有島武郎 或る女㉔

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(ふたりのあいだのあいさつはそれなりでとぎれてしまったので、たがわはかせはおもむろに)

二人の間の挨拶はそれなりで途切れてしまったので、田川博士はおもむろに

(じむちょうにむかってしつづけていたはなしのいとめをつなごうとした。「それから・・・)

事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。「それから・・・

(その・・・」しかしはなしのいとぐちはおもうようにでてこなかった。こともなげに)

その・・・」しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに

(おちついたようすにみえるはかせのこころのなかに、かるいこんらんがおこっているのを、ようこは)

落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子は

(すぐみてとった。おもいどおりにいちざのきぶんをどうようさせることができるというじしんが)

すぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が

(うらがきされたようにようこはおもってそっとまんぞくをかんじていた。そしてぼーいちょうの)

裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長の

(さしずでぼーいらがてぎようにはこんできたぽたーじゅをすすりながら、たがわはかせの)

さしずでボーイらが手器用に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士の

(ほうのはなしにみみをたてた。ようこがしょくどうにあらわれてじぶんのしかいにはいってくると、)

ほうの話に耳を立てた。葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、

(おくめんもなくじっとめをさだめてそのかおをみやったあとに、むとんじゃくに)

臆面もなくじっと目を定めてその顔を見やった後に、無頓着(むとんじゃく)に

(すぷーんをうごかしながら、ときどきしょくたくのきゃくをみまわしてきをくばっていたじむちょうは、)

スプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、

(したくちびるをかえしてひげのさきをすいながら、しおさびのしたふといこえで、「それから)

したくちびるを返して鬚の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、「それから

(もんろーしゅぎのほんたいは」とはなしのいとめをひっぱりだしておいて、まともにはかせを)

モンロー主義の本体は」と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を

(うちみやった。はかせはすこしおもぶせなようすで、「そう、そのはなしでしたな。もんろー)

打ち見やった。博士は少し面伏せな様子で、「そう、その話でしたな。モンロー

(しゅぎもそのしゅちょうははじめのうちは、ほくべいのどくりつしょしゅうにたいしてよーろっぱのかんしょうを)

主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を

(こばむというだけのものであったのです。ところがそのせいさくのないようはとしとともに)

拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共に

(だんだんかわっている。もんろーのせんげんはりっぱにもじになってのこっている)

だんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っている

(けれども、ほうりつというわけではなし、ぶんしょうもゆうずうがきくようにできているので、)

けれども、法律というわけではなし、文章も融通がきくようにできているので、

(とりようによっては、どうにでもしんしゅくすることができるのです。まっきんれーし)

取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏

(などはずいぶんきょくたんにそのいみをかくちょうしているらしい。もっともこれには)

などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれには

(くりーぶらんどというひとのせんれいもあるし、まっきんれーしのしたにはもうひとり)

クリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人

など

(ゆうりょくなくろまくがあるはずだ。どうですさいとうくん」とにさんにんおいたはすかいの)

有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤君」と二三人おいた斜向(はすか)いの

(わかいおとこをかえりみた。さいとうとよばれた、わしんとんこうしかんふにんのがいこうかんほは、)

若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、

(まっかになって、いままでようこにむけていためをおおいそぎではかせのほうにそらして)

まっ赤になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして

(みたが、しつもんのようりょうをはっきりとらえそこねて、さらにあかくなってすべないみぶりを)

見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりを

(した。これほどなせきにさえかつてのぞんだしゅうかんのないらしいそのひとのすじょうがその)

した。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性がその

(あわてかたにじゅうぶんにみえすいていた。はかせはみくだしたようなたいどでざんじそのせいねん)

あわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年

(のどぎまぎしたようすをみていたが、へんじをまちかねて、じむちょうのほうをむこうと)

のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうと

(したとき、とつぜんはるかとおいしょくたくのいったんから、せんちょうがかおをまっかにして、)

した時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっ赤にして、

(「youmeanteddytheroughrider?」といい)

「You mean Teddy the roughrider?」といい

(ながらこどものようなえがおをひとびとにみせた。せんちょうのにほんごのりかいりょくをそれほどに)

