畜犬談7 太宰治

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プレイ回数2難易度(4.0) 3874打 長文 かな

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問題文

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(ころそうとおもったのである。あいてはおそるべきもうじゅうである。)

殺そうと思ったのである。相手は恐るべき猛獣である。

(つねのわたしだったら、こんならんぼうなけついは、)

常の私だったら、こんな乱暴な決意は、

(さかだちしたってなしえなかったところのものなのであったが、)

逆立ちしたってなしえなかったところのものなのであったが、

(ぼんちとくゆうのこくしょで、すこしへんになっていたやさきであったし、)

盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、

(また、まいにち、なにもせず、ただぽかんとやぬしからのそくたつをまっていて、)

また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、

(しぬほどたいくつなひびをおくって、むしゃくしゃいらいら、)

死ぬほど退屈な日々を送って、むしゃくしゃいらいら、

(おまけにふみんもてつだってはっきょうじょうたいであったのだから、たまらない。)

おまけに不眠も手伝って発狂状態であったのだから、たまらない。

(そのいぬののみをはっけんしたよる、ただちにかないをしてぎゅうにくのおおかたをかいにはしらせ、)

その犬の蚤を発見した夜、ただちに家内をして牛肉の大片を買いに走らせ、

(わたしは、くすりやにいきあるしゅのやくひんをしょうりょう、かいもとめた。)

私は、薬屋に行きある種の薬品を少量、買い求めた。

(これでよういはできた。かないはすくなからずこうふんしていた。)

これで用意はできた。家内は少なからず興奮していた。

(わたしたちおにふうふは、そのよる、きゅうしゅしてこごえでそうだんした。)

私たち鬼夫婦は、その夜、鳩首して小声で相談した。

(よくあくるあさ、しじにわたしはおきた。めざましどけいをかけておいたのであるが、)

翌あくる朝、四時に私は起きた。目覚時計を掛けておいたのであるが、

(それのなりださぬうちに、めがさめてしまった。)

それの鳴りださぬうちに、眼が覚めてしまった。

(しらじらとあけていた。はだざむいほどであった。)

しらじらと明けていた。肌寒いほどであった。

(わたしはたけのかわづつみをさげてそとへでた。)

私は竹の皮包をさげて外へ出た。

(おしまいまでみていないですぐおかえりになるといいわ)

「おしまいまで見ていないですぐお帰りになるといいわ」

(かないはげんかんのしきだいにたってみおくり、おちついていた。)

家内は玄関の式台に立って見送り、落ち着いていた。

(こころえている。ぽち、こい!)

「心得ている。ポチ、来い!」

(ぽちはおをふってえんのしたからでてきた。)

ポチは尾を振って縁の下から出てきた。

(こい、こい!わたしは、さっさとあるきだした。)

「来い、来い!」私は、さっさと歩きだした。

など

(きょうは、あんな、いじわるくぽちのすがたをみつめるようなことはしないので、)

きょうは、あんな、意地悪くポチの姿を見つめるようなことはしないので、

(ぽちもじしんのみにくさをわすれて、いそいそわたしについてきた。きりがふかい。)

ポチも自身の醜さを忘れて、いそいそ私についてきた。霧が深い。

(まちはひっそりねむっている。わたしは、れんぺいじょうへいそいだ。)

まちはひっそり眠っている。私は、練兵場へいそいだ。

(とちゅう、おそろしくおおきいあかげのいぬが、ぽちにむかってもうれつにほえたてた。)

途中、おそろしく大きい赤毛の犬が、ポチに向って猛烈に吠えたてた。

(ぽちは、れいによってじょうひんぶったたいどをしめし、なにをさわいでいるのかね、)

ポチは、れいによって上品ぶった態度を示し、何を騒いでいるのかね、

(とでもいいたげなべっしをちらとそのあかげのいぬにくれただけで、)

とでも言いたげな蔑視をちらとその赤毛の犬にくれただけで、

(さっさとそのめんぜんをつうかした。あかげは、ひれつである。)

さっさとその面前を通過した。赤毛は、卑劣である。

(むほうにもぽちのはいごから、かぜのごとくおそいかかり、)

無法にもポチの背後から、風のごとく襲いかかり、

(ぽちのさむしげなこうがんをねらった。ぽちは、とっさにくるりとむきなおったが、)

ポチの寒しげな睾丸をねらった。ポチは、咄嗟にくるりと向きなおったが、

(ちょっとちゅうちょし、わたしのかおいろをそっとうかがった。)

ちょっと躊躇し、私の顔色をそっと伺った。

(やれ!わたしはおおごえでめいれいした。あかげはひきょうだ!おもうぞんぶんやれ!)

「やれ!」私は大声で命令した。「赤毛は卑怯だ! 思う存分やれ!」

(ゆるしがでたのでぽちは、ぶるんとひとつおおきくどうぶるいして、)

ゆるしが出たのでポチは、ぶるんと一つ大きく胴震いして、

(だんがんのごとくあかいぬのふところにとびこんだ。)

弾丸のごとく赤犬のふところに飛びこんだ。

(たちまち、けんけんごうごう、にひきはひとつのてまりみたいになって、かくとうした。)

たちまち、けんけんごうごう、二匹は一つの手毬みたいになって、格闘した。

(あかげは、ぽちのばいほどもおおきいずうたいをしていたが、だめであった。)

赤毛は、ポチの倍ほども大きい図体をしていたが、だめであった。

(ほどなく、きゃんきゃんひめいをあげてはいたいした。)

