有島武郎 或る女㉖

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1 布ちゃん 5820 A+ 6.0 96.9% 1032.7 6208 197 87 2024/04/04

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問題文

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(しかしそのときたがわはかせが、さるんからもれてくるひのひかりでとけいをみて、)

しかしその時田川博士が、サルンからもれて来る灯の光で時計を見て、

(はちじじゅっぷんまえだからへやにかえろうといいだしたので、ようこはべつになにもいわずに)

八時十分前だから部屋に帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずに

(しまった。さんにんがはしごだんをおりかけたとき、ふじんは、ようこのきぶんにはいっこう)

しまった。三人が階子段を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう

(きづかぬらしく、ーーもしそうでなければきづきながらわざときづかぬらしく)

気づかぬらしく、ーーもしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく

(ふるまって、「じむちょうはあなたのおへやにもあそびにみえますか」ととっぴょうしもなく)

振る舞って、「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」と突拍子もなく

(いきなりといかけた。それをきくとようこのこころはなんということなしにりふじんないかりに)

いきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに

(とらえられた。とくいなひにくでもおもいぞんぶんにあびせかけてやろうかとおもったが、)

捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、

(むねをさすりおろしてわざとおちついたちょうしで、「いいえちっともおみえに)

胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、「いいえちっともお見えに

(なりませんが・・・」とそらぞらしくきこえるようにこたえた。ふじんはまだようこの)

なりませんが・・・」と空々しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の

(こころもちにはすこしもきづかぬふうで、「おやそう。わたしのほうへはたびたび)

心持ちには少しも気づかぬふうで、「おやそう。わたしのほうへはたびたび

(いらしてこまりますのよ」とこごえでささやいた。「なにをなまいきな」ようこは)

いらして困りますのよ」と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は

(あとさきなしにこうこころのうちにさけんだがひとこともくちにはださなかった。)

前後(あとさき)なしにこう心のうちに叫んだが一言も口には出さなかった。

(てきいーーしっとともいいかえられそうなーーてきいがそのしゅんかんからすっかりねを)

敵意ーー嫉妬ともいい代えられそうなーー敵意がその瞬間からすっかり根を

(はった。そのときふじんがふりかえってようこのかおをみたならば、おもわずはかせをたてに)

張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士を楯に

(とっておそれながらみをかわさずにはいられなかったろう、ーーそんなばあいには)

取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、ーーそんな場合には

(ようこはもとよりそのしゅんかんにいなずまのようにすばしこくかくいのないかおをみせたには)

葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには

(ちがいなかろうけれども。ようこはひとこともいわずにもくれいしたままふたりにわかれてへやに)

違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま二人に別れて部屋に

(かえった。しつないはむっとするほどあつかった。ようこははきけはもうかんじては)

帰った。室内はむっとするほど暑かった。葉子は嘔き気はもう感じては

(いなかったが、むなもとがみょうにしめつけられるようにくるしいので、いそいでぼあを)

いなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアを

(かいやってゆかのうえにすてたまま、なげるようにながいすにたおれかかった。)

かいやって床(ゆか)の上に捨てたまま、投げるように長椅子に倒れかかった。

など

(それはふしぎだった。ようこのしんけいはときにはじぶんでももてあますほどするどくはたらいて、)

それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、

(だれもきのつかないにおいがたまらないほどきになったり、ひとのきているきものの)

だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の

(いろあいがみていられないほどふちょうわでふゆかいであったり、しゅういのひとがふぬけな)

色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜けな

(でくのようにかいなくおもわれたりしずかにそらをわたっていくくものあしがめまいが)

木偶(でく)のように甲斐なく思われたり静かに空を渡って行く雲の脚が瞑眩が

(するほどめまぐるしくみえたりして、がまんにもじっとしていられないことはたえず)

するほど目まぐるしく見えたりして、我慢にもじっとしていられない事は絶えず

(あったけれども、そのよるのようにするどくしんけいのとがってきたことはおぼえがなかった。)

あったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。

(しんけいのまっしょうが、まるでおおかぜにあったこずえのようにざわざわとおとがするかとさえ)

神経の末梢が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ

(おもわれた。ようこはあしとあしとをぎゅっとからみあわせてそれにちからをこめながら、)

