夏目漱石 明暗(1)
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問題文
(いしゃはさぐりをいれたあとで、)
医者は探りを入れた後で、
(しゅじゅつだいのうえからつだをおろした。)
手術台の上から津田を下した。
(「やっぱりあながちょうまでつづいているんでした。)
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。
(このまえさぐったときは、とちゅうにはんこんのりゅうきがあったので、)
この前探った時は、途中に瘢痕の隆起があったので、
(ついそこがいきどまりだとばかりおもって、)
ついそこが行きどまりだとばかり思って、
(ああいったんですが、きょうそつうをよくするために、)
ああ云ったんですが、今日疎通を好くするために、
(そいつをがりがりかきおとしてみると、まだおくがあるんです」)
そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」
(「そうしてそれがちょうまでつづいているんですか」)
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
(「そうです。ごぶぐらいだとおもっていたのがやくいっすんほどあるんです」)
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
(つだのかおにはくしょうのうちにあわくもりあげられたしつぼうのいろがみえた。)
津田の顔には苦笑の裡に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。
(いしゃはしろいだぶだぶしたうわぎのまえにりょうてをくみあわせたまま、)
医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、
(ちょっとくびをかたむけた。そのようす「おきのどくですがしかたがありません。)
ちょっと首を傾けた。その様子「御気の毒ですが仕方がありません。
(いしゃはじぶんのしょくぎょうにたいしてうそをつくわけにいかないんですから」)
医者は自分の職業に対して虚言を吐く訳に行かないんですから」
(といういみにうけとれた。)
という意味に受取れた。
(つだはむごんのままおびをしめなおして、)
津田は無言のまま帯を締め直して、
(いすのせになげかけられたはかまをとりあげながらまたいしゃのほうをむいた。)
椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながらまた医者の方を向いた。
(「ちょうまでつづいているとすると、なおりっこないんですか」)
「腸まで続いているとすると、癒りっこないんですか」
(「そんなことはありません」)
「そんな事はありません」
(いしゃはかっぱつにまたむぞうさにつだのことばをひていした。)
医者は活溌にまた無雑作に津田の言葉を否定した。
(あわせてかれのきぶんをもひていするごとくに。)
併せて彼の気分をも否定するごとくに。
(「ただいままでのようにあなのそうじばかりしていてはだめなんです。)
「ただ今までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。
(それじゃいつまでたってもにくのあがりこはないから、)
それじゃいつまで経っても肉の上りこはないから、
(こんどはちりょうほうをかえてこんぽんてきのしゅじゅつを)
今度は治療法を変えて根本的の手術を
(ひとおもいにやるよりほかにしかたがありませんね」)
一思いにやるよりほかに仕方がありませんね」
(「こんぽんてきのちりょうというと」)
「根本的の治療と云うと」
(「せっかいです。せっかいしてあなとちょうといっしょにしてしまうんです。)
「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。
(するとてんねんしぜんさかれためんのりょうがわがゆちゃくしてきますから、)
すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、
(まあほんしきになおるようになるんです」)
まあ本式に癒るようになるんです」
(つだはだまってうなずいた。)
津田は黙って点頭いた。
(かれのそばにはみなみがわのまどしたにすえられたようたくのうえにいちだいのけんびきょうがのっていた。)
彼の傍には南側の窓下に据えられた洋卓の上に一台の顕微鏡が載っていた。
(いしゃとこんいなかれはせんこくしんさつじょへはいったとき、ものめずらしさに、)
医者と懇意な彼は先刻診察所へ這入った時、物珍らしさに、
(それをのぞかせてもらったのである。)
それを覗かせて貰ったのである。
(そのときはっぴゃくごじゅうばいのかがみのそこにうつったものは、)
その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、
(まるでずにとったようにあざやかにみえるちゃくしょくのぶどうじょうのさいきんであった。)
まるで図に撮影ったように鮮やかに見える着色の葡萄状の細菌であった。
(つだははかまをはいてしまって、そのようたくのうえにおいたかわのかみいれをとりあげたとき、)
津田は袴を穿いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、
(ふとこのさいきんのことをおもいだした。するとれんそうがきゅうにかれのむねをふあんにした。)
ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。
(しんさつじょをでるべくかみいれをふところにおさめたかれはすでにでようとしてまたちゅうちょした。)
診察所を出るべく紙入を懐に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇した。
(「もしけっかくせいのものだとすると、)
「もし結核性のものだとすると、
(たといいまおっしゃったようなこんぽんてきなしゅじゅつをして、)
たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、
(ほそいみぞをぜんぶちょうのほうへきりひらいてしまってもなおらないんでしょう」)
細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
(「けっかくせいならだめです。)
「結核性なら駄目です。
(それからそれへとあなをほっておくのほうへすすんでいくんだから、)
それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、
(くちもとだけちりょうしたってやくにゃたちません」)
口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
(つだはおもわずまゆをよせた。)
津田は思わず眉を寄せた。
(「わたしのはけっかくせいじゃないんですか」)
「私のは結核性じゃないんですか」
(「いえ、けっかくせいじゃありません」)
「いえ、結核性じゃありません」
(つだはあいてのことばにどれほどのしんじつさがあるかをたしかめようとして、)
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、
(ちょっとめをいしゃのうえにすえた。いしゃはうごかなかった。)
ちょっと眼を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
(「どうしてそれがわかるんですか。ただのしんさつでわかるんですか」)
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
(「ええ。みたようすでわかります」)
「ええ。診察た様子で分ります」
(そのときかんごふがつだのあとにまわったかんじゃのなまえをへやのでぐちにたってよんだ。)
その時看護婦が津田の後に廻った患者の名前を室の出口に立って呼んだ。
(まちかまえていたそのかんじゃはすぐつだのはいごにあらわれた。)
待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。
(つだははやくたいきゃくしなければならなくなった。)
津田は早く退却しなければならなくなった。
(「じゃいつそのこんぽんてきしゅじゅつをやっていただけるでしょう」)
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
(「いつでも。あなたのごつごうのいいときでようござんす」)
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
(つだはじぶんのつごうをよくかんがえてからひどりをきめることにしてしつがいにでた。)
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。