芥川龍之介 地獄変⑦

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(じゅうさんところがさるはわたくしのやりかたがまだるかったのでございましょう。よしひでは)

【十三】所が猿は私のやり方がまだるかったのでございましょう。良秀は

(さもさももどかしそうに、にさんどわたくしのあしのまわりをかけまわったとおもいますと、)

さもさももどかしそうに、二三度私の足のまわりを駆けまわったと思いますと、

(まるでのどをしめられたようなこえでなきながら、いきなりわたくしのかたのあたりへ)

まるで咽を絞められたような声で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ

(いっそくとびにとびあがりました。わたくしはおもわずうなじをそらせて、そのつめに)

一足飛びに飛び上りました。私は思わず頸を反らせて、その爪に

(かけられまいとする、さるはまたすいかんのそでにかじりついて、わたくしのからだから)

かけられまいとする、猿は又水干の袖にかじりついて、私の体から

(すべりおちまいとする、ーーそのひょうしに、わたくしはわれしらずふたあしみあしよろめいて、)

辷り落ちまいとする、ーーその拍子に、私は我知らず二足三足よろめいて、

(そのやりどへうしろざまに、したたかわたくしのからだをうちつけました。こうなってはもう)

その遣戸へ後ざまに、したたか私の体を打ちつけました。こうなってはもう

(いっこくもちゅうちょしているばあいではございません。わたくしはやにわにやりどをあけはなして、)

一刻も躊躇している場合ではございません。私は矢庭に遣戸を開け放して、

(つきあかりのとどかないおくのほうへおどりこもうといたしました。が、そのときわたくしのめを)

月明りのとどかない奥の方へ跳りこもうと致しました。が、その時私の眼を

(さえぎったものはーーいや、それよりももっとわたくしは、どうじにそのへやのうちから、)

遮ったものはーーいや、それよりももっと私は、同時にその部屋の中から、

(はじかれたようにかけだそうとしたおんなのほうにおどろかされました。おんなはであいがしらにあやうく)

弾かれたように駈け出そうとした女の方に驚かされました。女は出合頭に危く

(わたくしにつきあたろうとして、そのままそとへまろびでましたが、なぜかそこへひざをついて、)

私に衝き当ろうとして、その儘外へ転び出ましたが、何故かそこへ膝をついて、

(いきをきらしながらわたくしのかおを、なにかおそろしいものでもみるように、おののきおののき)

息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るように、戦き戦き

(みあげているのでございます。それがよしひでのむすめだったことは、なにもわざわざ)

見上げているのでございます。それが良秀の娘だったことは、何もわざわざ

(もうしあげるまでもございますまい。が、そのばんのあのおんなは、まるでにんげんが)

申し上げるまでもございますまい。が、その晩のあの女は、まるで人間が

(ちがったように、いきいきとわたくしのめにうつりました。めはおおきくかがやいております。)

違ったように、生き生きと私の眼に映りました。眼は大きく輝いております。

(ほおもあかくもえておりましたろう。そこへしどけなくみだれたはかまやうちぎが、いつもの)

頬も赤く燃えて居りましたろう。そこへしどけなく乱れた袴や袿が、何時もの

(おさなさとはうってかわったなまめかしささえもそえております。これがじっさいあのよわよわしい)

幼さとは打って変った艶しささえも添えて居ります。これが実際あの弱々しい

(なにごとにもひかえめがちなよしひでのむすめでございましょうか。ーーわたくしはやりどにみをささえて、)

何事にも控え目勝な良秀の娘でございましょうか。ーー私は遣戸に身を支えて、

(このつきあかりのうちにいるうつくしいむすめのすがたをながめながら、あわただしくとおのいていく)

この月明りの中にいる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行く

など

(もうひとりのあしおとを、ゆびさせるもののようにゆびさして、だれですとしずかにめで)

もう一人の足音を、指させるもののように指さして、誰ですと静に眼で

(たずねました。するとむすめはくちびるをかみながら、だまってくびをふりました。そのようすが)

尋ねました。すると娘は唇を噛みながら、黙って首をふりました。その容子が

(いかにもまた、くやしそうなのでございます。そこでわたくしはみをかがめながら、)

如何にも亦、口惜しそうなのでございます。そこで私は身をかがめながら、

(むすめのみみへくちをつけるようにして、こんどは「だれです」とこごえでたずねました。が、)

娘の耳へ口をつけるようにして、今度は「誰です」と小声で尋ねました。が、

(むすめはやはりくびをふったばかりで、なんともへんじをいたしません。いや、それとどうじに)

