人間失格【太宰治】29
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「そりゃ実に~事だったのです。まで
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問題文
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(そりゃじつにしんぱいなものですわたしもいったんあなたのせわをひきうけたいじょう)
「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引受けた以上、
(あなたにもなまはんかなきもちでいてもらいたくないのです)
あなたにも、生半可な気持ちでいてもらいたくないのです。
(りっぱにこうせいのみちをたどるというかくごのほどをみせてもらいたいのです)
立派に更生の道をたどる、という覚悟のほどを見せてもらいたいのです。
(たとえばあなたのしょうらいのほうしんそれについてあなたのほうからわたしに)
たとえば、あなたの将来の方針、それに就いてあなたのほうから私に、
(まじめにそうだんをもちかけてきたならわたしもそのそうだんにはおうずるつもりでいます)
まじめに相談を持ちかけて来たなら、私もその相談には応ずるつもりでいます。
(それはどうせこんなびんぼうなひらめのえんじょなのですから)
それは、どうせこんな、貧乏なヒラメの援助なのですから、
(いぜんのようなぜいたくをのぞんだらあてがはずれますしかし)
以前のようなぜいたくを望んだら、あてがはずれます。しかし、
(あなたのきもちがしっかりしていてしょうらいのほうしんをはっきりうちたて)
あなたの気持がしっかりしていて、将来の方針をはっきり打ち樹て、
(そうしてわたしにそうだんをしてくれたらわたしはたといわずかずつでも)
そうして私に相談をしてくれたら、私は、たといわずかずつでも、
(あなたのこうせいのためにおてつだいしようとさえおもっているんです)
あなたの更生のために、お手伝いしようとさえ思っているんです。
(わかりますかわたしのきもちがいったいあなたはこれから)
わかりますか?私の気持が。いったい、あなたは、これから、
(どうするつもりでいるのですここのにかいにおいてもらえなかったら)
どうするつもりでいるのです」「ここの二階に、置いてもらえなかったら、
(はたらいてほんきでそんなことをいっているのですか)
働いて、……」「本気で、そんな事を言っているのですか?
(いまこのよのなかにたといていこくだいがっこうをでたっていいえ)
いまこの世の中に、たとい帝国大学校を出たって、……」「いいえ、
(さらりいまんになるんではないんですそれじゃなんですがかです)
サラリイマンになるんでは無いんです」「それじゃ、何です」「画家です」
(おもいきってそれをいいましたへえじぶんはそのときの)
思い切って、それを言いました。「へえ?」自分は、その時の、
(くびをちぢめてわらったひらめのかおの)
頸をちぢめて笑ったヒラメの顔の、
(いかにもずるそうなかげをわすれることができませんけいべつのかげにもにて)
いかにもずるそうな影を忘れることが出来ません。軽蔑の影にも似て、
(それともちがいよのなかをうみにたとえるとそのうみのちひろのふかさのかしょに)
それとも違い、世の中を海にたとえると、その海の千尋の深さの箇所に、
(そんなきみょうなかげがたゆとうていそうでなにか)
そんな奇妙な影がたゆとうていそうで、何か、
など
(おとなのせいかつのおくそこをちらとのぞかせたようなわらいでした)
おとなの生活の奥底をチラと覗かせたような笑いでした。
(そんなことでははなしにもなにもならぬちっともきもちがしっかりしていない)
そんな事では話にも何もならぬ、ちっとも気持がしっかりしていない、
(かんがえなさいこんやひとばんまじめにかんがえてみなさいといわれ)
考えなさい、今夜一晩まじめに考えてみなさい、と言われ、
(じぶんはおわれるようににかいにあがってねても)
自分は追われるように二階に上がって、寝ても、
(べつになんのかんがえもうかびませんでしたそうしてあけがたになり)
別に何の考えも浮かびませんでした。そうして、あけがたになり、
(ひらめのいえからにげましたゆうがたまちがいなくかえりますさきのゆうじんのもとへ)
ヒラメの家から逃げました。夕方、間違いなく帰ります。左記の友人の許へ、
(しょうらいのほうしんについてそうだんにいってくるのですからごしんぱいなくほんとうに)
将来の方針に就いて相談に行って来るのですから、御心配無く。ほんとうに。
(とようせんにえんぴつでおおきくかきそれからあさくさのほりきまさおのじゅうしょせいめいをしるして)
と、用箋に鉛筆で大きく書き、それから、浅草の堀木正雄の住所姓名を記して、
(こっそりひらめのいえをでましたひらめにせっきょうせられたのが)
