太宰治 姥捨⑤
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問題文
(よほどよっていたので、どうにかねむれた。ぼんやりめがさめたのは、)
よほど酔っていたので、どうにか眠れた。ぼんやり眼がさめたのは、
(ひるすこしすぎで、かひちは、わびしさにたえられなかった。はねおきて、すぐまた)
ひる少し過ぎで、嘉七は、わびしさに堪えられなかった。はね起きて、すぐまた
(さむいさむいをいいながら、したのひとに、おさけをたのんだ。「さあ、もう)
寒い寒いを言いながら、下のひとに、お酒をたのんだ。「さあ、もう
(おきるのだよ。しゅっぱつだ。」かずえは、くちをちいさくあけてねむっていた。きょとんと)
起きるのだよ。出発だ。」かず枝は、口を小さくあけて眠っていた。きょとんと
(めをひらいて、「あ、もうそんなじかんになったの?」「いや、おひるすこしすぎた)
眼をひらいて、「あ、もうそんな時間になったの?」「いや、おひる少し過ぎた
(だけだが、わたしはもう、かなわん。」なにもかんがえたくなかった。はやく)
だけだが、私はもう、かなわん。」なにも考えたくなかった。早く
(しにたかった。)
死にたかった。
(それから、はやかった。このへんのおんせんをついでにまわってみたいからと、)
それから、はやかった。このへんの温泉をついでにまわってみたいからと、
(かずえにいわせて、やどをたった。そらもからりとはれていたし、わたしたちはぶらぶら)
かず枝に言わせて、宿を立った。空もからりと晴れていたし、私たちはぶらぶら
(あるいてとちゅうのけしきをみながらやまをおりるから、とじどうしゃをことわり、)
歩いて途中のけしきを見ながら山を下りるから、と自動車をことわり、
(いっちょうほどあるいて、ふとふりむくと、やどのろうさいが、ずっとうしろをはしって)
一丁ほど歩いて、ふと振り向くと、宿の老妻が、ずっとうしろを走って
(おいかけてきていた。「おい、おばさんがきたよ。」かひちはふあんであった。)
追いかけて来ていた。「おい、おばさんが来たよ。」嘉七は不安であった。
(「これ、なあ、」ろうさいは、かおをあからめて、かひちにかみづつみをさしだし、)
「これ、なあ、」老妻は、顔をあからめて、嘉七に紙包を差し出し、
(「まわただよ。うちでつむいで、こしらえた。なにもないのでな。」「ありがとう。」)
「真綿だよ。うちで紡いで、こしらえた。何もないのでな。」「ありがとう。」
(とかひち。「おばさん、ま、そんなしんぱいして。」とかずえ。なにか、ふたり、)
と嘉七。「おばさん、ま、そんな心配して。」とかず枝。何か、ふたり、
(ほっとしていた。かひちは、さっさとあるきだした。「おだいじに、いきなよ。」)
ほっとしていた。嘉七は、さっさと歩きだした。「おだいじに、行きなよ。」
(「おばさんもおたっしゃで。」うしろでは、まだあいさつしていた。かひちはくるり)
「おばさんもお達者で。」うしろでは、まだ挨拶していた。嘉七はくるり
(まわれみぎして、「おばさん、あくしゅ。」てをつよくにぎられてろうさいのかおには、)
廻れ右して、「おばさん、握手。」手をつよく握られて老妻の顔には、
(きまりわるさと、それからきょうふのいろまであらわれていた。「よってるのよ。」)
気まり悪さと、それから恐怖の色まであらわれていた。「酔ってるのよ。」
(かずえはかたわらからちゅうしゃくした。)
かず枝は傍から注釈した。
(よっていた。わらいわらいろうさいとわかれ、だらだらやまをくだるにしたがって、ゆきも)
酔っていた。笑い笑い老妻とわかれ、だらだら山を下るにしたがって、雪も
(うすくなり、かひちはこごえで、あそこか、ここか、とかずえにそうだんをはじめた。)
薄くなり、嘉七は小声で、あそこか、ここか、とかず枝に相談をはじめた。
(かずえは、もっとみなかみのえきにちかいほうが、さびしくなくてよい、といった。)
かず枝は、もっと水上の駅にちかいほうが、淋しくなくてよい、と言った。
(やがて、みなかみのまちが、がんかにくろくてんかいした。「もはや、ゆうよはならん、ね。」)
やがて、水上のまちが、眼下に黒く展開した。「もはや、猶予はならん、ね。」
(かひちは、ようきをよそおうていった。「ええ。」かずえは、まじめにうなずいた。)
