有島武郎 或る女⑫
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数4276かな314打
-
プレイ回数75万長文300秒
-
プレイ回数132歌詞831打
-
プレイ回数89歌詞959打
-
プレイ回数111歌詞かな240秒
-
プレイ回数8.3万長文744打
問題文
(ごねんたってもむかしのままのかまえで、まばらにさしかえたやねいたと、めっきりのびた)
五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり延びた
(かきぞいのきりのきとがめだつばかりだった。すなきしみのするこうしどをあけて、)
垣添いの桐の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸をあけて、
(おびまえをととのえながらでてきたにゅうわなさいくんとかおをあわせたときは、さすがにかいきゅうのじょうが)
帯前を整えながら出て来た柔和な細君と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が
(ふたりのむねをさわがせた。さいくんはおもわずしらず「まあどうぞ」といったが、)
二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、
(そのしゅんかんにはっとためらったようなようすになって、いそいでうちだのしょさいにはいって)
その瞬間にはっとためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって
(いった。しばらくするとたんそくしながらものをいうようなうちだのこえがとぎれとぎれに)
行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに
(きこえた。「あげるのはかってだがおれがあうことはないじゃないか」といったかと)
聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと
(おもうと、はげしいおとをたててよみさしのしょもつをぱたんととじるおとがした。ようこは)
思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたんと閉じる音がした。葉子は
(じぶんのつまさきをみつめながらしたくちびるをかんでいた。やがてさいくんがおどおど)
自分の爪先を見つめながら下くちびるをかんでいた。やがて細君がおどおど
(しながらたちあらわれて、まずとようこをちゃのまにしょうじいれた。それと)
しながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間に招じ入れた。それと
(いれかわりに、しょさいではうちだがいすをはなれたおとがして、やがてうちだはずかずかと)
入れ代わりに、書斎では内田が椅子を離れた音がして、やがて内田はずかずかと
(こうしどをあけてでていってしまった。ようこはおもわずふらふらっとたちあがろうと)
格子戸をあけて出て行ってしまった。葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうと
(するのを、なにげないかおでじっとこらえた。せめてはかみなりのようなはげしいそのいかりの)
するのを、何気ない顔でじっとこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの
(こえにうたれたかった。あわよくばじぶんもおもいきりいいたいことをいってのけた)
声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけた
(かった。どこにいってもとりあいもせず、はなであしらい、はなであしらわれなれた)
かった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた
(ようこには、なにかしんみなちからでうちくだかれるなり、うちくだくなりして)
葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして
(みたかった。それだったのにおもいいってうちだのところにきてみれば、うちだはよのつねの)
見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来てみれば、内田は世の常の
(ひとびとよりもいっそうひややかにむごくおもわれた。「こんなことをいっては)
人々よりもいっそう冷やかに酷(むご)く思われた。「こんな事をいっては
(しつれいですけれどもねようこさん、あなたのことをいろいろにいってくるひとがあるもん)
失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもん
(ですからね、あのとおりのせいしつでしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめ)
ですからね、あの通りの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめ
(ようがないのですよ。うちだがあなたをおあげもうしたのがふしぎなほどだとわたし)
ようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし
(おもいますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごたごたがいえのうちに)
思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごたごたが家の内に
(あるもんですから、よけいむしゃくしゃしていて、ほんとうにわたしどうしたら)
あるもんですから、よけいむしゃくしゃしていて、ほんとうにわたしどうしたら
(いいかとおもうことがありますの」いじもきじもうちだのきょうれつなせいかくのためにぞんぶんに)
いいかと思う事がありますの」意地も生地も内田の強烈な性格のために存分に
(うちくだかれたさいくんは、じょうひんなかおだてにちゅうせいきのあまにでもみるようなおもい)
打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世期の尼にでも見るような思い
(あきらめたひょうじょうをうかべて、すてみのせいかつのどんぞこにひそむさびしいふそくを)
あきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足を
(ほのめかした。じぶんよりとししたで、しかもおっとからさんざんあくひょうをなげられている)
ほのめかした。自分より年下で、しかも良人からさんざん悪評を投げられている
(はずのようこにたいしてまで、すぐこころがくだけてしまって、はりのないことばでどうじょうを)
はずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を
(もとめるかとおもうと、ようこはじぶんのことのようにはがゆかった。まゆとくちとのあたりに)
求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。眉と口とのあたりに
(むごたらしいけいべつのかげが、まざまざとうかびあがるのをかんじながら、それを)
むごたらしい軽蔑の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それを
(どうすることもできなかった。ようこはきゅうにあおみをましたかおでさいくんをみやったが、)
どうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、
(そのかおはせこになれきったさんじゅうおんなのようだった。(ようこはおもうままにじぶんのとしを)
その顔は世故に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を
(いつつもうえにしたりしたにしたりするふしぎなちからをもっていた。かんじょうしだいでその)
五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその
(ひょうじょうはやくしゃのぎこうのようにかわった)「はがゆくはいらっしゃらなくって」と)
表情は役者の技巧のように変わった)「歯がゆくはいらっしゃらなくって」と
(きりかえすようにうちだのさいくんのことばをひったくって、「わたしだったら)
切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、「わたしだったら
(どうでしょう。すぐおじさんとけんかしてでてしまいますわ。それはわたし、)
どうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、
(おじさんをえらいかただとはおもっていますが、わたしこんなにうまれついたんです)
おじさんを偉い方だとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんです
(からどうしようもありませんわ。いちからじゅうまでおっしゃることをはいはいときいて)
からどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはいはいと聞いて
(いられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな)
いられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな
(かたに、そうかさにかからずとも、わたしでもおあいてになさればいいのに・・・)
方に、そう笠にかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに・・・
(でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやっておしごとがおできになるん)
でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるん
(ですのね。わたしだけはのけものですけれども、よのなかはなかなかよくいって)
ですのね。わたしだけは除け者ですけれども、世の中はなかなかよくいって
(いますわ。・・・あ、それでもわたしはもうみはなされてしまったんですものね、)
いますわ。・・・あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、
(いうことはありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんは)
いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんは
(おしあわせですわ。あなたはしんぼうなさるかた。おじさんはわがままでおとおしに)
お仕合せですわ。あなたは辛抱なさる方。おじさんはわがままでお通しに
(なるかた。もっともおじさんにはそれがかみさまのおぼしめしなんでしょうけれどもね。)
なる方。もっともおじさんにはそれが神様の思し召しなんでしょうけれどもね。
(・・・わたしもかみさまのおぼしめしかなんかでわがままでとおすおんななんですから)
・・・わたしも神様の思し召しかなんかでわがままで通す女なんですから
(おじさんとはどうしてもちゃわんとちゃわんですわ。それでもおとこはようござんすのね、)
おじさんとはどうしても茶碗と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、
(わがままがとおるんですもの。おんなのわがままはとおすよりしかたがないんですから)
わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですから
(ほんとうになさけなくなりますのね。なにもぜんせのやくそくなんでしょうよ・・・」)
ほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ・・・」
(うちだのさいくんはじぶんよりはるかとししたのようこのことばをしみじみときいている)
内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いている
(らしかった。ようこはようこでしみじみとさいくんのみなりをみないではいられ)
らしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられ
(なかった。おとといあたりゆったままのそくはつだった。くせのないこいかみにはたきぎの)
なかった。一昨日あたり結ったままの束髪だった。癖のない濃い髪には薪の
(はいらしいはいがたかっていた。のりけのぬけきったひとえもものさびしかった。そのがらの)
灰らしい灰がたかっていた。糊気のぬけきった単衣も物さびしかった。その柄の
