有島武郎 或る女㉗
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問題文
(ひにくなよこめをつかってあおみをおびたたがわふじんのかおが、かきみだされたみずのなかを、)
皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、
(ちいさなあわがにげてでもいくように、ふらふらとゆらめきながらうえのほうに)
小さな泡が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに
(とおざかっていった。まずよかったとおもうと、じむちょうのinsolentなめつき)
遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長のinsolentな目つき
(がひくいちょうしのばんおんとなって、じっとうごかないなかにもちからあるしんどうをしながら、)
が低い調子の伴音となって、じっと動かない中にも力ある震動をしながら、
(ようこのひとみのおくをもうまくまでみとおすほどぎゅっとみすえていた。)
葉子の眼睛(ひとみ)の奥を網膜まで見とおすほどぎゅっと見すえていた。
(「なんでじむちょうやたがわふじんなんぞがこんなにじぶんをわずらわすだろう。)
「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。
(にくらしい。なんのいんねんで・・・」ようこはじぶんをこういやしみながらも、おとこのめを)
憎らしい。なんの因縁で・・・」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を
(むかえなれたこびのいろをしらずしらずうわまぶたにあつめて、それにおうじようとする)
迎え慣れた媚びの色を知らず知らず上まぶたに集めて、それに応じようとする
(とたん、ひにむかってめをとじたときにあやをなしてみだれとぶあのふしぎなしゅしゅな)
途端、日に向かって目を閉じたときに綾をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な
(いろのこうたい、それににたものがりょうらんとしてこころをとりかこんだ。ほしはゆるいてんぽで)
色の光体、それに似たものが繚乱として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポで
(ゆらりゆらりとしずかにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」)
ゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」
(・・・ようこはおもわずかっとはらをたてた。そのいきどおりのまくのなかにすべてのげんえいは)
・・・葉子は思わずかっと腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影は
(すーっとすいとられてしまった。とおもうとそのいきどおりすらがみるみるぼやけて、)
すーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、
(あとにはかんげきのさらにないしのようなせかいがはてしもなくどんよりとよどんだ。)
あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんよりとよどんだ。
(ようこはしばらくはきがとおくなってなにごともわきまえないでいた。やがてようこは)
葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。やがて葉子は
(またおもむろにいしきのしきいにちかづいてきていた。えんとつのなかのくろいすすの)
またおもむろに意識の閾(しきい)に近づいて来ていた。煙突の中の黒い煤の
(あいだを、よこすじかいにやすらいながらとびながら、のぼっていくひのこのように、)
間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上って行く火の子のように、
(ようこのげんそうはくらいきおくのほらあなのなかをみぎひだりによろめきながらおくふかくたどっていくの)
葉子の幻想は暗い記憶の洞穴の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くの
(だった。じぶんでさえおどろくばかりそこのそこにまたそこのあるめいろをおそるおそるつたって)
だった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って
(いくと、はてしもなくあらわれでるひとのかおのいちばんおくに、あかいきものをすそながに)
行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を裾長に
(きて、まばゆいほどにかがやきわたったおとこのすがたがみえだした。ようこのこころのしゅういに)
着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲に
(それまでひびいていたおんがくは、そのしゅんかんぱったりしずまってしまって、みみのそこが)
それまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり静まってしまって、耳の底が
(かーんとするほどそらおそろしいせきばくのなかに、ふねのへさきのほうでこおりをたたき)
かーんとするほど空恐ろしい寂寞の中に、船の舳(へさき)のほうで氷をたたき
(わるようなさむいときがねのおとがきこえた。「かんかん、)
破(わ)るような寒い時鐘(ときがね)の音が聞こえた。「カンカン、
(かんかん、かーん」・・・。ようこはなんじのかねだとかんがえてみることもしないで、)
カンカン、カーン」・・・。葉子は何時の鐘だと考えてみる事もしないで、
(そこにあらわれたおとこのかおをみわけようとしたが、きむらににたようぼうがおぼろにうかんで)
そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌がおぼろに浮んで
(くるだけで、どうみなおしてみてもはっきりしたことはもどかしいほど)
来るだけで、どう見直して見てもはっきりした事はもどかしいほど
(わからなかった。きむらであるはずはないんだがとようこはいらいらしながら)
わからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら
(おもった。「きむらはわたしのおっとではないか。そのきむらがあかいきものをきていると)
思った。「木村はわたしの良人ではないか。その木村が赤い着物を着ていると
(いうほうがあるものか。・・・かわいそうに、きむらはさん・ふらんしすこから)