嘉七は、陽気を装うて言った。「ええ。」かず枝は、真面目にうなずいた。
(みちのひだりがわのすぎばやしに、かひちは、わざとゆっくりはいっていった。かずえもつづいた。)
路の左側の杉林に、嘉七は、わざとゆっくりはいっていった。かず枝も続いた。
(ゆきは、ほとんどなかった。らくようがあつくつもっていて、じめじめぬかった。)
雪は、ほとんどなかった。落葉が厚く積っていて、じめじめぬかった。
(かまわず、ずんずんすすんだ。きゅうなこうばいははってのぼった。しぬことにも)
かまわず、ずんずん進んだ。急な勾配は這ってのぼった。死ぬことにも
(どりょくがいる。ふたりすわれるほどのそうげんを、やっとさがしあてた。そこには、すこし)
努力が要る。二人坐れるほどの草原を、やっと捜し当てた。そこには、すこし
(ひがあたって、いずみもあった。「ここにしよう。」つかれていた。)
日が当って、泉もあった。「ここにしよう。」疲れていた。
(かずえははんけちをしいてすわってかひちにわらわれた。かずえは、ほとんど)
かず枝はハンケチを敷いて坐って嘉七に笑われた。かず枝は、ほとんど
(むごんであった。ふろしきづつみからやくひんをつぎつぎとりだし、ふうをきった。かひちは、)
無言であった。風呂敷包から薬品をつぎつぎ取り出し、封を切った。嘉七は、
(それをとりあげて、「くすりのことは、わたしでなくちゃわからない。どれどれ、)
それを取りあげて、「薬のことは、私でなくちゃわからない。どれどれ、
(おまえは、これだけのめばいい。」「すくないのねえ。これだけでしねるの?」)
おまえは、これだけのめばいい。」「すくないのねえ。これだけで死ねるの?」
(「はじめのひとは、それだけでしねます。わたしは、しじゅうのんでいるから、)
「はじめのひとは、それだけで死ねます。私は、しじゅうのんでいるから、
(おまえのじゅうばいはのまなければいけないのです。いきのこったら、めもあてられん)
おまえの十倍はのまなければいけないのです。生きのこったら、めもあてられん
(からなあ。」いきのこったら、ろうやだ。けれどもおれは、かずえにいきのこらせて、)
からなあ。」生き残ったら、牢屋だ。けれどもおれは、かず枝に生き残らせて、
(そうしてひくつなふくしゅうをとげようとしているのではないか。まさか、そんな、)
そうして卑屈な復讐をとげようとしているのではないか。まさか、そんな、
(あまったるいつうぞくしょうせつじみた、ーーはらだたしくさえなって、かひちは、てのひらから)
あまったるい通俗小説じみた、ーー腹立たしくさえなって、嘉七は、掌から
(あふれるほどのじょうざいをいずみのみずで、ぐっ、ぐっとのんだ。かずえも、へたなてつきで)
溢れるほどの錠剤を泉の水で、ぐっ、ぐっとのんだ。かず枝も、下手な手つきで
(いっしょにのんだ。せっぷんして、ふたりならんでねころんで、「じゃあ、おわかれだ。)
一緒にのんだ。接吻して、ふたりならんで寝ころんで、「じゃあ、おわかれだ。
(いきのこったやつは、つよくいきるんだぞ。」かひちは、さいみんざいだけでは、なかなか)
生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。」嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか
(しねないことをしっていた。そっとじぶんのからだをがけのふちまでいどうさせて、)
死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを崖のふちまで移動させて、
(へこおびをほどき、くびにまきつけ、そのはしをくわににたみきにしばり、ねむるとどうじに)
兵児帯をほどき、首に巻きつけ、その端を桑に似た幹にしばり、眠ると同時に
(がけからすべりおちて、そうしてくびれてしぬる、そんなしかけにしておいた。)
崖から滑り落ちて、そうしてくびれて死ぬる、そんな仕掛けにして置いた。
(まえから、そのためにがけのうえのこのそうげんを、とくにせんていしたのである。)
まえから、そのために崖のうえのこの草原を、とくに選定したのである。
(ねむった。ずるずるすべっているのをかすかにいしきした。)
眠った。ずるずる滑っているのをかすかに意識した。
(さむい。めをあいた。まっくらだった。つきかげがこぼれおちて、ここは?)