(こまかいところにはさとのははのきふるしというようなにおいがした。ゆいしょあるきょうとのしぞくに)
細かい所には里の母の着古しというような香いがした。由緒ある京都の士族に
(うまれたそのひとのひふはうつくしかった。それがなおさらそのひとをあわれにして)
生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして
(みせた。「ひとのことなぞかんがえていられやしない」しばらくするとようこは)
見せた。「他人(ひと)の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は
(すてばちにこんなことをおもった。そしてきゅうにはずんだちょうしになって、「わたしあす)
捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、「わたしあす
(あめりかにたちますの、ひとりで」ととっぴょうしもなくいった。あまりのふいに)
アメリカに発ちますの、ひとりで」と突拍子もなくいった。あまりの不意に
(さいくんはめをみはってかおをあげた。「まあほんとうに」「はあほんとうに)
細君は目を見張って顔をあげた。「まあほんとうに」「はあほんとうに
(・・・しかもきむらのところにいくようになりましたの。きむら、ごぞんじでしょう」)
・・・しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
(さいくんがうなずいてなおしさいをきこうとすると、ようこはこともなげにさえぎって、)
細君がうなずいてなお仔細を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
(「だからきょうはおいとまごいのつもりでしたの。それでもそんなことはどうでもよう)
「だからきょうはお暇乞いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもよう
(ございますわ。おじさんがおかえりになったらよろしくおっしゃってください)
ございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってください
(まし、ようこはどんなにんげんになりさがるかもしれませんって・・・あなたどうぞ)
まし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって・・・あなたどうぞ
(おからだをおだいじに。たろうさんはまだがっこうでございますか。おおきくおなりで)
おからだをお大事に。太郎さんはまだ学校でございますか。大きくおなりで
(しょうね。なんぞもってあがればよかったのに、ようがこんなものですから」)
しょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
(といいながらりょうてでおおきなわをつくってみせて、わかわかしくほほえみながらたち)
といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち
(あがった。げんかんにおくってでたさいくんのめにはなみだがたまっていた。それをみると、)
上がった。玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、
(ひとはよくむいみななみだをながすものだとようこはおもった。けれどもあのなみだもうちだが)
人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が
(むりむたいにしぼりださせるようなものだとおもいなおすと、しんぞうのこどうがとまるほど)
無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど
(ようこのこころはかっとなった。そしてくちびるをふるわしながら、「もうひとことおじさんに)
葉子の心はかっとなった。そして口びるを震わしながら、「もう一言おじさんに
(おっしゃってくださいまし、しちどをしちじゅうばいはなさらずとも、せめてさんどぐらいは)
おっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは
(ひとのとがもゆるしてあげてくださいましって。・・・もっともこれは、)
人の尤(とが)も許して上げてくださいましって。・・・もっともこれは、
(あなたのおためにもうしますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいや)
あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいや
(ですし、だれにあやまるのもいやなしょうぶんなんですから、おじさんにゆるして)
ですし、だれにあやまるのもいやな性分なんですから、おじさんに許して
(いただこうとはてんからおもってなどいはしませんの。それもついでに)
いただこうとは頭(てん)から思ってなどいはしませんの。それもついでに
(おっしゃってくださいまし」くちのはたにじょうだんらしくびしょうをみせ)
おっしゃってくださいまし」口のはたに戯談(じょうだん)らしく微笑を見せ
(ながら、そういっているうちに、おおなみがどすんどすんとおうかくまくにつきあたるよう)
ながら、そういっているうちに、大濤がどすんどすんと横隔膜につきあたるよう
(なここちがして、はなぢでもでそうにはなのあながふさがった。もんをでるときもくちびるは)
な心地がして、鼻血でも出そうに鼻の孔がふさがった。門を出る時も口びるは
(なおくやしそうにふるえていた。ひはしょくぶつえんのもりのうえにうすずいて、くれがた)
なおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂(うすず)いて、暮れ方
(ちかいくうきのなかに、けさからふきだしていたかぜはなぎた。ようこはいまのこころと、けさ)
近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ
(はやくかぜのふきはじめたころに、どぞうわきのこべやでにづくりをしたときのこころとを)
早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋で荷造りをした時の心とを
(くらべてみて、じぶんながらおなじこころとはおもいえなかった。)
くらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。