芥川龍之介 地獄変⑤
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問題文
(きゅうそのときのでしのかっこうは、まるでさかがめをころがしたようだとでも)
【九】その時の弟子の恰好は、まるで酒甕を転がしたようだとでも
(もうしましょうか。なにしろてもあしもむごたらしくおりまげられておりますから、)
申しましょうか。何しろ手も足も惨たらしく折り曲げられて居りますから、
(うごくのはただくびばかりでございます。そこへふとったからだじゅうのちが、くさりにめぐりを)
動くのは唯首ばかりでございます。そこへ肥った体中の血が、鎖に循環を
(とめられたので、かおといわずどうといわず、いちめんにひふのいろがあかみばしって)
止められたので、顔と云わず胴と云わず、一面に皮膚の色が赤み走って
(まいるではございませんか。が、よしひでにはそれもかくべつきにならないとみえまして、)
参るではございませんか。が、良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、
(そのさかがめのようなからだのまわりを、あちこちとまわってながめながら、おなじような)
その酒甕のような体のまわりを、あちこちと廻って眺めながら、同じような
(しゃしんのずをなんまいとなくえがいております。そのあいだ、しばられているでしのみが、)
写真の図を何枚となく描いて居ります。その間、縛られている弟子の身が、
(どのくらいくるしかったかということは、なにもわざわざとりたててもうしあげるまでも)
どの位苦しかったかと云う事は、何もわざわざ取り立てて申し上げるまでも
(ございますまい。が、もしなにごともおこらなかったといたしましたら、このくるしみは)
ございますまい。が、もし何事も起らなかったと致しましたら、この苦しみは
(おそらくまだそのうえにも、つづけられたことでございましょう。さいわい(ともうしますより)
恐らくまだその上にも、つづけられた事でございましょう。幸(と申しますより
(あるいはふこうにともうしたほうがよろしいかもしれません。)しばらくいたしますと、)
或は不幸にと申した方がよろしいかも知れません。)暫く致しますと、
(へやのすみにあるつぼのかげから、まるでくろいあぶらのようなものが、ひとすじほそく)
部屋の隅にある壺の蔭から、まるで黒い油のようなものが、一すじ細く
(うねりながら、ながれだしてまいりました。それがはじめのうちはよほどねばりけのある)
うねりながら、流れ出して参りました。それが始めの中は余程粘り気のある
(もののように、ゆっくりうごいておりましたが、だんだんなめらかに、すべりはじめて、)
もののように、ゆっくり動いて居りましたが、だんだん滑らかに、辷り始めて、
(やがてちらちらひかりながら、はなのさきまでながれついたのをながめますと、)
やがてちらちら光りながら、鼻の先まで流れ着いたのを眺めますと、
(でしはおもわず、いきをひいて、「へびがーーへびが。」とわめきました。そのときはまったく)
弟子は思わず、息を引いて、「蛇がーー蛇が。」と喚きました。その時は全く
(からだじゅうのちがいっときにこおるかとおもったともうしますが、それもむりはございません。)
体中の血が一時に凍るかと思ったと申しますが、それも無理はございません。
(へびはじっさいもうすこしで、くさりのくいこんでいる、くびのにくへそのつめたいしたのさきを)
蛇は実際もう少しで、鎖の食いこんでいる、頸の肉へその冷たい舌の先を
(ふれようとしていたのでございます。このおもいもよらないできごとには、いくら)
触れようとしていたのでございます。この思いもよらない出来事には、いくら
(おうどうなよしひででも、ぎょっといたしたのでございましょう。あわててえふでを)
横道な良秀でも、ぎょっと致したのでございましょう。慌てて画筆を
(なげすてながら、とっさにみをかがめたとおもうと、すばやくへびのおをつかまえて、)
投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思うと、素早く蛇の尾をつかまえて、
(ぶらりとさかさにつりさげました。へびはつりさげられながらも、あたまをあげて、)
ぶらりと逆さに吊り下げました。蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、
(きりきりとじぶんのからだへまきつきましたが、どうしてもあのおとこのてのところまでは)
きりきりと自分の体へ巻きつきましたが、どうしてもあの男の手の所までは
(とどきません。「おのれゆえに、あったらひとふでをしそんじたぞ。」よしひでは)
とどきません。「おのれ故に、あったら一筆を仕損じたぞ。」良秀は
(いまいましそうにこうつぶやくと、へびはそのままへやのすみのつぼのなかへほりこんで、それから)
忌々しそうにこう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それから
(さもふしょうぶしょうに、でしのからだへかかっているくさりをといてくれました。それも)