思われた。葉子は足と足とをぎゅっとからみ合わせてそれに力をこめながら、

(みぎてのゆびさきをよんほんそろえてそのつまさきを、すいしょうのようにかたいうつくしいはでひとおもいに)

右手の指先を四本そろえてその爪先を、水晶のように固い美しい歯で一思いに

(はげしくかんでみたりした。おかんのようなこきざみなみぶるいがたえずあしのほうから)

激しくかんで見たりした。悪寒のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから

(あたまへとはどうのようにつたわった。さむいためにそうなるのか、あついためにそうなる)

頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなる

(のかよくわからなかった。そうしていらいらしながらとらんくをひらいたままで)

のかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで

(とりちらしたへやのなかをぼんやりみやっていた。めはうるさくかすんでいた。)

取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。

(ふとおちちったもののなかにようこはじむちょうのめいしがあるのにめをつけて、みを)

ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身を

(かがめてそれをひろいあげた。それをひろいあげるとまふたつにひきさいてまたゆかに)

かがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床に

(なげた。それはあまりにてごたえなくさけてしまった。ようこはまたなにかもっと)

投げた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっと

(うんとてごたえのあるものをたずねるようにねっしてかがやくめでまじまじとあたりを)

うんと手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを

(みまわしていた。と、かーてんをひきわすれていた。はずかしいようすをみられは)

見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られは

(しなかったかとおもうとむねがどきんとしていきなりたちあがろうとしたひょうしに、)

しなかったかと思うと胸がどきんとしていきなり立ち上がろうとした拍子に、

(ようこはまどのそとにひとのかおをみとめたようにおもった。たがわはかせのようでもあった。)

葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。

(たがわふじんのようでもあった。しかしそんなはずはない、ふたりはもうへやに)

田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に

(かえっている。じむちょう・・・ようこはおもわずらたいをみられたおんなのようにかたくなって)

帰っている。事務長・・・葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって

(たちすくんだ。はげしいおののきがおそってきた。そしてなんのしりょもなくゆかのうえの)

立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上の

(ぼあをとってむねにあてがったが、つぎのしゅんかんにはとらんくのなかからしょーるを)

ボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを

(とりだしてぼあといっしょにそれをかかえて、にげるひとのように、あたふたとへやを)

取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふたと部屋を

(でた。ふねのゆらぐごとにきときとのすれあうふかいなおとは、おおかたせんきゃくの)

出た。船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の

(ねしずまったよるのせきばくのなかにきわだってひびいた。じどうへいこうきのなかにともされた)

寝しずまった夜の寂寞の中にきわ立って響いた。自動平衡器の中にともされた

(ろうそくはかべいたにきかいなかくどをとって、ゆるぎもせずにぼんやりとひかっていた。)

蝋燭は壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやりと光っていた。

(とをあけてかんぱんにでると、かんぱんのあなたはさっきのままのなみまたなみのたいせき)

戸をあけて甲板に出ると、甲板のあなたはさっきのままの波また波の堆積

(だった。おおえんとつからはきだされるばいえんはまっくろいあまのがわのようにむげつのそらを)

だった。大煙突から吐き出される煤煙はまっ黒い天の川のように無月の空を

(たちわってみずにちかくななめにながれていた。)

立ち割って水に近く斜めに流れていた。

(じゅうさんそこだけはほしがひかっていないので、くものあるところがようやくしれる)

【一三】 そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れる

(ぐらいおもいきってくらいよるだった。おっかぶさってくるかとみあくれば、めの)

ぐらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上くれば、目の

(まわるほどとおのいてみえ、とおいとおもってみれば、いまにもあたまをつつみそうにちかく)

まわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近く

(せまってるはがねいろのちんもくしたおおぞらが、さいげんもないはねをたれたように、おなじあんしょくの)

逼ってる鋼色の沈黙した大空が、際限もない羽をたれたように、同じ暗色の

(うなばらにつづくところからなみがわいて、やみのなかをのたうちまろびながら、みわたすかぎり)

海原に続く所から波がわいて、闇の中をのたうちまろびながら、見渡す限り

(わめきさわいでいる。みみをすましてきいていると、みずとみずとがはげしくぶつかりあう)

わめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う

(そこのほうに、「おーい、おい、おい、おーい」というかとおもわれるこえとも)

