有島武郎 或る女⑯
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問題文
(ことうはすこしちゅうちょするふうでいそがわじょしをみやりながら、「あなたはさっきから)
古藤は少し躊躇するふうで五十川女史を見やりながら、「あなたはさっきから
(あかさかがくいんのほうがいいとおっしゃるようにうかがっていますが、ようこさんのいわれる)
赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれる
(とおりにしてさしつかえないのですか。ねんのためにうかがっておきたいのですが」)
とおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
(とたずねた。ようこはまたあんなよけいなことをいうとおもいながらいらいらした。)
と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。
(いそがわじょしはひごろのえんかつなひとずれのしたちょうしににず、なにかひどくげきこうしたようす)
五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂した様子
(で、「わたしはなくなったおやささんのおかんがえはこうもあろうかとおもったところを)
で、「わたしは亡くなった親佐さんのお考えはこうもあろうかと思った所を
(もうしたまでですから、それをようこさんがわるいとおっしゃるなら、そのうえとやかく)
申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく
(いいともないのですが、おやささんはかたいむかしふうなしんこうをもったかたですから、)
言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った方ですから、
(たじまさんのじゅくはまえからきらいでね・・・よろしゅうございましょう、そう)
田島さんの塾は前からきらいでね・・・よろしゅうございましょう、そう
(なされば。わたしはとにかくあかさかがくいんがいちばんだとどこまでもおもっとるだけです」)
なされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」
(といいながら、みさげるようにようこのむねのあたりをまじまじとながめた。ようこは)
といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は
(さだよをだいたまましゃんとむねをそらしてめのまえのかべのほうにかおをむけていた、)
貞世を抱いたまましゃんと胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、
(たとえばばらばらとなげられるつぶてをさけようともせずにつったつひとの)
たとえばばらばらと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人の
(ように。ことうはなにかじぶんひとりでがてんしたとおもうと、かたくうでぐみをしてこれも)
ように。古藤は何か自分一人で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも
(じぶんのまえのめはちぶのところをじっとみつめた。いちざのきぶんはほとほとうごきがとれなく)
自分の前の目八分の所をじっと見つめた。一座の気分はほとほと動きが取れなく
(なった。そのあいだでいちばんはやくきげんをなおしてそうごうをかえたのはいそがわじょし)
なった。その間でいちばん早くきげんを直して相好を変えたのは五十川女史
(だった。こどもをあいてにしてはらをたてた、それをとしがいないとでもおもったように、)
だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、
(きをかえてきさくにたちじたくをしながら、「みなさんいかが、もうおいとまに)
気を変えてきさくに立ちじたくをしながら、「皆さんいかが、もうお暇に
(いたしましたら・・・おわかれするまえにもういちどおいのりをして」「おいのりを)
いたしましたら・・・お別れする前にもう一度お祈りをして」「お祈りを
(わたしのようなもののためになさってくださるのはごむようにねがいます」)
わたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
(ようこはやわらぎかけたひとびとのきぶんにはさらにとんじゃくなく、かべにむけて)
葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着(とんじゃく)なく、壁に向けて
(いためをさだよにおとして、いつのまにかねいったそのひとのつやつやしいかおをなで)
いた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々しい顔をなで
(さすりながらきっぱりといいはなった。ひとびとはおもいおもいなわかれをつげてかえって)
さすりながらきっぱりといい放った。人々は思い思いな別れを告げて帰って
(いった。ようこはさだよがいつのまにかひざのうえにねてしまったのをこうじつにして)
行った。葉子は貞世がいつのまにか膝の上に寝てしまったのを口実にして
(ひとびとをみおくりにはたたなかった。さいごのきゃくがかえっていったあとでも、おじおばは)
人々を見送りには立たなかった。最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母は
(にかいをかたづけにはあがってこなかった。あいさつひとつしようともしなかった。ようこは)
二階を片付けには上がってこなかった。挨拶一つしようともしなかった。葉子は
(まどのほうにかおをむけて、れんがのとおりのうえにぼうっとたつひのてりかえしをみやり)
窓のほうに顔を向けて、煉瓦の通りの上にぼうっと立つ灯の照り返しを見やり
(ながら、よかぜにほてったかおをひやさせて、さだよをだいたままだまってすわりつづけて)
ながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けて
