芥川龍之介 地獄変⑩(終)
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問題文
(じゅうくが、さるのすがたがみえたのは、ほんのいっしゅんかんでございました。)
【十九】が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。
(きんなしじのようなひのこがひとしきり、ぱっとそらへあがったかとおもううちに、)
金梨子地のような火の粉が一しきり、ぱっと空へ上ったかと思う中に、
(さるはもとよりむすめのすがたも、こくえんのそこにかくされて、おにわのまんなかにはただ、)
猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隠されて、御庭のまん中には唯、
(いちりょうのひのくるまがすさまじいおとをたてながら、もえたぎっているばかりでございます。)
一輛の火の車が凄じい音を立てながら、燃え沸っているばかりでございます。
(いや、ひのくるまというよりも、あるいはひのはしらといったほうが、あのほしぞらをついて)
いや、火の車と云うよりも、或は火の柱と云った方が、あの星空を衝いて
(にえかえる、おそろしいかえんのありさまにはふさわしいかもしれません。)
煮え返る、恐ろしい火焔の有様にはふさわしいかも知れません。
(そのひのはしらをまえにして、こりかたまったようにたっているよしひでは、ーーなんという)
その火の柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、ーー何と云う
(ふしぎなことでございましょう。あのさっきまでじごくのせめくになやんでいたような)
不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責苦に悩んでいたような
(よしひでは、いまはいいようのないかがやきを、さながらこうこつとしたほうえつのかがやきを、)
良秀は、今は云いようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、
(しわだらけなまんめんにうかべながら、おおとのさまのおまえもわすれたのか、りょううでをしっかりむねに)
皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に
(くんで、たたずんでいるではございませんか。それがどうもあのおとこのめのうちには、)
組んで、佇んでいるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、
(むすめのもだえしぬありさまがうつっていないようなのでございます。ただうつくしいかえんのいろと、)
娘の悶え死ぬ有様が映っていないようなのでございます。唯美しい火焔の色と、
(そのうちにくるしむにょにんのすがたとが、かぎりなくこころをよろこばせるーーそういうけしきに)
その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせるーーそう云う景色に
(みえました。しかもふしぎなのは、なにもあのおとこがひとりむすめのだんまつまをうれしそうに)
見えました。しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しそうに
(ながめていた、そればかりではございません。そのときのよしひでには、なぜかにんげんとは)
眺めていた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは
(おもわれない、ゆめにみるししおうのいかりににた、あやしげなおごそかさがございました。)
思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳さがございました。
(でございますからふいのひのてにおどろいて、なきさわぎながらとびまわる)
でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまわる
(かずのしれないやちょうでさえ、きのせいかよしひでのもみえぼしのまわりへは、)
数の知れない夜鳥でさえ、気のせいか良秀の揉烏帽子のまわりへは、
(ちかづかなかったようでございます。おそらくはむしんのとりのめにも、)
近づかなかったようでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、
(あのおとこのあたまのうえに、えんこうのごとくかかっている、ふかしぎないげんがみえたので)
あの男の頭の上に、えん光の如く懸っている、不可思議な威厳が見えたので
(ございましょう。とりでさえそうでございます。ましてわたくしたちはしちょうまでも、)
ございましょう。鳥でさえそうでございます。まして私たちは仕丁までも、
(みないきをひそめながら、みのうちもふるえるばかり、いようなずいきのこころにみちみちて、)
皆息をひそめながら、身の内も震えるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、
(まるでかいがんのほとけでもみるように、めもはなさず、よしひでをみつめました。)
まるで開眼の仏でも見るように、眼も離さず、良秀を見つめました。
(そらいちめんになりわたるくるまのひと、それにたましいをうばわれて、たちすくんでいるよしひでと)
空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪われて、立ちすくんでいる良秀と
(ーーなんというそうごん、なんというかんきでございましょう。が、そのうちでたった、)
ーー何と云う荘厳、何と云う歓喜でございましょう。が、その中でたった、
(ごえんのうえのおおとのさまだけは、まるでべつじんかとおもわれるほど、おかおのいろもあおざめて、)
御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思われる程、御顔の色も青ざめて、
(くちもとにあわをおためになりながら、むらさきのさしぬきのひざをりょうてにしっかり)
口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫の膝を両手にしっかり
(おつかみになって、ちょうどのどのかわいたけもののようにあえぎつづけて)
御つかみになって、丁度喉の渇いた獣のようにあえぎ続けて
(いらっしゃいました。・・・)
いらっしゃいました。・・・