いう法があるものか。・・・かわいそうに、木村はサン・フランシスコから
(いまごろはしやとるのほうにきて、わたしのつくのをいちにちせんしゅうのおもいでまっている)
今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っている
(だろうに、わたしはこんなことをしてここであかいきものをきたおとこなんぞをみつめて)
だろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめて
(いる。せんしゅうのおもいでまつ?それはそうだろう。けれどもわたしがきむらのつまに)
いる。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻に
(なってしまったがさいご、せんしゅうのおもいでわたしをまったりしたきむらがどんなおっとに)
なってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな良人に
(かわるかはしれきっている。にくいのはおとこだ・・・きむらでもくらちでも・・・また)
変わるかは知れきっている。憎いのは男だ・・・木村でも倉知でも・・・また
(じむちょうなんぞをおもいだしている。そうだ、べいこくについたらもうすこしおちついて)
事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて
(かんがえたいきかたをしよう。きむらだってうてばひびくくらいはするおとこだ。)
考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。
(・・・あっちにいってまとまったかねができたら、なんといってもかまわない、)
・・・あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、
(さだこをよびよせてやる。あ、さだこのことならきむらはしょうちのうえだったのに。)
定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。
(それにしてもきむらがあかいきものなどをきているのはあんまりおかしい・・・」)
それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい・・・」
(ふとようこはもういちどあかいきもののおとこをみた。じむちょうのかおがあかいきもののうえに)
ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に
(にあわしくのっていた。ようこはぎょっとした。そしてそのかおをもっとはっきり)
似合わしく乗っていた。葉子はぎょっとした。そしてその顔をもっとはっきり
(みつめたいためにおもいおもいまぶたをしいておしひらくどりょくをした。みるとようこの)
見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。見ると葉子の
(まえにはまさしく、かくとうをもってこげちゃいろのまんとをきたじむちょうがたっていた。)
前にはまさしく、角燈を持って焦茶色のマントを着た事務長が立っていた。
(そして、「どうなさったんだいまごろこんなところに、・・・こんやはどうかしている)
そして、「どうなさったんだ今ごろこんな所に、・・・今夜はどうかしている
(・・・おかさん、あなたのなかまがもうひとりここにいますよ」といいながらじむちょうは)
・・・岡さん、あなたの仲間がもう一人ここにいますよ」といいながら事務長は
(たましいをえたようにうごきはじめて、うしろのほうをふりかえった。じむちょうのうしろには、)
魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、
(しょくどうでようことひとめかおをみあわすと、ふるえんばかりにこうふんしてかおをえあげないで)
食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を得上げないで
(いたじょうひんなかのせいねんが、まっさおなかおをしてものにおじたようにつつましく)
いた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく
(たっていた。めはまざまざとひらいていたけれどもようこはまだゆめごこちだった。)
立っていた。目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地だった。
(じむちょうのいるのにきづいたしゅんかんからまたきこえだしたはとうのおとは、まえのように)
事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した波濤の音は、前のように
(おんがくてきなところはすこしもなく、ただものくるおしいそうおんとなってふねにせまっていた。しかし)
音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし
(ようこはいまのきょうかいがほんとうにげんじつのきょうかいなのか、さっきふしぎなおんがくてきのさっかくに)
葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚に
(ひたっていたきょうかいがむげんのなかのきょうかいなのか、じぶんながらすこしもみさかいが)
ひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいが
(つかないくらいぼんやりしていた。そしてあのこうとうなきかいなこころの)
つかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐な奇怪な心の
(adventureをかえってまざまざとしたげんじつのできごとでもあるかのように)
adventureをかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように
(おもいなして、めのまえにみるさけにあからんだじむちょうのかおはみょうにこわくてきな)
思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑(こわく)的な
(きみのわるいげんぞうとなって、ようこをおびやかそうとした。「すこしのみすぎたところに)
気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。「少し飲み過ぎたところに
(ためといたしごとをつめてやったんでねむれん。でさんぽのつもりでかんぱんのみまわりに)
ためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲板の見回りに
(でるとおかさん」といいながらもういちどうしろにふりかえって、「このおかさんがこの)
出ると岡さん」といいながらもう一度後ろに振り返って、「この岡さんがこの
