芥川龍之介 藪の中③
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問題文
(きよみずでらにきたれるおんなのざんげ)
【清水寺に来れる女の懺悔】
(ーーそのこんのすいかんをきたおとこは、わたしをてごめにしてしまうと、しばられたおっとを)
ーーその紺の水干を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を
(ながめながら、あざけるようにわらいました。おっとはどんなにむねんだったでしょう。が、)
眺めながら、嘲るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、
(いくらみもだえをしても、からだじゅうにかかったなわめは、いっそうひしひしとくいいる)
いくら身悶えをしても、体中にかかった縄目は、一層ひしひしと食い入る
(だけです。わたしはおもわずおっとのそばへ、ころぶようにはしりよりました。いえ、)
だけです。わたしは思わず夫の側へ、転ぶように走り寄りました。いえ、
(はしりよろうとしたのです。しかしおとこはとっさのあいだにわたしをそこへけたおしました。)
走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟の間にわたしをそこへ蹴倒しました。
(ちょうどそのとたんです。わたしはおっとのめのなかに、なんともいいようのないかがやきが、)
ちょうどその途端です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、
(やどっているのをさとりました。なんともいいようのない、--わたしはあのめを)
宿っているのを覚りました。何とも云いようのない、--わたしはあの眼を
(おもいだすと、いまでもみぶるいがでずにはいられません。くちさえいちごんもきけないおっとは)
思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。口さえ一言も利けない夫は
(そのせつなのめのなかに、いっさいのこころをつたえたのです。しかしそこにひらめいていたのは、)
その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃いていたのは、
(いかりでもなければかなしみでもない、--ただわたしをさげすんだ、つめたいひかりだった)
怒りでもなければ悲しみでもない、--ただわたしを蔑んだ、冷たい光だった
(ではありませんか?わたしはおとこにけられたよりも、そのめのいろにうたれたように)
ではありませんか?わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように
(われしらずなにかさけんだぎり、とうとうきをうしなってしまいました。そのうちにやっと)
我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。その内にやっと
(きがついてみると、あのこんのすいかんのおとこは、もうどこかへいっていました。あとには)
気がついて見ると、あの紺の水干の男は、もうどこかへ行っていました。跡には
(ただすぎのねがたに、おっとがしばられているだけです。わたしはたけのらくようのうえに、)
ただ杉の根がたに、夫が縛られているだけです。わたしは竹の落葉の上に、
(やっとからだをおこしたなり、おっとのかおをみまもりました。が、おっとのめのいろは、すこしも)
やっと体を起こしたなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しも
(さっきとかわりません。やはりつめたいさげすみのそこに、にくしみのいろをみせて)
さっきと変わりません。やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せて
(いるのです。はずかしさ、かなしさ、はらだたしさ、--そのときのわたしのこころのうちは、)
いるのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、--その時のわたしの心の中は、
(なんといえばよいかわかりません。わたしはよろよろたちあがりながら、おっとのそばへ)
何と云えば好いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上がりながら、夫の側へ
(ちかよりました。「あなた。もうこうなったうえは、あなたとごいっしょには)
近寄りました。「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一緒には
(おられません。わたしはひとおもいにしぬかくごです。しかし、--しかしあなたも)
居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、--しかしあなたも
(おしになすってください。あなたはわたしのはじをごらんになりました。わたしは)
お死になすって下さい。あなたはわたしの恥を御覧になりました。わたしは
(このままあなたひとり、おのこしもうすわけにはまいりません。」わたしはいっしょうけんめいに、)
このままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」わたしは一生懸命に、
(これだけのことをいいました。それでもおっとはいまわしそうに、わたしをみつめている)
これだけの事を云いました。それでも夫は忌わしそうに、わたしを見つめている
(ばかりなのです。わたしはさけそうなむねをおさえながら、おっとのたちをさがしました。)
ばかりなのです。わたしは裂けそうな胸を抑えながら、夫の太刀を探しました。
(が、あのぬすびとにうばわれたのでしょう、たちはもちろんゆみやさえも、やぶのなかには)
が、あの盗人に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には
(みあたりません。しかしさいわいさすがだけは、わたしのあしもとにおちているのです。)
見当たりません。しかし幸い小刀だけは、わたしの足もとに落ちているのです。
(わたしはそのさすがをふりあげると、もういちどおっとにこういいました。)
わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
(「ではおいのちをいただかせてください。わたしもすぐにおともします。」)
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
(おっとはこのことばをきいたとき、やっとくちびるをうごかしました。もちろんくちにはささのらくようが、)
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇を動かしました。勿論口には笹の落葉が、
(いっぱいにつまっていますから、こえはすこしもきこえません。が、わたしはそれを)
一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを
(みると、たちまちそのことばをさとりました。おっとはわたしをさげすんだまま、「ころせ。」)
見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」
(とひとこといったのです。わたしはほとんどゆめうつつのうちに、おっとのはなだのすいかんのむねへ、)
と一言いったのです。わたしはほとんど夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、
(ずぶりとさすがをさしとおしました。わたしはまたこのときも、きをうしなってしまったの)
ずぶりと小刀を刺し通しました。わたしはまたこの時も、気を失ってしまったの
(でしょう。やっとあたりをみまわしたときには、おっとはもうしばられたまま、)
でしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、
(とうにいきがたえていました。そのあおざめたかおのうえには、たけにまじったすぎむらの)
とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交った杉むらの
(そらから、にしびがひとすじおちているのです。わたしはなきごえをのみながら、)
空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、
(しがいのなわをときすてました。そうして、--そうしてわたしがどうなったか?)
死骸の縄を解き捨てました。そうして、--そうしてわたしがどうなったか?
(それだけはもうわたしには、もうしあげるちからもありません。とにかくわたしは)
それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしは
(どうしても、しにきるちからがなかったのです。さすがをのどにつきたてたり、やまのすその)
どうしても、死に切る力がなかったのです。小刀を喉に突き立てたり、山の裾の
(いけへみをなげたり、いろいろなこともしてみましたが、しにきれずにこうしている)
池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている
(かぎり、これもじまんにはなりますまい。(さみしきびしょう)わたしのようにふがいない)
限り、これも自慢にはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ない
(ものは、だいじだいひのかんぜおんぼさつも、おみはなしなすったものかもしれません。)
ものは、大慈大悲の観世音菩薩も、お見放しなすったものかも知れません。
(しかしおっとをころしたわたしは、ぬすびとのてごめにあったわたしは、いったいどうすれば)
しかし夫を殺したわたしは、盗人の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば
(よいのでしょう?いったいわたしは、--わたしは、--(とつぜんはげしきすすりなき))
好いのでしょう?一体わたしは、--わたしは、--(突然烈しき歔欷)