有島武郎 或る女㉛
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問題文
(ようこはしかしそのろうじんのくるしみもがくすがたをみるとそんなことはてもなくわすれて)
葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れて
(しまっていた。ひょっとするとじゃまものあつかいにされてあのろうじんはころされてしまう)
しまっていた。ひょっとすると邪魔者扱いにされてあの老人は殺されてしまう
(かもしれない。あんなとしまでこのかいじょうのあらあらしいろうどうにしばられている)
かもしれない。あんな齢(とし)までこの海上の荒々しい労働に縛られている
(このひとにはたよりになるえんじゃもないのだろう。こんなおもいやりがとめどもなく)
この人にはたよりになる縁者もないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく
(ようこのこころをおそいたてるので、ようこはそのろうじんにひきずられてでもいくように)
葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くように
(どんどんすいふべやのなかにおりていった。うすぐらいふはいしたくうきはむれあがるように)
どんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸れ上がるように
(ひとをおそって、かげのなかにうようよとうごめくむれのなかからはふとくさびたこえがなげ)
人を襲って、陰の中にうようよとうごめく群れの中からは太く錆びた声が投げ
(かわされた。やみになれたすいふたちのめはやにわにようこのすがたをひっとらえたらしい。)
かわされた。闇に慣れた水夫たちの目はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。
(みるみるいっしゅのこうふんがへやのすみずみにまでみちあふれて、それがきっかいな)
見る見る一種の興奮が部屋のすみずみにまでみちあふれて、それが奇怪な
(ののしりごえとなってものすごくようこにせまった。だぶだぶのずぼんひとつで、)
ののしり声となって物すごく葉子に逼った。だぶだぶのズボン一つで、
(ふしくれだったあつみのあるけむねにいっしもつけないおおおとこは、やおらひとなかからたち)
節くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人中から立ち
(あがると、ずかずかようこにつきあたらんばかりにすれちがって、すれちがいざまに)
上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに
(ようこのかおをあなのあくほどにらみつけて、きくにたえないぞうごんをたかだかと)
葉子の顔を孔のあくほどにらみつけて、聞くにたえない雑言を高々と
(ののしって、じぶんのむれをわらわした。しかしようこはしにかけたこにかしずくははの)
ののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母の
(ように、そんなことにはめもくれずにろうじんのそばにひきそって、ねやすい)
ように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、臥安(ねやす)い
(ようにねどこをとりなおしてやったり、まくらをあてがってやったりして、なおも)
ように寝床を取りなおしてやったり、枕をあてがってやったりして、なおも
(そのばをさらなかった。そんなむさくるしいきたないところにいてろうじんが)
その場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人が
(ほったらかしておかれるのをみると、ようこはなんということなしになみだがあとから)
ほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとから
(あとからながれてたまらなかった。ようこはそこをでてむりにせんいのこうろくをそこに)
あとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに
(ひっぱってきた。そしてけんいをもったひとのようにすいふちょうにはっきりしたさしずを)
引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずを
(して、はじめてあんしんしてゆうゆうとそのへやをでた。ようこのかおにはじぶんのしたことに)
して、始めて安心して悠々とその部屋を出た。葉子の顔には自分のしたことに
(たいしてこどものようなよろこびのいろがうかんでいた。すいふたちはくらいなかにもそれを)
対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを
(みのがさなかったとみえる。ようこがでていくときにはひとりとしてようこにぞうごんを)
見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人として葉子に雑言を
(なげつけるものがいなかった。それからすいふらはだれいうとなしにようこのことを)
なげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を
(「あねごあねご」とよんでうわさするようになった。そのときのことをすいふちょうはようこに)
「姉御姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に
(かんしゃしたのだ。ようこはしんみにいろいろとびょうにんのことをすいふちょうにききただした。)
感謝したのだ。葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。
(じっさいすいふちょうにはなしかけられるまでは、ようこはそんなことはおもいだしもして)
実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもして
(いなかったのだ。そしてすいふちょうにおもいださせられてみると、きゅうにそのろうすいふの)
いなかったのだ。そして水夫長に思い出させられてみると、急にその老水夫の
(ことがしんぱいになりだしたのだった。あしはとうとうふぐになったらしいがいたみは)
事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みは