(さむいにてすりからからだをのりだしてぽかんとうみをみとるんです。とりおさえて)
寒いに手欄からからだを乗り出してぽかんと海を見とるんです。取り押えて
(けびんにつれていこうとおもうとると、こんどはあなたにでっくわす。ものずきも)
ケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きも
(あったもんですねえ。うみをながめてなにがおもしろいかな。おさむかありませんか、)
あったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、
(しょーるなんぞもおちてしまった」どこのくになまりともわからぬいっしゅのちょうしが)
ショールなんぞも落ちてしまった」どこの国なまりともわからぬ一種の調子が
(しおさびたこえであやつられるのが、じむちょうのひととなりによくそぐってきこえる。)
塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。
(ようこはそんなことをおもいながらじむちょうのことばをききおわると、はじめてはっきりめが)
葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり目が
(さめたようにおもった。そしてかんたんに、「いいえ」とこたえながらうわめづかいに、)
さめたように思った。そして簡単に、「いいえ」と答えながら上目づかいに、
(ゆめのなかからでもひとをみるようにうっとりとじむちょうのしぶとそうなかおをみやった。)
夢の中からでも人を見るようにうっとりと事務長のしぶとそうな顔を見やった。
(そしてそのままだまっていた。じむちょうはれいのinsolentなめつきでようこを)
そしてそのまま黙っていた。事務長は例のinsolentな目つきで葉子を
(ひとめにみくるめながら、「わかいかたはせわがやける・・・さあいきましょう」)
一目に見くるめながら、「若い方は世話が焼ける・・・さあ行きましょう」
(とつよいごちょうでいって、からからとぼうじゃくぶじんにわらいながらようこをせきたてた。)
と強い語調でいって、からからと傍若無人に笑いながら葉子をせき立てた。
(うみのなみのこうりょうたるおめきのなかにきくこのわらいごえはdiabolicなもの)
海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声はdiabolicなもの
(だった。「わかいかた」・・・ろうせいぶったことをいうとようこはおもったけれども、)
だった。「若い方」・・・老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、
(しかしじむちょうにはそんなことをいうけんりでもあるかのようにようこはひにくな)
しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な
(しっぺがえしもせずに、おとなしくしょーるをひろいあげてじむちょうの)
竹箆返(しっぺがえ)しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長の
(いうままにそのあとにつづこうとしておどろいた。ところがながいあいだそこにたたずんで)
いうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんで
(いたものとみえて、じしゃくですいつけられたように、りょうあしはかたくおもくなっていっすんも)
いたものと見えて、磁石で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一寸も
(うごきそうにはなかった。さむけのためにかんかくのまひしかかったひざのかんせつはしいて)
動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺しかかった膝の関節はしいて
(まげようとすると、すじをたつほどのいたみをおぼえた。ふよういにあるきだそうとした)
曲げようとすると、筋を絶つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした
(ようこは、おもわずのめりださしたじょうたいをからくうしろにささえて、なさけなげにたち)
葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ち
(すくみながら、「ま、ちょっと」とよびかけた。じむちょうのうしろにつづこうとした)
すくみながら、「ま、ちょっと」と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした
(おかとよばれたせいねんはこれをきくといちはやくあしをとめてようこのほうをふりむいた。)
岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
(「はじめておしりあいになったばかりですのに、すぐおこころやすだてをしてほんとうに)
「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうに
(なんでございますが、ちょっとおかたをかしていただけませんでしょうか。)
なんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。
(なんですかあしのさきがこおったようになってしまって・・・」とようこはうつくしくかおを)
なんですか足の先が凍ったようになってしまって・・・」と葉子は美しく顔を
(しかめてみせた。おかはそれらのことばがこぶしとなってつづけさまにむねをうつとでも)
しかめて見せた。岡はそれらの言葉が拳となって続けさまに胸を打つとでも
(いったように、しばらくのあいだどぎまぎちゅうちょしていたが、やがておもいきった)
いったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇していたが、やがて思い切った
(ふうで、だまったままひきかえしてきた。みのたけもかたはばもようことそうちがわない)
ふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わない
(ほどなきゃしゃなからだをわなわなとふるわせているのが、かたにてをかけないうちから)
ほどな華奢なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちから
(よくしれた。じむちょうはふりむきもしないで、くつのかかとをこつこつとならし)
よく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴のかかとをこつこつと鳴らし
(ながら、はやにさんげんのかなたにとおざかっていた。)
ながら、早二三間のかなたに遠ざかっていた。