(いた。まどおににほんばしをわたるてつどうばしゃのおとがきこえるばかりで、くぎだな)
いた。間遠に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店(くぎだな)
(のひとどおりはさびしいほどまばらになっていた。すがたはみせずに、どこかのすみで)
の人通りは寂しいほどまばらになっていた。姿は見せずに、どこかのすみで
(あいこがまだなきつづけてはなをかんだりするおとがきこえていた。「あいさん・・・)
愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。「愛さん・・・
(さだちゃんがねましたからね、ちょっとおとこをしいてやってちょうだいな」)
貞ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
(われながらおどろくほどやさしくあいこにくちをきくじぶんをようこはみいだした。)
われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。
(しょうがあわないというのか、きがあわないというのか、ふだんあいこのかおさえみれば)
性が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば
(ようこのきぶんはくずされてしまうのだった。あいこがなにごとにつけてもねこのように)
葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても猫のように
(じゅうじゅんですこしもじょうというものをみせないのがことさらにくかった。しかしそのよる)
従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜
(だけはふしぎにもやさしいくちをきいた。ようこはそれをいがいにおもった。あいこが)
だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子が
(いつものようにすなおにたちあがって、はなをすすりながらだまってとこをとっている)
いつものように素直に立ち上がって、洟をすすりながら黙って床を取っている
(あいだに、ようこはおりおりおうらいのほうからふりかえって、あいこのしとやかなあしおとや、)
間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、
(わたをうすくいれたなつぶとんのたたみにふれるささやかなおとをみいりでもするように)
綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするように
(そのほうにめをさだめた。そうかとおもうとまたいまさらのように、くいあらされた)
そのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた
(たべものや、しいたままになっているざぶとんのきたならしくちらかったきゃくまを)
食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間を
(まじまじとみわたした。ちちのしょだなのあったぶぶんのかべだけがしかくにこいいろをして)
まじまじと見渡した。父の書棚のあった部分の壁だけが四角に濃い色をして
(いた。そのすぐそばにせいようごよみがむかしのままにかけてあった。しちがつじゅうろくにちからさきは)
いた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先は
(はがされずにのこっていた。「ねえさましけました」しばらくしてから、あいこが)
はがされずに残っていた。「ねえさま敷けました」しばらくしてから、愛子が
(こうかすかにとなりでいった。ようこは、「そうごくろうさまよ」とまたしとやかに)
こうかすかに隣でいった。葉子は、「そう御苦労さまよ」とまたしとやかに
(こたえながら、さだよをだきかかえてたちあがろうとすると、またあたまがぐらぐらっと)
応えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッと
(して、おびただしいはなぢがさだよのむねのあわせめにながれおちた。)
して、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。
(きゅうそこびかりのするきららいろのあまぐもがぬいめなしにどんよりとおもく)
【九】 底光りのする雲母(きらら)色の雨雲が縫い目なしにどんよりと重く
(そらいっぱいにはだかって、ほんもくのおきあいまでとうきょうわんのうみはものすごいような)
空いっぱいにはだかって、本牧の沖合いまで東京湾の海は物すごいような
(くさいろに、ちいさくなみのたちさわぐくがつにじゅうごにちのごごであった。きのうのかぜがないで)
草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪いで
(から、きおんはきゅうになつらしいむしあつさにかえって、よこはまのしがいは、えきびょうにかかって)
から、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって
(よわりきったろうどうしゃが、そぼふるあめのなかにぐったりとあえいでいるようにみえた。)
弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
(くつのさきでかんぱんをこつこつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、おびのあいだに)
靴の先で甲板をこつこつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に
(てをさしこんで、きむらへのでんごんをことうはひとりごとのようにようこにいった。ようこは)
手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言のように葉子にいった。葉子は
(それにみみをかたむけるようなようすはしていたけれども、ほんとうはさしてちゅういも)
それに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意も
