすのんは、ほんまにその時が初めでした。ついさっきまでまだその辺に

(ひとがちらほらしてましたのんに、もうてっぺんからふもとまでだあれもひとのかげ)

人がチラホラしてましたのんに、もうてっぺんから麓までだあれも人の影

(ありません。そのひはわりにえらいひとででしたから、あのなだらかな、わかくさの)

ありません。その日は割にえらい人出でしたから、あのなだらかな、若草の

(はえたやまのなかほどには、べんとうのたべのこしや、みかんのかわや、まさむねのびんがいっぱい)

生えた山の中ほどには、弁当のたべ残しや、蜜柑の皮や、正宗の罎が一杯

(ちらかって、そらはまだうすあかいのに、あしのしたにはならのまちのひいちらちらして、)

散らかって、空はまだうす明いのに、足の下には奈良の町の灯イちらちらして、

(とおくのほうの、ちょうどわたしらのまあむこうのあたりには、いこまやまの)

遠くの方の、ちょうどわたしらの真ア向うのあたりには、生駒山の

(けーぶるかあのいるみねーしょんがずうっとじゅずのようにつながって、)

ケーブル・カアのイルミネーションがずうっと珠数のようにつながって、

(むらさきいろしたもやのあいだから、ところどころたえてはつづいてまたたいてます。)

紫色した靄のあいだから、ところどころ絶えては続いてまたたいてます。

(そのまたたいてるひかりみると、わたし、なんやしらんいきづまるように)

そのまたたいてる光見ると、わたし、何やしらん息詰まるように

(かんじたのんですが、「まあ、しらんあいだにばんになってしもて、さびしいわなあ」)

感じたのんですが、「まあ、知らん間に晩になってしもて、淋しいわなあ」

(と、みつこさんがいわれました。「ひとりやったらほんまにこおうていられへん)

と、光子さんがいわれました。「一人やったらほんまに恐うていられへん

(わなあ」いいますと、「すきなひととふたりだけやったらこんなさびしいところのほうが)

わなあ」いいますと、「好きな人と二人だけやったらこんな淋しい所の方が

など

(ええわ」と、そないいうてみつこさんはためいきついておられました。「うち)

ええわ」と、そないいうて光子さんはためいきついておられました。「うち

(あんたといっしょやったらいつまででもここでこないしてたいわ。」ーーわたしは)

あんたと一緒やったらいつまででも此処でこないしてたいわ。」ーーわたしは

(そのことばくちいはださんと、ゆうやみのなかにうずくまってあしなげだしてなさる)

その言葉口いは出さんと、夕闇のなかにうずくまって足投げ出してなさる

(みつこさんのよこがおながめてましたが、くらいのんでどんなひょうじょうしてなさるのんか)

光子さんの横顔眺めてましたが、暗いのんでどんな表情してなさるのんか

(わかりませなんだ。ただみつこさんのしろいたびのむこうに、だいぶつでんのきんのしゃちほこが)

分りませなんだ。ただ光子さんの白い足袋の向うに、大仏殿の金の鯱鉾が

(そらのうすあかりにそこびかりしてました。「おそうなったよってかえりまひょ」)

空のうすあかりに底光りしてました。「おそうなったよって帰りまひょ」

(いうて、そいからやまおりて、だいきまであるいていきましたらかれこれしちじに)

いうて、そいから山降りて、大軌まで歩いて行きましたらかれこれ七時に

(なってしまいました。「うちおなかへったけど、あんたどうする?」「きょうは)

なってしまいました。「うちお腹減ったけど、あんたどうする?」「きょうは

(はようかえらんといかんねんわならいいくともなんともいわんとでてきたよって」)

早う帰らんといかんねんわ奈良い行くとも何ともいわんと出て来たよって」

(と、みつこさんはじかんきいにしておられましたが、「そないいうたかてうち)

と、光子さんは時間気イにしておられましたが、「そないいうたかてうち

(もうぺこぺこやわ。おそなりついでやよってええやないか」いうて、むりに)