寒い。眼をあいた。まっくらだった。月かげがこぼれ落ちて、ここは?
(ーーはっときづいた。おれはいきのこった。のどへてをやる。へこおびは、ちゃんと)
ーーはっと気附いた。おれは生き残った。のどへ手をやる。兵児帯は、ちゃんと
(からみついている。こしが、つめたかった。みずたまりにおちていた。)
からみついている。腰が、つめたかった。水たまりに落ちていた。
(それでわかった。がけにそってすいちょくにしたにおちず、からだがおうてんして、がけのうえの)
それでわかった。崖に沿って垂直に下に落ちず、からだが横転して、崖のうえの
(くぼちにおちこんだ。くぼちには、いずみからちょろちょろながれだすみずがたまって、)
窪地に落ち込んだ。窪地には、泉からちょろちょろ流れ出す水がたまって、
(かひちのせなかからこしにかけてほねまでこおるほどつめたかった。)
嘉七の背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった。
(おれは、いきた。しねなかったのだ。これは、げんしゅくのじじつだ。このうえは、)
おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、
(かずえをしなせてはならない。ああ、いきているように、いきているように。)
かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているように。
(ししなえて、おきあがることさえよういでなかった。こんしんのちからで、おきなおり、)
四肢萎えて、起きあがることさえ容易でなかった。渾身のちからで、起き直り、
(きのみきにむすびつけたへこおびをほどいてくびからはずし、みずたまりのなかにあぐらを)
木の幹に結びつけた兵児帯をほどいて首からはずし、水たまりの中にあぐらを
(かいて、あたりをそっとみまわした。かずえのすがたは、なかった。はいまわって、)
かいて、あたりをそっと見廻した。かず枝の姿は、無かった。這いまわって、
(かずえをさがした。がけのしたにくろいぶったいをみとめた。ちいさいいぬころのようにもみえた。)
かず枝を捜した。崖の下に黒い物体を認めた。小さい犬ころのようにも見えた。
(そろそろがけをはいおりて、ちかづいてみると、かずえであった。そのあしをつかんで)
そろそろ崖を這い降りて、近づいて見ると、かず枝であった。その脚をつかんで
(みると、つめたかった。しんだか?じぶんのてのひらを、かずえのくちにかるくあてて、)
みると、冷たかった。死んだか? 自分の掌を、かず枝の口に軽くあてて、
(こきゅうをしらべた。なかった。ばか!しにやがった。わがままなやつだ。)
呼吸をしらべた。無かった。ばか! 死にやがった。わがままなやつだ。
(いようなふんぬで、かっとなった。あらあらしくてくびをつかんでみゃくをしらべた。)
異様な憤怒で、かっとなった。あらあらしく手首をつかんで脈をしらべた。
(かすかにみゃくはくがかんじられた。いきている。いきている。むねにてをいれてみた。)
かすかに脈搏が感じられた。生きている。生きている。胸に手をいれてみた。
(あたたかかった。なあんだ。ばかなやつ。いきていやがる。えらいぞ、えらいぞ。)
温かった。なあんだ。ばかなやつ。生きていやがる。偉いぞ、偉いぞ。
(ずいぶん、いとしくおもわれた。あれくらいのぶんりょうで、まさかしぬわけはない。)
ずいぶん、いとしく思われた。あれくらいの分量で、まさか死ぬわけはない。
(ああ、あ。たしょうのこうふくかんをもって、かずえのかたわらに、あおむけにねころがった。)
ああ、あ。多少の幸福感を以て、かず枝の傍に、仰向けに寝ころがった。
(それきりかひちは、また、わからなくなった。)
それきり嘉七は、また、わからなくなった。