娘はやはり首を振ったばかりで、何とも返事を致しません。いや、それと同時に

(ながいまつげのさきへ、なみだをいっぱいためながら、さきよりもかたくくちびるをかみしめて)

長い睫毛の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊く唇を噛みしめて

(いるのでございます。しょうとくおろかなわたくしには、わかりすぎているほどわかっていることのほかは、)

いるのでございます。性得愚な私には、分りすぎている程分っている事の外は、

(あいにくなにひとつのみこめません。でございますから、わたくしはことばのかけようもしらないで)

生憎何一つ呑みこめません。でございますから、私は言のかけようも知らないで

(しばらくはただ、むすめのむねのどうきにみみをすませるようなこころもちで、じっとそこに)

暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるような心もちで、じっとそこに

(たちすくんでおりました。もっともこれはひとつには、なぜかこのうえといただすのが)

立ちすくんで居りました。尤もこれは一つには、何故かこの上問い訊すのが

(わるいような、きとがめがいたしたからでもございます。ーー)

悪いような、気咎めが致したからでもございます。ーー

(それがどのくらいつづいたか、わかりません。が、やがてあけはなしたやりどをとじながら)

それがどの位続いたか、わかりません。が、やがて明け放した遣戸を閉じながら

(すこしはじょうきのさめたらしいむすめのほうをみかえって、「もうぞうしへおかえりなさい」と)

少しは上気の褪めたらしい娘の方を見返って、「もう曹司へ御帰りなさい」と

(できるだけやさしくもうしました。そうしてわたくしもじぶんながら、なにかみてはならない)

出来る丈やさしく申しました。そうして私も自分ながら、何か見てはならない

(ものをみたような、ふあんなこころもちにおびやかされて、だれにともなくはずかしいおもいを)

ものを見たような、不安な心もちに脅されて、誰にともなく恥しい思いを

(しながら、そっともときたほうへあるきだしました。ところがじゅっぽとあるかないうちに、)

しながら、そっと元来た方へ歩き出しました。所が十歩と歩かない中に、

(だれかまたわたくしのはかまのすそを、うしろからおそるおそる、ひきとめるではございませんか。)

誰か又私の袴の裾を、後から恐る恐る、引き止めるではございませんか。

(わたくしはおどろいて、ふりむきました。あなたがたはそれがなんだったとおぼしめします?)

私は驚いて、振り向きました。あなた方はそれが何だったと思召します?

(みるとそれはわたくしのあしもとにあのさるのよしひでが、にんげんのようにりょうてをついて、)

見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のように両手をついて、

(おうごんのすずをならしながら、なんどとなくていねいにあたまをさげているのでございました。)

黄金の鈴を鳴しながら、何度となく丁寧に頭を下げているのでございました。

(じゅうよんするとそのばんのできごとがあってから、はんつきばかりのちのことでございます。)

【十四】するとその晩の出来事があってから、半月ばかり後の事でございます。

(あるひよしひではとつぜんおやしきへまいりまして、おおとのさまへじきのおめどおりをねがいました。)

或日良秀は突然御邸へ参りまして、大殿様へ直の御眼通りを願いました。

(いやしいみぶんのものでございますが、ひごろからかくべつぎょいにいっていたからで)

卑しい身分のものでございますが、日頃から格別御意に入っていたからで

(ございましょう。だれにでもよういにおあいになったことのないおおとのさまが、そのひも)

ございましょう。誰にでも容易に御会いになった事のない大殿様が、その日も

(こころよくごしょうちになって、さっそくおまえちかくへおめしになりました。あのおとこはれいのとおり、)

快く御承知になって、早速御前近くへ御召しになりました。あの男は例の通り、

(こうぞめのかりぎぬになえたえぼしをいただいて、いつもよりはいっそうきむずかしそうなかおを)

香染の狩衣に萎えた烏帽子を頂いて、何時もよりは一層気むずかしそうな顔を

(しながら、うやうやしくおまえへへいふくいたしましたが、やがてしわがれたこえでもうしますには)

しながら、恭しく御前へ平伏致しましたが、やがて嗄れた声で申しますには

(「かねがねおいいつけになりましたじごくへんのびょうぶでございますが、わたしもにちやに)

「兼ねがね御云いつけになりました地獄変の屏風でございますが、私も日夜に

(たんせいをぬきんでて、ふでをとりましたかいがみえまして、もはやあらましは)