もうペコペコやわ。おそなりついでやよってええやないか」いうて、無理に

(ひっぱってようしょくやいはいりました。「あんたとこのだんなさん、おそなっても)

引っ張って洋食屋い這入りました。「あんたとこの旦那さん、おそなっても

(べつになんともいやはれへんか?」とごはんたべながらそんなはなしがでました。)

別に何ともいやはれへんか?」と御飯たべながらそんな話が出ました。

(「うちのあのひと、そんなことなんともかんしょうしやはれへん。それにうち、あんたと)

「うちのあの人、そんなこと何とも干渉しやはれへん。それにうち、あんたと

(なかようなったことちゃあんとはなしたあるわ。」「そしたらどないいやはった?」)

仲好うなったことちゃあんと話したあるわ。」「そしたらどないいやはった?」

(「うちがあんまりあんたのことばっかりいうよって、あのひというたら、そんな)

「うちがあんまりあんたのことばっかりいうよって、あの人いうたら、そんな

(きれいなひとやったらいっぺんおうてみたいなあ、いっそあそびにけえへんもんやろか)

綺麗な人やったら一ぺん会うてみたいなあ、いっそ遊びに来えへんもんやろか

(いうてはった。」「あんたのだんなさんいうたらやさしいひと?」「そらもう)

いうてはった。」「あんたの旦那さんいうたら優しい人?」「そらもう

(あのひとときたら、うちがどんなかってきままなことしてもなんともいやはれへんわ。)

あの人と来たら、うちがどんな勝手気儘な事してもなんともいやはれへんわ。

(けど、あんまりやさしいよって、ときによったらはりあいないのんで、ーー」わたし、)

けど、あんまり優しいよって、時によったら張合いないのんで、ーー」わたし、

(まだそのときまではじぶんのことはひとつもみつこさんにいうてなかったのんで、)

まだその時までは自分のことは一つも光子さんにいうてなかったのんで、

(おっととけっこんするようになったわけや、それから、あのう、いつやらのれんあいもんだいや、)

夫と結婚するようになった訳や、それから、あのう、いつやらの恋愛問題や、

(それについてせんせいにいろいろしんぱいしていただいたことまで、そのときすっくり)

それについて先生にいろいろ心配して戴いたことまで、その時すっくり

(いうてしまいました。みつこさんはわたしが、せんせいしってるいいましたら、)

いうてしまいました。光子さんはわたしが、先生知ってるいいましたら、

(「まあ、そうお?あんたしってんのん?」とびっくりしなさって、じぶんも)

「まあ、そうお? あんた知ってんのん?」とびっくりしなさって、自分も

(せんせいのしょうせつとてもすきやよって、いっぺんつれていってくれなされしませんか)

先生の小説とても好きやよって、一遍連れて行ってくれなされしませんか

(いうてなさったのんですが、いっつもこんどこそこんどこそといいながら、とうとう)

いうてなさったのんですが、いッつも今度こそ今度こそといいながら、とうとう

(そのままになってしもうたのんです。「ふうん、そしてあんた、もうそのひとと)

そのままになってしもうたのんです。「ふうん、そしてあんた、もうその人と

(こうさいしてへんのん?」と、みつこさんはいっしょけんめいにあのことききたがりなさって、)

交際してへんのん?」と、光子さんは一所懸命にあの事聞きたがりなさって、

(いまはもうこうさいしてえしませんといいますと、「なんでやのん?そんな、)

今はもう交際してえしませんといいますと、「なんでやのん? そんな、

(あんたのいうようにきよいこいやったらこうさいしてもええやないか。うちやったら、)

あんたのいうように清い恋やったら交際してもええやないか。うちやったら、

(れんあいとけっこんとはべつべつのようにおもうけどなあ」なんかいうて、「あんたのだんな)

恋愛と結婚とは別々のように思うけどなあ」なんかいうて、「あんたの旦那

(さん、そのことちょっともしりはれへんのん?」「ふん、そらうすうすかんじてた)

