第6回パソコン入力スピード認定試験 試験問題
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問題文
(とうきょうのにほんばしが、1911ねんにいしづくりのはしとなってから、さくねんで100しゅうねんを)
東京の日本橋が、1911年に石造りの橋となってから、昨年で100周年を
(むかえた。はしができたとうしょは、たんににほんのきをわたしただけのかんそなはしであったと)
迎えた。橋ができた当初は、単に二本の木を渡しただけの簡素な橋であったと
(いわれている。そのようすから「にほんばし」とよばれるようになり、はしのなまえの)
いわれている。その様子から「二本橋」と呼ばれるようになり、橋の名前の
(ゆらいとなったというせつがある。そのご、とくがわいえやすがえどばくふをひらいた)
由来となったという説がある。その後、徳川家康が江戸幕府を開いた
(1603ねんに、きでつくられたおおきなはしへとかえられた。あるしりょうによると、)
1603年に、木で造られた大きな橋へと替えられた。ある資料によると、
(ぜんちょう51めーとるで、はばは8めーとるというりっぱなはしだった。)
全長51メートルで、幅は8メートルという立派な橋だった。
(そのよくねん、ぜんこくかくちへつうじるどうろのせいびがじっしされ、とうかいどうをはじめとする)
その翌年、全国各地へ通じる道路の整備が実施され、東海道をはじめとする
(ごかいどうのきてんにさだめられた。1618ねんには、だいきぼなかいしゅうこうじがあり、)
五街道の起点に定められた。1618年には、大規模な改修工事があり、
(ながさが68めーとるとなり、のちにかけられたはしよりもながかった。)
長さが68メートルとなり、後に架けられた橋よりも長かった。
(このじだい、はしのしゅうへんは、しょうぎょうやりゅうつう、けいざいのちゅうしんちとしてはってんをつづけた。)
この時代、橋の周辺は、商業や流通、経済の中心地として発展を続けた。
(したをながれるにほんばしがわのりょうさいどにはかし(かし)がもうけられて、ぜんこくから)
下を流れる日本橋川の両サイドには河岸(かし)が設けられて、全国から
(にもつをはこぶふねがしゅうけつするすいろのきょてんとなった。にもつはかしでりくあげされ、)
荷物を運ぶ船が集結する水路の拠点となった。荷物は河岸で陸揚げされ、
(そこからえどのしちゅうへとはこばれた。つまり、にほんばしはぶつりゅうのじゅうようなやくわりも)
そこから江戸の市中へと運ばれた。つまり、日本橋は物流の重要な役割も
(もっていたのである。とうじのようすは、うきよえやにしきえなどにものこされている。)
持っていたのである。当時の様子は、浮世絵や錦絵などにも残されている。
(かわぞいにはうおがしやざいもくがしなどがならび、おおくのひとがあつまるようすを)
川沿いには魚河岸や材木河岸などが並び、多くの人が集まる様子を
(うかがうことができる。ひとやぶっし、じょうほうがあつまるばしょとして、しょうこうぎょうのはったつが)
うかがうことができる。人や物資、情報が集まる場所として、商工業の発達が
(ひやくてきで、げんざいのにほんばししゅうへんのげんけいになった。そのはんえいについては、)
飛躍的で、現在の日本橋周辺の原型になった。その繁栄については、
(ほかのきろくからもしることができる。えどのじんこうは、1800ねんごろには)
他の記録からも知ることができる。江戸の人口は、1800年頃には
(120まんにんにたっし、とうじせかいいちといわれた。おなじころのぱりはやく50まんにんで、)
120万人に達し、当時世界一といわれた。同じ頃のパリは約50万人で、
(ろんどんはやく90まんにんであったという。おおくのひとがせいかつをし、うんがにかこまれ、)
ロンドンは約90万人であったという。多くの人が生活をし、運河に囲まれ、
(ふねがいきかうようすから、ばくまつにおとずれたがいこくじんは「とうようのべにす」とたとえた。)
舟が行き交う様子から、幕末に訪れた外国人は「東洋のベニス」と例えた。
(いっぽう、えどじだいにはかじがひんぱんにおきたといわれており、きろくにのこるたいかは)
一方、江戸時代には火事が頻繁に起きたといわれており、記録に残る大火は
(200けんいじょうにもおよんでいる。これによって、にほんばしはなんどとなくしょうしつした。)
200件以上にも及んでいる。これによって、日本橋は何度となく消失した。
(さらに、おおあめによるこうずいなどのひがいもあり、そのつどほしゅうやかけかえを)
