夏目漱石「抗夫」3
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問題文
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(とうきょうをたったゆうべのくじから、こうあきらめはつけてはいるが、)
東京を立った昨夜の九時から、こう諦はつけてはいるが、
(さてあるきだしてみると、あるきながらきがきでない。)
さて歩き出してみると、歩きながら気が気でない。
(あしもおもい、まつがあきるほどぎょうれつしている。)
足も重い、松が厭きる程行列している。
(しかしあしよりもまつよりもはらのなかがいちばんくるしい。)
然し足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。
(なんのためにあるいているんだかわからなくって、)
何の為に歩いているんだか分らなくって、
(しかもあるかなくってはいっこくもいきていられないほどのくつうはめったにない。)
しかも歩かなくっては一刻も生きていられない程の苦痛はめったにない。
(のみならずあるけばあるくほどとうていぬけることのできないくもったせかいのなかへ)
のみならず歩けば歩く程到底抜ける事の出来ない曇った世界の中へ
(だんだんふかくもぐりこんでいくようなきがする。)
段々深く潜り込んで行く様な気がする。
(ふりかえるとひのてっているとうきょうはもうよがちがっている。)
振り返ると日の照っている東京はもう代が違っている。
(てをだしてもあしをのばしても、このよではとどかない。)
手を出しても足を伸ばしても、この世では届かない。
(まるでしゃばがちがう。)
まるで娑婆が違う。
(そのくせあたたかなほがらかなとうきょうは、いぜんとしてめさきにありありとうつっている。)
その癖暖かな朗かな東京は、依然として眼先にありありと写っている。
(おういとひかげからよびたくなるくらいあかにみえる。)
おういと日蔭から呼びたくなる位明かに見える。
(とどうじにあしのむいてるさきはばくばくたるものだ。)
と同時に足の向いてる先は漠々たるものだ。
(このばくばくのうちへーーいのちのあらんかぎりひろがっているこのばくばくのうちへーー)
この漠々のうちへーー命のあらん限り広がっているこの漠々のうちへーー
(じぶんはふらふらまよいこむのだからこころぼそい。)
自分はふらふら迷い込むのだから心細い。
(このくもったせかいがくもったなりはびこって、)
この曇った世界が曇ったなりはびこって、
(じょうごうのつきるまでゆくてをふさいていてはたまらない。)
定業の尽きるまで行く手を塞いでいてはたまらない。
(とまったかたあしをふあんのねんにかられていっぽまえへだすと、)
留まった片足を不安の念に駆られて一歩前へ出すと、
(いっぽふあんのなかへふみこんだわけになる。)
一歩不安の中へ踏み込んだ訳になる。
など
(ふあんにおいかけられ、ふあんにひっぱられて、やむをえずうごいては、)
不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、已むを得ず動いては、
(いくらあるいてもいくらあるいてもらちがあくはずがない。)
いくら歩いてもいくら歩いても埒が明く筈がない。
(しょうがいかたづかないふあんのなかをあるいていくんだ。)
生涯片付ない不安の中を歩いて行くんだ。
(とてものことにくもったものが、いっそだんだんくらくなってくれればいい。)
とてもの事に曇ったものが、一層段々暗くなってくれればいい。
(くらくなったところをまたくらいほうへとふみだしていったら、とおからずせかいがやみになって、)
暗くなった所を又暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇になって、
(じぶんのめでじぶんのからだがみえなくなるだろう。)
自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろう。
(そうなればきらくなものだ。)
そうなれば気楽なものだ。
(いじのわるいことにじぶんのいくみちはあかるくもなってくれず、)
意地の悪い事に自分の行く路は明るくもなってくれず、
(といってくらくもなってくれない。)
と云って暗くもなってくれない。
(どこまでもはんいんはんせいのすがたで、どこまでもかたづかぬふあんがたてこめておる。)
どこまでも半陰半晴の姿で、どこまでも片付かぬ不安が立て留めておる。
(これではいきがいがない、さればといってしにきれない。)
これでは生甲斐がない、さればと云って死に切れない。
(なんでもひとのいないところへいって、たったひとりですんでいたい。)
何でも人の居ない所へ行って、たった一人で住んでいたい。
(それができなければいっそのこと・・・)
それが出来なければ一層の事・・・