丹誠を抽んでて、筆を執りました甲斐が見えまして、もはやあらましは

(できあがったのもどうぜんでございまする。」「それはめでたい。よもまんぞくじゃ。」)

出来上ったのも同前でございまする。」「それは目出度い。予も満足じゃ。」

(しかしこうおっしゃるおおとのさまのおこえには、なぜかみょうにちからのない、はりあいのぬけたところが)

しかしこう仰有る大殿様の御声には、何故か妙に力のない、張合のぬけた所が

(ございました。「いえ、それがいっこうめでたくはござりませぬ。」よしひでは、)

ございました。「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。」良秀は、

(ややはらだたしそうなようすで、じっとめをふせながら、「あらましはできあがりましたが)

稍腹立しそうな容子で、じっと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが

(ただひとつ、いまもってわたしにはえがけぬところがございまする。」「なに、えがけぬところがある?」)

唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。」「なに、描けぬ所がある?」

(「さようでございまする。わたしはそうじて、みたものでなければえがけませぬ。)

「さようでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。

(よしえがけても、とくしんがまいりませぬ。それではえがけぬもおなじことでございませぬか」)

よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか」

(これをおききになると、おおとのさまのおかおには、あざけるようなごびしょうがうかびました。)

これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るような御微笑が浮びました。

(「ではじごくへんのびょうぶをえがこうとすれば、じごくをみなければなるまいな。」)

「では地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな。」

(「さようでございまする。が、わたしはさきとしおおかじがございましたときに、えんねつじごくの)

「さようでございまする。が、私は先年大火事がございました時に、炎熱地獄の

(もうかにもまがうひのてを、まのあたりにながめました。「よじりふどう」のかえんを)

猛火にもまがう火の手を、眼のあたりに眺めました。「よじり不動」の火焔を

(えがきましたのも、じつはあのかじにあったからでございまする。ごぜんもあのえは)

描きましたのも、実はあの火事に遇ったからでございまする。御前もあの絵は

(ごしょうちでございましょう。」「しかしつみびとはどうじゃ。ごくそつはみたことが)

御承知でございましょう。」「しかし罪人はどうじゃ。獄卒は見た事が

(あるまいな。」おおとのさまはまるでよしひでのもうすことがおみみにはいらなかったような)

あるまいな。」大殿様はまるで良秀の申す事が御耳にはいらなかったような

(ごようすで、こうたたみかけておたずねになりました。)

御容子で、こう畳みかけて御尋ねになりました。

(「わたしはくろがねのくさりにいましめられたものをみたことがございまする。けちょうになやまされる)

「私は鉄の鎖に縛られたものを見た事がございまする。怪鳥に悩まされる

(もののすがたも、つぶさにうつしとりました。さればつみびとのかしゃくにくるしむさまもしらぬと)

ものの姿も、具に写しとりました。されば罪人の呵責に苦しむ様も知らぬと

(もうされませぬ。またごくそつはーー」といって、よしひではきみのわるいくしょうをもらしながら、)

申されませぬ。又獄卒はーー」と云って、良秀は気味の悪い苦笑を洩しながら、

(「またごくそつは、ゆめうつつになんどとなく、わたしのめにうつりました。あるいはごず、あるいはめず、)

「又獄卒は、夢現に何度となく、私の眼に映りました。或は牛頭、或は馬頭、

(あるいはさんめんろっぴのおにのかたちが、おとのせぬてをたたき、こえのでぬくちをひらいて、わたしを)

或は三面六臂の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を

(さいなみにまいりますのは、ほとんどまいにちまいよのことともうしてもよろしゅうございましょう。)

虐みに参りますのは、殆ど毎日毎夜の事と申してもよろしゅうございましょう。

(ーーわたしのえがこうとしてえがけぬのは、そのようなものではございませぬ。」)

ーー私の描こうとして描けぬのは、そのようなものではございませぬ。」

(それにはおおとのさまも、さすがにおおどろきになったでございましょう。しばらくはただ)

それには大殿様も、流石に御驚きになったでございましょう。暫くは唯

(いらだたしそうに、よしひでのかおをながめておいでになりましたが、やがてまゆをけわしく)

苛立たしそうに、良秀の顔を眺めて御出でになりましたが、やがて眉を険しく

(おうごかしになりながら、「ではなにがえがけぬともうすのじゃ。」とうちすてるように)

御動かしになりながら、「では何が描けぬと申すのじゃ。」と打ち捨るように

(おっしゃいました。)

仰有いました。

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