(にじゅうそのよるゆきげのごしょで、おおとのさまがくるまをおやきになったことは、)
【二十】その夜雪解の御所で、大殿様が車を御焼きになった事は、
(だれのくちからともなくせじょうへもれましたが、それについてはずいぶんいろいろなひはんを)
誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろいろな批判を
(いたすものもおったようでございます。まずだいいちになぜおおとのさまがよしひでのむすめを)
致すものも居ったようでございます。先ず第一に何故大殿様が良秀の娘を
(おやきころしなすったか、ーーこれは、かなわぬこいのうらみからなすったのだという)
御焼き殺しなすったか、ーーこれは、かなわぬ恋の恨みからなすったのだと云う
(うわさが、いちばんおおうございました。が、おおとのさまのおぼしめしは、まったくくるまをやきひとを)
噂が、一番おおうございました。が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を
(ころしてまでも、びょうぶのえをえがこうとするえしこんじょうのよこしまなのをこらす)
殺してまでも、屏風の画を描こうとする絵師根性の曲なのを懲らす
(おつもりだったのにそういございません。げんにわたくしは、おおとのさまがおくちづからそう)
御心算だったのに相違ございません。現に私は、大殿様が御口づからそう
(おっしゃるのをうかがったことさえございます。それからあのよしひでが、もくぜんでむすめを)
仰有るのを伺った事さえございます。それからあの良秀が、目前で娘を
(やきころされながら、それでもびょうぶのえをえがきたいというそのぼくせきのような)
焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云うその木石のような
(こころもちが、やはりなにかとあげつらわれたようでございます。なかにはあのおとこを)
心もちが、やはり何かとあげつらわれたようでございます。中にはあの男を
(ののしって、えのためにはおやこのじょうあいもわすれてしまう、じんめんじゅうしんのくせものだなどと)
罵って、画の為には親子の情愛も忘れてしまう、人面獣心の曲者だなどと
(もうすものもございました。あのよがわのそうずさまなどは、こういうかんがえにみかたを)
申すものもございました。あの横川の僧都様などは、こう云う考えに味方を
(なすったおひとりで、「いかにいちげいいちのうにひいでようとも、ひととしてごじょうをわきまえねば)
なすった御一人で、「如何に一芸一能に秀でようとも、人として五常を弁えねば
(じごくにおちるほかはない」などと、よくおっしゃったものでございます。)
地獄に堕ちる外はない」などと、よく仰有ったものでございます。
(ところがそののちひとつきばかりたって、いよいよじごくへんのびょうぶができあがりますとよしひではさっそく)
所がその後一月ばかり経って、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速
(それをおやしきへもってでて、うやうやしくおおとのさまのごらんにそなえました。ちょうどそのときは)
それを御邸へ持って出て、恭しく大殿様の御覧に供えました。丁度その時は
(そうずさまもおいあわせになりましたが、びょうぶのえをひとめごらんになりますと、)
僧都様も御居合わせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、
(さすがにあのいちじょうのてんちにふきすさんでいるひのあらしのおそろしさに)
流石にあの一帖の天地に吹き荒んでいる火の嵐の恐ろしさに
(おおどろきなすったのでございましょう。それまではにがいかおをなさりながら、)
御驚きなすったのでございましょう。それまでは苦い顔をなさりながら、
(よしひでのほうをじろじろねめつけていらしったのが、おもわずしらずひざをうって、)
良秀の方をじろじろ睨めつけていらしったのが、思わず知らず膝を打って、
(「でかしおった」とおっしゃいました。このことばをおききになって、)
「出かし居った」と仰有いました。この言を御聞きになって、
(おおとのさまがくしょうなすったときのごようすも、いまだにわたくしはわすれません。)
大殿様が苦笑なすった時の御容子も、未だに私は忘れません。
(それいらいあのおとこをわるくいうものは、すくなくともおやしきのうちだけでは、ほとんどひとりも)
それ以来あの男を悪く云うものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人も
(いなくなりました。だれでもあのびょうぶをみるものは、いかにひごろよしひでをにくく)
いなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く
(おもっているにせよ、ふしぎにおごそかなこころもちにうたれて、えんねつじごくのだいくげんを)
思っているにせよ、不思議に厳かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を
(にょじつにかんじるからでもございましょうか。)
如実に感じるからでもございましょうか。
(しかしそうなったじぶんには、よしひではもうこのよにないひとのかずにはいって)
しかしそうなった時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいって
(おりました。それもびょうぶのできあがったつぎのよるに、じぶんのへやのはりへなわをかけて、)
居りました。それも屏風の出来上った次の夜に、自分の部屋の梁へ縄をかけて、
(くびれしんだのでございます。ひとりむすめをさきだてたあのおとこは、おそらくあんかんとして)
縊れ死んだのでございます。一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として
(いきながらえるのにこたえなかったのでございましょう。しがいはいまでもあのおとこの)
生きながらえるのに堪えなかったのでございましょう。死骸は今でもあの男の
(いえのあとにうまっております。もっともちいさなしるしのいしは、そののちなんじゅうねんかの)
家の跡に埋まって居ります。尤も小さな標の石は、その後何十年かの
(あまかぜにさらされて、とうのむかしだれのはかともしれないように、)
雨風に曝されて、とうの昔誰の墓とも知れないように、
(こけむしているにちがいございません。)
苔蒸しているにちがいございません。
(ーーたいしょうななねんしがつーー)
ーー大正七年四月ーー