さらに、大雨による洪水などの被害もあり、その都度補修や架け替えを
(くりかえしてきた。ひがいをかいしょうするため、これまでのきのはしから、あたらしく)
繰り返してきた。被害を解消するため、これまでの木の橋から、新しく
(いしづくりにれんあーちのはしが、ひゃくねんまえにけんぞうされた。かぞえて20だいめとなる)
石造り二連アーチの橋が、百年前に建造された。数えて20代目となる
(このはしが、げんざいものこっている。そのさいに、どうろのきてんをあらわすどうろげんぴょうが、)
この橋が、現在も残っている。その際に、道路の起点を表す道路元標が、
(はしのちゅうおうぶにせっちされた。どうろげんぴょうとは、どうろのきてんやしゅうてん、けいかちを)
橋の中央部に設置された。道路元標とは、道路の起点や終点、経過地を
(ひょうじするためのひょうしきのことである。これはりとうもふくめ、ほっかいどうからおきなわまで)
表示するための標識のことである。これは離島も含め、北海道から沖縄まで
(にほんぜんこくにそんざいし、そのしるしにせきひょうやもにゅめんとがせっちされている。)
日本全国に存在し、その印に石標やモニュメントが設置されている。
(そのきてんがにほんばしとなっていることから、にほんのどうろのすたーとちてんとも)
その起点が日本橋となっていることから、日本の道路のスタート地点とも
(いわれている。1963ねんに、にほんばしのじょうくうにはじゅうたいかんわのもくてきと、)
いわれている。1963年に、日本橋の上空には渋滞緩和の目的と、
(こうどせいちょうのしんぼるとしてしゅとこうそくどうろがつくられた。それにかんして、)
高度成長のシンボルとして首都高速道路が造られた。それに関して、
(しゅうへんじゅうみんのはんたいやさまざまなろんぎがあった。しかし、いそいでけんせつが)
周辺住民の反対やさまざまな論議があった。しかし、急いで建設が
(すすめられたために、かせんをうめたてるほうほうや、かせんのうえにそうように)
進められたために、河川を埋め立てる方法や、河川の上に沿うように
(こうかきょうをたてるほうほうがさいようされた。けっか、にほんばしをおおうかたちでしゅとこうそくどうろは)
高架橋を立てる方法が採用された。結果、日本橋を覆う形で首都高速道路は
(かんせいしたのである。にほんばしのかきょう100しゅうねんにともない、ちいきじゅうみんやきぎょうが)
完成したのである。日本橋の架橋100周年に伴い、地域住民や企業が
(きょうりょくをし、さまざまなかつどうやとりくみがおこなわれている。そのひとつに、)
協力をし、さまざまな活動や取り組みが行われている。その一つに、
(はしのじょうくうをおおっているしゅとこうそくどうろをちかやべつのばしょへいせつをして、)
橋の上空を覆っている首都高速道路を地下や別の場所へ移設をして、
(ちいきぜんたいのけいかんをみなおそうというかつどうがある。それは、としのはんえいが、)
地域全体の景観を見直そうという活動がある。それは、都市の繁栄が、
(くにのはんえいをささえるというはっそうから、じゅうみんだけでなくきぎょうやちょめいじんもさんかし、)
国の繁栄を支えるという発想から、住民だけでなく企業や著名人も参加し、
(かつてのはんえいをにほんばししゅうへんにとりもどそうというものだ。そのほかにも、)
かつての繁栄を日本橋周辺に取り戻そうというものだ。その他にも、
(にほんばしがわをせいそうするかつどうがある。これは、にほんばしのまちづくりは、みずべが)
日本橋川を清掃する活動がある。これは、日本橋の町づくりは、水辺が
(たいせつであると、2かげつにいちど、りゅういきのじちたいなどのきょうりょくでじっしされている。)
大切であると、2か月に一度、流域の自治体などの協力で実施されている。
(またねんにいちど、にほんばしをあらうかいがかいさいされる。さくねんは、じもとのじゅうみんやちょうかい、)
また年に一度、日本橋を洗う会が開催される。昨年は、地元の住民や町会、
(きぎょうなどからやく1500めいがさんかした。しょうぼうしょいんがほうすいをかいしすると、)
企業などから約1500名が参加した。消防署員が放水を開始すると、
(さんかしゃはでっきぶらしやたわしをてにろめんやらんかんをみがき、こどもたちは)
参加者はデッキブラシやタワシを手に路面や欄干を磨き、子どもたちは
(かんせいをあげてはしあらいをした。さらに、いっさくねんは100しゅうねんをむかえるにあたり、)
歓声を上げて橋洗いをした。さらに、一昨年は100周年を迎えるにあたり、