(せずに、ちょうどじぶんのめのまえに、たくさんのみおくりにんにかこまれて、おうせつに)
せずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に
(いとまもなげなたがわほうがくはかせのめじりのさがったかおと、そのふじんの)
暇(いとま)もなげな田川法学博士の目じりの下がった顔と、その夫人の
(やせぎすなかたとのえがくせんさいなかんじょうのひょうげんを、ひひょうかのようなこころでするどくながめ)
やせぎすな肩との描く繊細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめ
(やっていた。かなりひろいぷろめねーど・でっきはたがわけのかぞくとみおくりにんとで)
やっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで
(えんにちのようににぎわっていた。ようこのみおくりにきたはずのいそがわじょしはせんこくから)
縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川女史は先刻から
(たがわふじんのそばにつききって、せわずきな、ひとのよいおばさんというような)
田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母さんというような
(たいどで、みおくりにんのはんぶんがたをじしんでひきうけてあいさつしていた。ようこのほうへは)
態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶していた。葉子のほうへは
(みむこうとするもようもなかった。ようこのおばはようこからにさんげんはなれたところに、)
見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三間離れた所に、
(くものようなはくちのこをこおんなにせおわして、じぶんはようこから)
蜘蛛のような白ちの子を子婢(こおんな)に背負わして、自分は葉子から
(あずかったてかばんとふくさづつみとをとりおとさんばかりにぶらさげたまま、はなばなしい)
預かった手鞄と袱紗包みとを取り落さんばかりにぶら下げたまま、花々しい
(たがわけのかぞくやみおくりにんのむれをみてあっけにとられていた。ようこのうばは、)
田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母は、
(どんなおおきなふねでもふねはふねだというようにひどくおくびょうそうなあおいかおつきをして、)
どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病そうな青い顔つきをして、
(さるんのいりぐちのとのかげにたたずみながら、しかくにたたんだてぬぐいをまっかに)
サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤に
(なっためのところにたえずおしあてては、ぬすみみるようにようこをみやっていた。)
なった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。
(そのほかのひとびとはじみないちだんになって、たがわけのいこうにあっせられたようにすみの)
その他の人々は地味な一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみの
(ほうにかたまっていた。ようこはかねていそがわじょしから、たがわふうふがどうせんするから)
ほうにかたまっていた。葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから
(ふねのなかでしょうかいしてやるといいきかせられていた。たがわといえば、ほうそうかいでは)
船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界では
(かなりなのきこえたわりあいに、どこといってとりとめたとくしょくもないせいかくでは)
かなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客では
(あるが、そのひとのなはむしろふじんのうわさのためにせじんのきおくのあざやかで)
あるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶のあざやかで
(あった。かんじゅりょくのえいびんなそしてなんらかのいみでじぶんのてきにまわさなければ)
あった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければ
(ならないひとにたいしてことにちゅういぶかいようこのあたまには、そのふじんのおもかげはながいこと)
ならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影は長い事
(しゅくだいとしてかんがえられていた。ようこのあたまにえがかれたふじんはがのつよい、)
宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我の強い、
(じょうのほしいままな、やしんのふかいわりあいにたくとのろこつな、)
情の恣(ほしい)ままな、野心の深い割合に 手練(タクト)の露骨な、
(おっとをかるくみてややともするとかさにかかりながら、それでいておっとからどくりつする)
良人を軽く見てややともすると笠にかかりながら、それでいて良人から独立する
(ことのとうていできない、いわばしんのよわいつよがりやではないかしらんというの)
事の到底できない、いわば心(しん)の弱い強がり家ではないかしらんというの
(だった。ようこはいまうしろむきになったたがわふじんのかたのようすをひとめみたばかりで、)
だった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、
(じしょでもくりあてたように、じぶんのそうぞうのうらがきをされたのをむねのなかで)
辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中で
(ほほえまずにはいられなかった。)
ほほえまずにはいられなかった。