ながら子供のような笑顔を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに

(おもいもうけていなかったらしいはかせは、このふいうちにこんどはじぶんがまごついて、)

思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、

(ちょっとへんじをしかねていると、たがわふじんがさそくにそれをひきとって、)

ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、

(「goodhitforyou,mrcaptain!」とくせのない)

「Good hit for you,Mr Captain!」と癖のない

(はつおんでいってのけた。これをきいたいちざは、ことにがいこくじんたちは、いすから)

発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子から

(のりだすようにしてふじんをみた。ふじんはそのときひとのめにはつきかねるほどの)

乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人の目にはつきかねるほどの

(すばしこさでようこのほうをうかがった。ようこはまゆひとつうごかさずに、)

敏捷(すばしこ)さで葉子のほうをうかがった。葉子は眉一つ動かさずに、

(したをむいたままですーぷをすすっていた。つつしみぶかくおおさじをもちあつかい)

下を向いたままでスープをすすっていた。慎み深く大さじを持ちあつかい

(ながら、ようこはじぶんになにかきわだったいんしょうをあたえようとして、いろいろなまねを)

ながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを

(きそいあっているようなひとびとのさまをこころのなかでわらっていた。じっさいようこがすがたをみせて)

競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せて

(から、しょくどうのくうきはちょうしをかえていた。ことにわかいひとたちのあいだにはいっしゅの)

から、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の

(おもくるしいはどうがつたわったらしく、ものをいうとき、かれらはしらずしらずげきこうしたよう)

重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず激昂したよう

(なたかいちょうしになっていた。ことにいちばんとしわかくみえるひとりのじょうひんなせいねんーー)

な高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人の上品な青年ーー

(せんちょうのとなりざにいるのでようこはいえがらのたかいうまれにちがいないとおもったーーなどは、)

船長の隣座にいるので葉子は家柄の高い生まれに違いないと思ったーーなどは、

(ようことひとめかおをみあわしたがさいご、ふるえんばかりにこうふんして、かおをえあげないで)

葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を得上げないで

(いた。それだのにじむちょうだけは、いっこううごかされたようすがみえぬばかりか、)

いた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、

(どうかしたひょうしにかおをあわせたときでも、そのおくめんのない、ひとをひとともおもわぬ)

どうかした拍子に顔を合わせた時でも、その臆面のない、人を人とも思わぬ

(ようなじゅくしは、かえってようこのしせんをたじろがした。にんげんをながめあきたような)

ような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような

(けだるげなそのめは、こいまつげのあいだからinsolentなひかりを)

気倦(けだ)るげなその目は、濃いまつ毛の間からinsolentな光を

(はなってひとをいた。ようこはこうしておもわずひとみをたじろがすたびごとにじむちょうに)

放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に

(たいしてふしぎなにくしみをおぼえるとともに、もういちどそのにくむべきめをみすえて)

対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえて

(そのなかにひそむふしぎをぞんぶんにみきわめてやりたいこころになった。ようこはそうした)

その中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした

(きぶんにうながされてときどきじむちょうのほうにひきつけられるようにしせんをおくったが、その)

気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、その

(たびごとにようこのひとみはもろくもてきびしくおいのけられた。こうしてみょうな)

たびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。こうして妙な

(きぶんがしょくたくのうえにおりなされながらやがてしょくじはおわった。いちどうがざを)

気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を

(たつとき、ものならされたものごしで、いすをひいてくれたたがわはかせにやさしくびしょうを)

立つとき、物慣らされた物腰で、椅子を引いてくれた田川博士にやさしく微笑を

(みせてれいをしながらも、ようこはやはりじむちょうのきょどうをしさいにみることになかばきを)

見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細に見る事に半ば気を

(うばわれていた。「すこしかんぱんにでてごらんになりましな。さむくともきぶんははればれ)

奪われていた。「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れ

(しますから。わたしもちょとへやにかえってしょーるをとってでてみます」こう)

しますから。わたしもちょと部屋に帰ってショールを取って出て見ます」こう

(ようこにいってたがわふじんはおっととともにじぶんのへやのほうにさっていった。ようこも)

