「自由」に関する考察②
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問題文
(もちろん「にげるじゆう」もある。しかし、それはちいさなじゆうだ。)
もちろん「逃げる自由」もある。しかし、それは小さな自由だ。
(さいごは、なんのちからもない、ひよわなじぶんになり、)
最後は、なんの力もない、ひ弱な自分になり、
(ゆきづまり、さいだいのふじゆうなじんせいになってしまう。)
行き詰まり、最大の不自由な人生になってしまう。
(ちいさなじゆうにたいして、おおきなじゆうもある。)
小さな自由に対して、大きな自由もある。
(「くにてっすればたまとなる」というよしかわえいじしのことばがある。)
「苦に徹すれば珠となる」という吉川英治氏の言葉がある。
(くるしんでくるしんでじぶんをみがきぬいていけば、)
苦しんで苦しんで自分を磨き抜いていけば、
(「たま」のようにげんぜんとかがやくじぶんになれるのです。)
「珠」のように厳然と輝く自分になれるのです。
(「たま」となれば、なにものにもまけない。じゆうです。しょうりです。)
「珠」となれば、何ものにも負けない。自由です。勝利です。
(それをじかくしていれば、「くろう」でさえたのしみです。)
それを自覚していれば、「苦労」でさえ楽しみです。
(じぶんがきめて、あえてくろうしていく。それが「おおきなじゆう」です。)
自分が決めて、敢えて苦労していく。それが「大きな自由」です。
(じゆうとはそうたいてきなものです。なにもかもじゆうになることなど、)
自由とは相対的なものです。何もかも自由になることなど、
(げんじつには、ありえない。ふじゆうがあるからこそ、じゆうをかんじられる。)
現実には、ありえない。不自由があるからこそ、自由を感じられる。
(また、ふじゆうは、じゆうをもとめているからこそかんじるともいえる。)
また、不自由は、自由を求めているからこそ感じるとも言える。
(「じぶんはじゆうだ」といって、くろうからにげても、)
「自分は自由だ」と言って、苦労から逃げても、
(「じぶんじしん」からはにげられない。)
「自分自身」からは逃げられない。
(じぶんのよわさやせいかく、しゅくめいからはにげられない。)
自分の弱さや性格、宿命からは逃げられない。
(じぶんのかげからにげられないのとおなじです。)
自分の影から逃げられないのと同じです。
(くるしみは、にげればにげるほどおいかけてくる。いぬのようなものだ。)
苦しみは、逃げれば逃げるほど追いかけてくる。犬のようなものだ。
(だから、たちむかうしかない。)
だから、立ち向かうしかない。
(じんせいとは、さいしゅうてきに「むげんのじゆう」をかちとるためのたたかいなのです。)
人生とは、最終的に「無限の自由」を勝ち取る為の戦いなのです。