こっそり、ヒラメの家を出ました。ヒラメに説教せられたのが、
(くやしくてにげたわけではありませんでしたまさしくじぶんは)
くやしくて逃げたわけではありませんでした。まさしく自分は、
(ひらめのいうとおりきもちのしっかりしていないおとこで)
ヒラメの言うとおり、気持のしっかりしていない男で、
(しょうらいのほうしんもなにもじぶんにはまるでけんとうがつかずこのうえ)
将来の方針も何も自分にはまるで見当がつかず、この上、
(ひらめのいえのやっかいになっているのはひらめにもきのどくですしそのうちに)
ヒラメの家のやっかいになっているのは、ヒラメにも気の毒ですし、そのうちに
(もしまんいちじぶんにもはっぷんのきもちがおこりこころざしをたてたところで)
もし万一、自分にも発奮の気持が起り、志を立てたところで、
(そのこうせいしきんをあのびんぼうなひらめからつきづきえんじょせられるのかとおもうと)
その更生資金をあの貧乏なヒラメから月々援助せられるのかと思うと、
(とてもこころぐるしくていたたまらないきもちになったからでしたしかしじぶんは)
とても心苦しくて、いたたまらない気持になったからでした。しかし、自分は、
(いわゆるしょうらいのほうしんをほりきごときにそうだんにいこうなどとほんきにおもって)
所謂「将来の方針」を、堀木ごときに、相談に行こうなどと本気に思って、
(ひらめのいえをでたのではなかったのでしたそれはただわずかでも)
ヒラメの家を出たのでは無かったのでした。それは、ただ、わずかでも、
(つかのまでもひらめにあんしんさせておきたくてそのあいだにじぶんが)
つかのまでも、ヒラメに安心させて置きたくて、(その間に自分が、
(すこしでもとおくへにげのびていたいというたんていしょうせつてきなさくりゃくから)
少しでも遠くへ逃げのびていたいという探偵小説的な策略から、
(そんなおきてがみをかいたというよりはいや)
そんな置手紙を書いた、というよりは、いや、
(そんなきもちもかすかにあったにちがいないのですがそれよりもやはりじぶんは)
そんな気持も幽かにあったに違いないのですが、それよりも、やはり自分は、
(いきなりひらめにしょっくをあたえかれをこんらんとうわくさせてしまうのが)
いきなりヒラメにショックを与え、彼を混乱当惑させてしまうのが、
(おそろしかったばかりにとでもいったほうがいくらかせいかくかもしれません)
おそろしかったばかりに、とでも言ったほうが、いくらか正確かも知れません。
(どうせばれるにきまっているのにそのとおりにいうのがおそろしくて)
どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、
(かならずなにかしらかざりをつけるのがじぶんのかなしいせいへきのひとつで)
必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、
(それはせけんのひとがうそつきとよんでいやしめているせいかくににていながらしかし)
それは世間の人が「嘘つき」と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし
(じぶんはじぶんにりえきをもたらそうとしてそのかざりつけをおこなったことはほとんどなく)
自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、
(ただふんいきのきょうさめたいっぺんがちっそくするくらいにおそろしくて)
ただ雰囲気の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、
(あとでじぶんにふりえきになるということがわかっていてもれいのじぶんの)
後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の
(ひっしのほうしそれはたといゆがめられびじゃくでばからしいものであろうと)
「必死の奉仕」それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、
(そのほうしのきもちから)
その奉仕の気持から、
(ついひとことのかざりつけをしてしまうというばあいがおおかったようなきもするのですが)
つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが
(しかしこのしゅうせいもまたせけんのいわゆるしょうじきものたちから)
しかし、この習性もまた、世間の所謂「正直者」たちから
(おおいにじょうぜられるところとなりましたそのときふっと)
大いに乗ぜられるところとなりました)その時、ふっと、
(きおくのそこからうかんできたままにほりきのじゅうしょとしめいを)
記憶の底から浮かんで来たままに堀木の住所と氏名を、
(ようせんのはしにしたためたまでのことだったのです)
用箋の端にしたためたまでの事だったのです。