葉子にいって田川夫人は良人と共に自分の部屋のほうに去って行った。葉子も

(へやにかえってみたが、いままでとじこもってばかりいるとさほどにもおもわなかった)

部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかった

(けれども、しょくどうほどのひろさのところからでもそこにきてみると、いきづまりが)

けれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気詰まりが

(しそうにせまくるしかった。で、ようこはながいすのしたから、きむらのちちがつかいなれた)

しそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた

(ふるとらんくーーそのうえにことうがあぶらえのぐでy・kとかいてくれたふるとらんくを)

古トランクーーその上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを

(ひきだして、そのなかからくろいだちょうのはねのぼあをとりだして、)

引き出して、その中から黒い駝鳥(だちょう)の羽のボアを取り出して、

(せいようくさいそのにおいをこころよくはなにかんじながら、ふかぶかとくびをまいて、かんぱんにでて)

西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て

(いってみた。きゅうくつなはしごだんをややよろよろしながらのぼって、おもいとをあけよう)

行って見た。窮屈な階子段をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけよう

(とするとがいきのていこうがなかなかはげしくっておしもどされようとした。きりっと)

とすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっと

(しぼりあげたようなさむさが、とのすきからたてにほそながくようこをおそった。)

搾り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。

(かんぱんにはがいこくじんがごろくにんあついがいとうにくるまって、かたいてぃーくのゆかをかつかつと)

甲板には外国人が五六人厚い外套にくるまって、堅いティークの床をかつかつと

(ふみならしながら、おしだまっていきおいよくうおうさおうにさんぽしていた。たがわふじんの)

踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の

(すがたはそのへんにはまだみいだされなかった。しおけをふくんだつめたいくうきは、しつないに)

姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内に

(のみとじこもっていたようこのはいをおしひろげて、ほおにはけつえきがちくちくとかるくはりを)

のみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、頬には血液がちくちくと軽く針を

(さすようにひふにちかくつきすすんでくるのがかんぜられた。ようこはさんぽきゃくには)

さすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には

(かまわずにかんぱんをよこぎってふなべりのてすりによりかかりながら、なみまたなみとはてしも)

構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄によりかかりながら、波また波と果てしも

(なくつらなるみずにたいせきをはるばるとながめやった。おりかさなったにぶいろ)

なく連なる水に堆積をはるばるとながめやった。折り重なった鈍色(にぶいろ)

(のくものかなたにゆうひのかげはあとかたもなくきえうせて、やみはおもいふしぎながす)

の雲の彼方に夕日の影は跡形もなく消えうせて、闇は重い不思議な瓦斯(がす)

(のようにちからづよくすべてのものをおしひしゃげていた。ゆきをたっぷりふくんだ)

のように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ

(そらだけが、そのあいだとわずかにあらそって、なんぽうにはみられぬくらい、りんのような、)

空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐のような、

(さびしいひかりをのこしていた。いっしゅのてんぽをとってたかくなりひくくなりするくろい)

さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い

(はとうのかなたには、さらにくろずんだなみのほがはてしもなくつらなっていた。ふねは)

波濤のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は

(おもったよりはげしくどうようしていた。あかいがらすをはめたしょうとうが)

思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈(しょうとう)が

(そらたかく、みぎからひだり、ひだりからみぎへとひろいかくどをとってひらめいた。ひらめくたびに)

空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに

(ふねがよこかしぎになって、おもいみずのていこうをうけながらすすんでいくのが、ようこの)

船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の

(あしからからだにつたわってかんぜられた。)

足からからだに伝わって感ぜられた。

(ようこはふらふらとふねにゆりあげゆりさげられながら、まんじりともせずに、くろい)

葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い

(なみのみねとなみのたにとがかわるがわるめのまえにあらわれるのをみつめていた。ゆたかな)

波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな

(かみのけをとおしてさむさがしんしんとあたまのなかにしみこむのが、はじめのうちはめずらしく)

髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しく

(いいきもちだったが、やがてしびれるようなずつうにかわっていった。)

いい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。

(・・・ときゅうに、どこをどうひそんできたともしれない、いやなさびしさが)

・・・と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやな寂しさが

(とうふうのようにようこをおそった。)

盗風(とうふう)のように葉子を襲った。

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