さん、その事ちょっとも知りはれへんのん?」「ふん、そらうすうす感じてた

(かもしれんけど、うちなんにもそのことについていうたことないし、とやかく)

かも知れんけど、うちなんにもその事についていうたことないし、とやかく

(もんだいになったようなことなかったわ。」「えらいしんようあるねんなあ。」)

問題になったようなことなかったわ。」「えらい信用あるねんなあ。」

(「それよりかうちのこといっそこどものようにおもうてるねんわ。そやよってうち)

「それよりかうちのこといっそ子供のように思うてるねんわ。そやよってうち

(きにいらんねんけど」と、わたしそういいました。)

気に入らんねんけど」と、わたしそういいました。

(そのばんいえいかえってみたらじゅうじちかくでしたのんで、「えらいおそかったなあ」)

その晩家い帰ってみたら十時近くでしたのんで、「えらいおそかったなあ」

(と、おっとはいつにのうけったいなかおして、なんやこうさびしそうにしてたのんが、)

と、夫はいつにのうけったいな顔して、何やこう淋しそうにしてたのんが、

(ちょっときのどくなきいしました。べつにわるいことしたわけでもなんでもないのんに、)

ちょっと気の毒な気イしました。別に悪いことした訳でも何でもないのんに、

(おっとがながいことまちくたぶれて、たったいまごはんすましたらしいようすみると、みょうに)

夫が長いこと待ちくたぶれて、たった今御飯すましたらしい様子見ると、妙に

(きがとがめました。そういうとまえ、こいびととおうてたじぶんにはようじゅうじすぎに)

気がとがめました。そういうと前、恋人と会うてた時分にはよう十時過ぎに

(かえってきたことありましたけど、このころになってこないにおそうなったこと)

帰って来たことありましたけど、この頃になってこないにおそうなったこと

(あれしませなんだ。そいでおっともちょっときいまわしたのんかもわかれしませんが、)

あれしませなんだ。そいで夫もちょっと気イ廻したのんかも分れしませんが、

(わたしじしんも、なんかしらんちょうどあのときとおなじようなきいしました。)

わたし自身も、何かしらんちょうどあの時と同じような気イしました。

(そうそう、そいからそのじぶんにあのいつぞやのかんのんさんのええ)

そうそう、そいからその時分にあのいつぞやの観音さんの絵エ

(でけあがりましたので、それおっとにみせたことありました。「ふうん、みつこさん)

出来上りましたので、それ夫にみせたことありました。「ふうん、光子さん

(いうたらこんなひとか。おまえにしたらこのええうもうでけすぎてるなあ」)

いうたらこんな人か。お前にしたらこの絵エうもう出来すぎてるなあ」

(と、おっとはばんごはんのときにそれたたみのうえいひろげて、ひととはしたべてはみ、)

と、夫は晩御飯のときにそれ畳の上い広げて、一と箸たべては見、

(ひととはしたべてはみいして、「これやったら、さもええにかいたようやけど、)

一と箸たべては見いして、「これやったら、さも絵エにかいたようやけど、

(ほんまにこのとおりかいな」と、あやしみながらねんおしました。「そらこのええ)

ほんまにこの通りかいな」と、あやしみながら念押しました。「そらこの絵エ

(もんだいになったくらいやもん、ようにてるわ。ほんとのみつこさんはこの)

問題になったくらいやもん、よう似てるわ。ほんとの光子さんはこの

(こうごうしさのうえにちょっとにくかんてきなとこあるねんけど、にほんがにしたらそのかんじが)

神々しさの上にちょっと肉感的なとこあるねんけど、日本画にしたらその感じが

(でえへんねん。」ーーそのええわたし、だいぶほねおりましたのんでじぶんでも)

出えへんねん。」ーーその絵エわたし、大分骨折りましたのんで自分でも

(ようかけてるとおもいました。おっとはしきりにけっさくやいいましたが、とにかく)