さも不承不承に、弟子の体へかかっている鎖を解いてくれました。それも
(ただといてくれたというだけで、かんじんのでしのほうへは、やさしいことばひとつ)
唯解いてくれたと云うだけで、肝腎の弟子の方へは、優しい言葉一つ
(かけてはやりません。おおかたでしがへびにかまれるよりも、しゃしんのひとふでをあやまったのが)
かけてはやりません。大方弟子が蛇に噛まれるよりも、写真の一筆を誤ったのが
(ごうはらだったのでございましょう。ーーあとでききますと、このへびもやはりすがたを)
業腹だったのでございましょう。ーー後で聞きますと、この蛇もやはり姿を
(うつすためにわざわざあのおとこがかっていたのだそうでございます。)
写す為にわざわざあの男が飼っていたのだそうでございます。
(これだけのことをおききになったのでも、よしひでのきちがいじみた、うすきみのわるい)
これだけの事を御聞きになったのでも、良秀の気違いじみた、薄気味の悪い
(むちゅうになりかたが、ほぼおわかりになったことでございましょう。ところがさいごにひとつ、)
夢中になり方が、略御わかりになった事でございましょう。所が最後に一つ、
(こんどはまだじゅうさんしのでしが、やはりじごくへんのびょうぶのおかげで、いわばいのちにも)
今度はまだ十三四の弟子が、やはり地獄変の屏風の御かげで、云わば命にも
(かかわりかねない、おそろしいめにであいました。そのでしはうまれつきいろのしろい)
関わり兼ねない、恐ろしい目に出遇いました。その弟子は生れつき色の白い
(おんなのようなおとこでございましたが、あるよるのこと、なにげなくししょうのへやへよばれて)
女のような男でございましたが、或夜の事、何気なく師匠の部屋へ呼ばれて
(まいりますと、よしひではとうだいのひのもとでてのひらになにやらなまぐさいにくをのせながら、みなれない)
参りますと、良秀は燈台の火の下で掌に何やら腥い肉をのせながら、見慣れない
(いちわのとりをやしなっているのでございます。おおきさはまず、よのつねのねこほども)
一羽の鳥を養っているのでございます。大きさは先ず、世の常の猫ほども
(ございましょうか。そういえば、みみのようにりょうほうへつきでたうもうといい、こはくの)
ございましょうか。そう云えば、耳のように両方へつき出た羽毛と云い、琥珀の
(ようないろをした、おおきなまるいまなこといい、みたところなんとなくねこににておりました。)
ような色をした、大きな円い眼と云い、見た所何となく猫に似て居りました。
(じゅうがんらいよしひでというおとこは、なんでもじぶんのしていることにくちばしをいれられるのが)
【十】元来良秀と云う男は、何でも自分のしている事に嘴を入れられるのが
(だいきらいで、せんこくもうしあげたへびなどもそうでございますが、じぶんのへやのうちに)
大嫌いで、先刻申し上げた蛇などもそうでございますが、自分の部屋の中に
(なにがあるか、いっさいそういうことはでしたちにもしらせたことがございません。)
何があるか、一切そう云う事は弟子たちにも知らせた事がございません。
(でございますから、あるときはつくえのうえにしゃれこうべがのっていたり、あるときはまた、しろがねのわんや)
でございますから、或時は机の上に髑髏がのっていたり、或時は又、銀の椀や
(まきえのたかつきがならんでいたり、そのときかいているえしだいで、ずいぶんおもいもよらない)
蒔絵の高坏が並んでいたり、その時描いている画次第で、随分思いもよらない
(ものがでておりました。が、ふだんはかようなしなを、いったいどこにしまっておくのか)
物が出て居りました。が、ふだんはかような品を、一体どこにしまって置くのか
(それはまただれにもわからなかったそうでございます。あのおとこがふくとくのおおかみのみょうじょを)
それは又誰にもわからなかったそうでございます。あの男が福徳の大神の冥助を
(うけているなどともうすうわさも、ひとつはたしかにそういうことがおこりになっていたので)
受けているなどと申す噂も、一つは確かにそう云う事が起りになっていたので
(ございましょう。そこででしは、つくえのうえのそのいようなとりも、やはりじごくへんの)
ございましょう。そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の
(びょうぶをえがくのにいりようなのにちがいないと、こうひとりかんがえながら、ししょうのまえへ)
屏風を描くのに入用なのに違いないと、こう独り考えながら、師匠の前へ
(かしこまって、「なにかごようでございますか」と、うやうやしくもうしますと、よしひではまるで)
畏まって、「何か御用でございますか」と、恭しく申しますと、良秀はまるで
(それがきこえないように、あのあかいくちびるへしたなめずりをして、「どうだ。よくなれて)
それが聞えないように、あの赤い唇へ舌なめずりをして、「どうだ。よく馴れて
(いるではないか。」と、とりのほうへあごをやります。「これはなんというもので)
いるではないか。」と、鳥の方へ頤をやります。「これは何と云うもので