(ながねんにわたりふちゃくしたよごれおとしをきかくした。せんじょうには、どいつのきぎょうが)
長年に渡り付着した汚れ落としを企画した。洗浄には、ドイツの企業が
(しゃかいてきせきにん(csr)のかつどうや、prのいっかんとしてきょうりょくをした。)
社会的責任(CSR)の活動や、PRの一環として協力をした。
(はしをきずつけないために、おんすいこうあつせんじょうとぱうだーせんじょうというとくしゅなほうほうで)
橋を傷つけないために、温水高圧洗浄とパウダー洗浄という特殊な方法で
(おこなわれた。そのけっか、はしはほんらいのうつくしいすがたとなった。そして、さくねんは)
行われた。その結果、橋は本来の美しい姿となった。そして、昨年は
(100しゅうねんをきねんしたもよおしものが、10がつにじっしされおおぜいのひとびとでにぎわった。)
100周年を記念した催し物が、10月に実施され大勢の人々でにぎわった。
(とうじつは、ぱれーどやしゅううんまつり、ぜんこくからあつまっためいさんひんのはんばいなど、)
当日は、パレードや舟運まつり、全国から集まった名産品の販売など、
(さまざまなもよおしがひらかれ10まんにんものかんきゃくがあつまった。ぱれーどには、)
さまざまな催しが開かれ10万人もの観客が集まった。パレードには、
(しょうぼうちょうのおんがくたいやじもとのしょうちゅうがくせいがちゅうしんとなり、くわえてとうほくかくけんの)
消防庁の音楽隊や地元の小中学生が中心となり、加えて東北各県の
(げいのうだんたいなど、やく3000にんがさんかして、ぜんちょうが2きろのこーすをねりあるいた。)
芸能団体など、約3000人が参加して、全長が2キロのコースを練り歩いた。
(とくによろいすがたのむしゃが、うまにのってとうじょうすると、いちだんとおおきなかんせいが)
特によろい姿の武者が、馬に乗って登場すると、一段と大きな歓声が
(あがったという。しゅううんまつりは、はしがかけられたえどじだいのようすを)
上がったという。舟運まつりは、橋が架けられた江戸時代の様子を
(さいげんしようというものである。さいたまけん・とちぎけん・ちばけんにあった)
再現しようというものである。埼玉県・栃木県・千葉県にあった
(「こえど3し」から、ごようせんやにぶね、よめいりぶねなどの15せきが、かわをくだって)
「小江戸3市」から、御用船や荷船、嫁入り船などの15隻が、川を下って
(にほんばしにあつまり、すいじょうをいろどった。2008ねんから「eco・edo・にほんばし」)
日本橋に集まり、水上を彩った。2008年から「ECO・EDO・日本橋」
(として、あたらしいはっしんもおこなっている。えどじだいのひとは「もったいない」のこころを)
として、新しい発信も行っている。江戸時代の人は「もったいない」の心を
(もち、きょうせいをたいせつにしていた。たとえばきものは、ぬいめをほどくとしかくいぬのに)
持ち、共生を大切にしていた。例えば着物は、縫い目をほどくと四角い布に
(かわり、りさいくるができた。ほかにも、かていででたはいをだいどころようのせっけんとして)
変わり、リサイクルができた。他にも、家庭で出た灰を台所用の石鹸として
(さいりようしたという。このようなせいかつようしきをげんだいふうにあれんじし、じゅんかんがたしゃかいを)
再利用したという。このような生活様式を現代風にアレンジし、循環型社会を
(めざすかつどうである。こくどうのきてんであり、ぶつりゅうのきょてんであったにほんばしは、)
目指す活動である。国道の起点であり、物流の拠点であった日本橋は、
(ながいれきしのなかで、いくどとなくすがたをへんぼうさせてきた。かしがあったしゅうへんは、)
長い歴史の中で、幾度となく姿を変貌させてきた。河岸があった周辺は、
(あたらしいしょうぎょうしせつがならび、いまもおおくのひとびとがあつまる。こうしたあたらしいめんと、)
新しい商業施設が並び、今も多くの人々が集まる。こうした新しい面と、
(れきしてきなけんぞうぶつやでんとうあるしにせがおおくのこっているいちめんもある。さいきんでは、)
歴史的な建造物や伝統ある老舗が多く残っている一面もある。最近では、
(しにせをめぐるつあーというもよおしもある。むかしのふぜいをのこしながらも、あらたなそうぞうを)
老舗を巡るツアーという催しもある。昔の風情を残しながらも、新たな創造を
(つづけるにほんばしのみらいが、こんごどのようにしんかするのか、きたいしてやまない。)
続ける日本橋の未来が、今後どのように進化するのか、期待してやまない。