底のほうに、「おーい、おい、おい、おーい」というかと思われる声とも

(つかないいっしゅのきかいなひびきが、ふなべりをめぐってさけばれていた。ようこは)

つかない一種の奇怪な響きが、舷(ふなべり)をめぐって叫ばれていた。葉子は

(ぜんごさゆうにおおきくかたむくかんぱんのうえを、かたむくままにみをななめにしてからくじゅうしんをとり)

前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにしてからく重心を取り

(ながら、よろけよろけぶりっじにちかいはっちのものかげまでたどりついて、)

ながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、

(しょーるでふかぶかとくびからしたをまいて、しろぺんきでぬったいたがこいにみをよせかけて)

ショールで深々と首から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて

(たった、たたずんだところはかざしもになっているが、あたまのうえでは、ほばしらから)

立った、たたずんだ所は風下になっているが、頭の上では、檣(ほばしら)から

(たれさがったさくこうのたぐいがかぜにしなってうなりをたて、ありゅうしゃんぐんとうちかい)

たれ下がった索鋼の類が風にしなってうなりを立て、アリュウシャン群島近い

(こういどのくうきは、くがつのすえとはおもわれぬほどさむくしもをふくんでいた。きおいに)

高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに

(きおったようこのにくたいはしかしさしてさむいとはおもわなかった。さむいとしてもむしろ)

気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ

(こころよいさむさだった。もうどんどんとひえていくきもののうらに、しんぞうのはげしいこどうに)

快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く着物の裏に、心臓のはげしい鼓動に

(つれて、ちぶさがつめたくふれたりはなれたりするのが、なやましいきぶんをさそいだし)

つれて、乳房が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出し

(たりした。それにたたずんでいるのにあしがつまさきからだんだんにひえていって、)

たりした。それにたたずんでいるのに足が爪先からだんだんに冷えて行って、

(やがてひざからしたはちかくをうしないはじめたので、きぶんはみょうにうわずってきて、ようこのおさない)

やがて膝から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に上ずって来て、葉子の幼い

(ときからのくせであるゆめともうつつともしれないおんがくてきなさっかくにおちいっていった。)

時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。

(ごたいもこころもふしぎなねつをおぼえながら、いっしゅのりずむのなかにゆりうごかされるように)

五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるように

(なっていった。なにをみるともなくぎょうぜんとみさだめためのまえに、むすうのほしがふねの)

なって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の

(どうようにつれてひかりのまたたきをしながら、ゆるいてんぽをととのえてゆらりゆらり)

動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらり

(としずかにおどると、ほづなのうなりがはりきったばすのこえとなり、そのあいだを)

と静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を

(「おーい、おい、おい、おーい・・・」とこころのこえともなみのうめきともわからぬ)

「おーい、おい、おい、おーい・・・」と心の声とも波のうめきともわからぬ

(とれもろがながれ、もりあがり、くずれこむなみまたなみがてのるのやくめをつとめた。)

トレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。

(こえがかたちとなり、かたちがこえとなり、それからいっしょにもつれあうすがたをようこは)

声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は

(めできいたりみみでみたりしていた。なんのためによさむをかんぱんにでて)

目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒(よさむ)を甲板に出て

(きたかようこはわすれていた。むゆうびょうしゃのようにようこはまっしぐらにこのふしぎな)

来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な

(せかいにおちこんでいった。それでいて、ようこのこころのいちぶぶんはいたましいほど)

世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど

(さめきっていた。ようこはつばめのようにそのおんがくてきなむげんかいをかけあがり)

醒めきっていた。葉子は燕のようにその音楽的な夢幻界を翔け上がり

(くぐりぬけてさまざまなことをかんがえていた。くつじょく、くつじょく・・・くつじょくーーしさくのかべは)

くぐりぬけてさまざまな事を考えていた。屈辱、屈辱・・・屈辱ーー思索の壁は

(くつじょくというちかちかとさむくひかるいろで、いちめんにぬりつぶされていた。その)

屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その

(ひょうめんにたがわふじんやじむちょうやたがわはかせのすがたがめまぐるしくおんりつにのってうごいた。)

表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。

(ようこはうるさそうにあたまのなかにあるてのようなものでむしょうにはらいのけようと)

葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性に払いのけようと

(こころみたがむだだった。)

試みたがむだだった。

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