ほどなく、きゃんきゃん悲鳴を挙げて敗退した。

(おまけにぽちのひふびょうまでうつされたかもわからない。ばかなやつだ。)

おまけにポチの皮膚病までうつされたかもわからない。ばかなやつだ。

(けんかがおわって、わたしは、ほっとした。)

喧嘩が終って、私は、ほっとした。

(もじどおりてにあせしてながめていたのである。)

文字どおり手に汗して眺めていたのである。

(いちじはにひきのいぬのかくとうにまきこまれて、)

一時は二匹の犬の格闘に巻きこまれて、

(わたしもともにしぬるようなきさえしていた。)

私もともに死ぬるような気さえしていた。

(おれはかみころされたっていいんだ。)

おれは噛み殺されたっていいんだ。

(ぽちよ、おもうぞんぶん、けんかをしろ!)

ポチよ、思う存分、喧嘩をしろ!

(といようにりきんでいたのであった。)

と異様に力んでいたのであった。

(ぽちは、にげてゆくあかげをすこしおいかけ、たちどまって、)

ポチは、逃げてゆく赤毛を少し追いかけ、立ちどまって、

(わたしのかおいろをちらとうかがい、きゅうにしょげて、)

私の顔色をちらと伺い、きゅうにしょげて、

(くびをたれすごすごわたしのほうへひきかえしてきた。)

首を垂れすごすご私のほうへ引返してきた。

(よし!つよいぞほめてやってわたしはあるきだし、)

「よし! 強いぞ」ほめてやって私は歩きだし、

(はしをかたかたわたって、ここはもうれんぺいじょうである。)

橋をかたかた渡って、ここはもう練兵場である。

(むかしぽちは、このれんぺいじょうにすてられた。)

むかしポチは、この練兵場に捨てられた。

(だからいま、また、このれんぺいじょうへかえってきたのだ。)

だからいま、また、この練兵場へ帰ってきたのだ。

(おまえのふるさとでしぬがよい。)

おまえのふるさとで死ぬがよい。

(わたしはたちどまり、ぼとりとぎゅうにくのおおかたをわたしのあしもとへおとして、)

私は立ちどまり、ぼとりと牛肉の大片を私の足もとへ落として、

(ぽち、くえわたしはぽちをみたくなかった。)

「ポチ、食え」私はポチを見たくなかった。

(ぼんやりそこにたったまま、ぽち、くえ)

ぼんやりそこに立ったまま、「ポチ、食え」

(あしもとで、ぺちゃぺちゃたべているおとがする。いっぷんたたぬうちにしぬはずだ。)

足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分たたぬうちに死ぬはずだ。

(わたしはねこぜになって、のろのろあるいた。きりがふかい。)

私は猫背になって、のろのろ歩いた。霧が深い。

(ほんのちかくのやまが、ぼんやりくろくみえるだけだ。)

ほんのちかくの山が、ぼんやり黒く見えるだけだ。

(みなみあるぷすれんぽうも、ふじさんも、なにもみえない。)

南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。

(あさつゆで、げたがびしょぬれである。)

朝露で、下駄がびしょぬれである。

(わたしはいっそうひどいねこぜになって、のろのろきとについた。)

私はいっそうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。

(はしをわたり、ちゅうがっこうのまえまできて、ふりむくとぽちが、ちゃんといた。)

橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。

(めんぼくなげに、くびをたれ、わたしのしせんをそっとそらした。)

面目なげに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。

(わたしも、もうおとなである。いたずらなかんしょうはなかった。)

私も、もう大人である。いたずらな感傷はなかった。

(すぐじたいをさっちした。やくひんがきかなかったのだ。)

すぐ事態を察知した。薬品が効かなかったのだ。

(うなずいて、もうすでにわたしは、はくしかんげんである。いえへかえって、)

うなずいて、もうすでに私は、白紙還元である。家へ帰って、

(だめだよ。くすりがきかないのだ。ゆるしてやろうよ。)

「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやろうよ。

(あいつには、つみがなかったんだぜ。)

あいつには、罪がなかったんだぜ。

(げいじゅつかは、もともとよわいもののみかただったはずなんだ)

芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ」

(わたしは、とちゅうでかんがえてきたことをそのままいってみた。)

私は、途中で考えてきたことをそのまま言ってみた。

(じゃくしゃのともなんだ。げいじゅつかにとって、これがしゅっぱつで、)

「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、

(またさいこうのもくてきなんだ。こんなたんじゅんなこと、ぼくはわすれていた。)

また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。

(ぼくだけじゃない。みんなが、わすれているんだ。)

僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。

(ぼくは、ぽちをとうきょうへつれてゆこうとおもうよ。)

僕は、ポチを東京へ連れてゆこうと思うよ。

(ともがもしぽちのかっこうをわらったら、ぶんなぐってやる。たまごあるかい?)

友がもしポチの恰好を笑ったら、ぶん殴ってやる。卵あるかい?」

(ええかないは、うかぬかおをしていた。)

「ええ」家内は、浮かぬ顔をしていた。

(ぽちにやれ、ふたつあるなら、ふたつやれ。おまえもがまんしろ。)

「ポチにやれ、二つあるなら、二つやれ。おまえも我慢しろ。

(ひふびょうなんてのは、すぐなおるよ)

皮膚病なんてのは、すぐなおるよ」

(ええかないは、やはりうかぬかおをしていた。)

「ええ」家内は、やはり浮かぬ顔をしていた。

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