(ございましょう。わたしはついぞまだ、みたことがございませんが。」でしはこう)
ございましょう。私はついぞまだ、見た事がございませんが。」弟子はこう
(もうしながら、このみみのある、ねこのようなとりを、きみわるそうにじろじろながめますと)
申しながら、この耳のある、猫のような鳥を、気味悪そうにじろじろ眺めますと
(よしひではあいかわらずいつものあざわらうようなちょうしで、「なに、みたことがない?みやこそだちの)
良秀は不相変何時もの嘲笑うような調子で、「なに、見た事がない? 都育ちの
(にんげんはそれだからこまる。これはにさんにちまえにくらまのりょうしがわしにくれた)
人間はそれだから困る。これは二三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた
(みみずくというとりだ。ただ、こんなになれているのは、たくさんあるまい。」)
耳木兎と云う鳥だ。唯、こんなに馴れているのは、沢山あるまい。」
(こういいながらあのおとこは、おもむろにてをあげて、ちょうどえさをたべてしまったみみずくの)
こう云いながらあの男は、徐に手をあげて、丁度餌を食べてしまった耳木兎の
(せなかのけを、そっとしたからなであげました。するとそのとたんでございます。)
背中の毛を、そっと下から撫で上げました。するとその途端でございます。
(とりはきゅうにするどいこえで、みじかくひとこえないたとおもうと、たちまちつくえのうえからとびたって、)
鳥は急に鋭い声で、短く一声啼いたと思うと、忽ち机の上から飛び立って、
(りょうあしのつめをはりながら、いきなりでしのかおへとびかかりました。もしそのとき、)
両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へとびかかりました。もしその時、
(でしがそでをかざして、あわててかおをかくさなかったなら、きっともう)
弟子が袖をかざして、慌てて顔を隠さなかったなら、きっともう
(きずのひとつやふたつはおわされておりましたろう。あっといいながら、そのそでを)
疵の一つや二つは負わされて居りましたろう。あっと云いながら、その袖を
(ふって、おいはらおうとするところを、みみずくはかさにかかって、くちばしをならしながら、)
振って、逐い払おうとする所を、耳木兎は蓋にかかって、嘴を鳴らしながら、
(またひとつきーーでしはししょうのまえもわすれて、たってはふせぎ、すわってはおい、)
又一突きーー弟子は師匠の前も忘れて、立っては防ぎ、坐っては逐い、
(おもわずせまいへやのなかを、あちらこちらとにげまどいました。けちょうももとより)
思わず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑いました。怪鳥も元より
(それにつれて、たかくひくくかけりながら、すきさえあればまっしぐらに)
それにつれて、高く低く翔りながら、隙さえあれば驀地(まっしぐら)に
(めをめがけてとんできます。そのたびにばさばさと、すさまじくつばさをならすのが、)
眼を目がけて飛んで来ます。その度にばさばさと、凄じく翼を鳴らすのが、
(らくようのにおいだか、たきのしぶきともあるいはまたさるざけのすえたいきれだかなにやらあやしげな)
落葉の匂だか、滝の水沫とも或は又猿酒の饐えたいきれだか何やら怪しげな
(もののけはいをさそって、きみのわるさといったらございません。そういえば)
もののけはいを誘って、気味の悪さと云ったらございません。そう云えば
(そのでしも、うすぐらいあぶらびのひかりさえおぼろげなつきあかりかとおもわれて、ししょうのへやが)
その弟子も、うす暗い油火の光さえ朧げな月明りかと思われて、師匠の部屋が
(そのままとおいやまおくの、ようきにとざされたたにのような、こころぼそいきがしたとかもうした)
その儘遠い山奥の、妖気に閉された谷のような、心細い気がしたとか申した
(そうでございます。しかしでしがおそろしかったのは、なにもみみずくにおそわれるという)
そうでございます。しかし弟子が恐しかったのは、何も耳木兎に襲われると云う
(そのことばかりではございません。いや、それよりもいっそうみのけがよだったのは、)
その事ばかりではございません。いや、それよりも一層身の毛がよだったのは、
(ししょうのよしひでがそのさわぎをれいぜんとながめながら、おもむろにかみをのべふでをねぶって、)
師匠の良秀がその騒ぎを冷然と眺めながら、徐に紙を展べ筆を舐って、
(おんなのようなしょうねんがいぎょうなとりにさいなまれる、ものすごいありさまをうつしていたことでございます。)
女の様な少年が異形な鳥に虐まれる、物凄い有様を写していた事でございます。
(でしはひとめそれをみますと、たちまちいいようのないおそろしさにおびやかされて、)
弟子は一目それを見ますと、忽ち云いようのない恐ろしさに脅かされて、
(じっさいいっときはししょうのために、ころされるのではないかとさえ、おもったともうして)
実際一時は師匠の為に、殺されるのではないかとさえ、思ったと申して
(おりました。)
居りました。