よう画けてると思いました。夫はしきりに傑作やいいましたが、とにかく

(わたしがええいうもんならいはじめてから、これほどいっしょけんめいに、きょうみもって)

わたしが絵エいうもん習い始めてから、これほど一所懸命に、興味以って

(かいたことはあれしませなんだ。「いっそこのええひょうぐしてもろたら)

画いたことはあれしませなんだ。「いっそこの絵エ表具してもろたら

(どうやねん。それでそれがでけあがってから、みつこさんにみにきてもろたら)

どうやねん。それでそれが出来上ってから、光子さんに見に来てもろたら

(ええやないか」と、おっとがいいますのんで、わたしもそのきいになりまして、)

ええやないか」と、夫がいいますのんで、わたしもその気イになりまして、

(そんならきょうとのひょうぐやいやってりっぱにしたてさせよとおもいながら、つい)

そんなら京都の表具屋いやって立派に仕立てさせよと思いながら、つい

(そのままにほおったあった、あるひいのことでした。「じつはこうこういうつもり)

そのままに放ったあった、或る日イのことでした。「実はこうこういうつもり

(やねんけど」と、みつこさんにそのはなししたら「ひょうぐやいやるぐらいやったら、)

やねんけど」と、光子さんにその話したら「表具屋いやるぐらいやったら、

(もういっぺんかきなおしてめえへん?ーーあれはあれでようでけてるけど、)

もう一ぺん画き直して見えへん?ーーあれはあれでよう出来てるけど、

(ーーかおはようにてるけど、ーーからだのつきがちょっとだけちごうよってなあ」)

ーー顔はよう似てるけど、ーー体のつきがちょっとだけ違うよってなあ」

(いわれるんのです。「ちごうて、どういうふうに?」「どういうふうにいうたかって、)

いわれるんのです。「違うて、どういう風に?」「どういう風にいうたかって、

(くちでいうたぐらいやったらわかれへんわ」と、そないいわれたのんが、ただ)

口でいうたぐらいやったら分れへんわ」と、そないいわれたのんが、ただ

(じぶんのかんじしょうじきにのべられたのんで、「わたしのからだはもっともっときれいです」)

自分の感じ正直に述べられたのんで、「わたしの体はもっともっと綺麗です」

(いうようなじまんのいみはなかったのんですけど、でもなんとのうふまんぞくに)

いうような自慢の意味はなかったのんですけど、でも何とのう不満足に

(おもうてなさるようすでしたので、「そんならいっぺんあんたのはだかのかっこ)

思うてなさる様子でしたので、「そんなら一ぺんあんたのはだかの恰好

(みせてほしいなあ」いいますと、「そら、みせたげてもかめへんわ」と、)

見せて欲しいなあ」いいますと、「そら、見せたげてもかめへんわ」と、

(すぐにしょうちしなさいました。)

すぐに承知しなさいました。

(そんなはなしがあったのんやっぱりがっこからのかえりみちかどこぞやったんですやろ。)

そんな話があったのんやっぱり学校からの帰り道か何処ぞやったんですやろ。

(「そんならあんたとこいいてみせたげるわ」いわれて、たしかそのあくるひの)

「そんならあんたとこい行て見せたげるわ」いわれて、たしかその明くる日の

(ごご、がっこうはやびきしてふたりでわたしのうちいきました。「うち、はだかに)

午後、学校早退きして二人でわたしの家い来ました。「うち、はだかに

(なったりなんかしたら、あんたとこのひとびっくりしやはるやろなあ」と、)

なったりなんかしたら、あんたとこの人びっくりしやはるやろなあ」と、

(みちみちみつこさんはいうておられましたが、きまりわるがるより、なんぞ)

みちみち光子さんはいうておられましたが、きまりわるがるより、なんぞ

(おもしろいあそびでもするように、やんちゃなめえして)

面白い遊びでもするように、やんちゃな眼エして

(おかしがっておられるのんでした。)

おかしがっておられるのんでした。

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