(たいていなくなったとすいふちょうがいうとようこははじめてあんしんして、またりくのほうに)
たいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに
(めをやった。すいふちょうとぼーいとのあしおとはろうかのかなたにとおざかってきえて)
目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えて
(しまった。ようこのあしもとにはただかすかなえんじんのおととなみがふなばたを)
しまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が舷(ふなばた)を
(うつおととがきこえるばかりだった。ようこはまたじぶんひとりのこころにかえろうとして)
打つ音とが聞こえるばかりだった。葉子はまた自分一人の心に帰ろうとして
(しばらくじっとたんちょうなりくちにめをやっていた。そのときとつぜんおかがりっぱなせいようぎぬの)
しばらくじっと単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の
(ねまきのうえにあついがいとうをきてようこのほうにちかづいてきたのを、ようこは)
寝衣(ねまき)の上に厚い外套を着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は
(しかくのいったんにちらりととらえた。よるでもあさでもようこがひとりでいると、どこで)
視覚の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこで
(どうしてそれをしるのか、いつのまにかおかがきっとみぢかにあらわれるのがつね)
どうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと身近に現われるのが常
(なので、ようこはまちもうけていたようにふりかえって、あさのあたらしいやさしいびしょうを)
なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を
(あたえてやった。「あさはまだずいぶんひえますね」といいながら、おかはすこしひとに)
与えてやった。「朝はまだずいぶん冷えますね」といいながら、岡は少し人に
(なれたしょうじょのようにかおをあかくしながらようこのそばにみをよせた。ようこはだまって)
なれた少女のように顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙って
(ほほえみながらそのてをとってひきよせて、たがいにちいさなこえでかるいしたしいかいわを)
ほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を
(とりかわしはじめた。と、とつぜんおかはおおきなことでもおもいだしたようすで、ようこのてを)
取りかわし始めた。と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手を
(ふりほどきながら、「くらちさんがね、きょうあなたにぜひねがいたいようがあるって)
ふりほどきながら、「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるって
(いってましたよ」といった。ようこは、「そう・・・」とごくかるくうけるつもり)
いってましたよ」といった。葉子は、「そう・・・」とごく軽く受けるつもり
(だったが、それがおもわずいきぐるしいほどのちょうしになっているのにきがついた。)
だったが、それが思わず息気苦しいほどの調子になっているのに気がついた。
(「なんでしょう、わたしになんぞようって」「なんだかわたしちっともしりません)
「なんでしょう、わたしになんぞ用って」「なんだかわたしちっとも知りません
(が、はなしをしてごらんなさい。あんなにみえているけれどもしんせつなひとですよ」)
が、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
(「まだあなただまされていらっしゃるのね。あんなこうまんちきならんぼうなひとわたし)
「まだあなただまされていらっしゃるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたし
(きらいですわ。・・・でもむこうであいたいというのならあって)
きらいですわ。・・・でも先方(むこう)で会いたいというのなら会って
(あげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなたいますぐいらしってよんで)
あげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで
(きてくださいましな。あいたいならあいたいようにするがようござんすわ」)
来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」
(ようこはじっさいはげしいことばになっていた。「まだねていますよ」「いいからかまわない)
葉子は実際激しい言葉になっていた。「まだ寝ていますよ」「いいから構わない
(からおこしておやりになればよござんすわ」おかはじぶんにしたしいひとをしたしいひとに)
から起こしておやりになればよござんすわ」岡は自分に親しい人を親しい人に
(ちかづけるきかいがとうらいしたのをほこりよろこぶようすをみせて、いそいそとかけていった。)
近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。
(そのうしろすがたをみるとようこはむねにときならぬときめきをおぼえて、まゆのうえのところにさっと)
その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめきを覚えて、眉の上の所にさっと
(あついちのよってくるのをかんじた。それがまたいきどおろしかった。みあげるとあさのそらを)
熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた憤ろしかった。見上げると朝の空を
(いままでおおうていたわたのようなしょしゅうのくもはところどころほころびて、あらいすましたあおぞらが)
今まで蔽うていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空が
(まばゆくきれめきれめにかがやきだしていた。あおはいいろによごれていたくもそのものすら)
まばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすら
(がみちがえるようにしろくかるくなってうつくしいささべりをつけていた。うみはめもあやなめいあんを)
が見違えるように白く軽くなって美しい笹縁をつけていた。海は目も綾な明暗を
(なして、たんちょうなしまかげもさすがにがんこなちんもくばかりをまもりつづけてはいなかった。)
なして、単調な島影もさすがに頑固な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。
(ようこのこころはおさえようおさえようとしてもかるくはなやかにばかりなっていった。)
葉子の心は抑えよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。
(けっせん・・・とようこはそのいさみたつこころのそこでさけんだ。きむらのことなどはとうのむかしに)
決戦・・・と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に
(あたまのなかからこそぎとるようにきえてしまって、そのあとにはただなんとはなしに、)
頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、
(こどもらしいうきうきしたぼうけんのねんばかりがはたらいていた。じぶんでもしらずにいた)
子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいた
(ようなweirdなはげしいちからが、そうぞうもおよばぬところにぐんぐんとようこをひきずって)
ようなweirdな激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって
(いくのを、ようこはおそれながらもどこまでもついていこうとした。どんなことが)
行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事が
(あってもじぶんがそのちゅうしんになっていて、むこうをひきつけてやろう。)
あっても自分がその中心になっていて、先方(むこう)をひき付けてやろう。
(じぶんをはぐらかすようなことはしまいとしじゅうはりきってばかりいたこれまでの)
自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの
(こころもちと、このときわくがごとくもちあがってきたこころもちとはくらべものにならな)
心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならな
(かった。あらんかぎりのおもにをあらいざらいおもいきりよくなげすててしまって、)
かった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、
(みもこころもなにかおおきなちからにまかしきるそのこころよさこころやすさはようこをすっかりゆめごこちに)
身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地に
(した。そんなこころもちのそういをくらべてみることさえできないくらいだった。ようこは)
した。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は
(こどもらしいきたいにめをかがやかしておかのかえってくるのをまっていた。)
子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
(「だめですよ。とこのなかにいてともあけてくれずに、ねごとみたいなことをいってるん)
「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言みたいな事をいってるん
(ですもの」といいながらおかはとうわくのかおでようこのそばにあらわれた。「あなたこそ)
ですもの」といいながら岡は当惑の顔で葉子のそばに現われた。「あなたこそ
(だめね。ようござんすわ、わたしがじぶんでいってみてやるから」ようこにはそこに)
だめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」葉子にはそこに
(いるおかさえなかった。すこしけげんそうにようこのいつになくそわそわしたようすを)
いる岡さえなかった。少し怪訝そうに葉子のいつになくそわそわした様子を
(みまもるせいねんをそこにすておいたままようこはけわしくほそいはしごだんをおりた。じむちょうの)
見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段を降りた。事務長の
(へやはきかんしつとせまいろうかひとつをへだてたところにあって、ひのめをみていたようこには)
部屋は機関室と狭い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には
(てさぐりをしてあるかねばならぬほどかってがちがっていた。じしんのようにきかいの)
手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の
(しんどうがろうかのてつかべにつたわってきて、むせかえりそうななまあたたかいじょうきのにおいとともに)
震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生暖かい蒸気のにおいと共に
(ひとをふゆかいにした。ようこはおがくずをぬりこめてざらざらとてざわりの)
人を不愉快にした。葉子は鋸屑(おがくず)を塗りこめてざらざらと手ざわりの
(いやなかべをなでてすすみながらようやくじむしつのとのまえにきて、あたりをみまわして)
いやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して
(みて、のっくもせずにいきなりはんどるをひねった。のっくをするひまもない)
見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもない
(ようなせかせかしたきぶんになっていた。とはおともたてずにやすやすとあいた。)
ようなせかせかした気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。
(「ともあけてくれずに・・・」とのおかのことばから、てっきりかぎがかかっていると)
「戸もあけてくれずに・・・」との岡の言葉から、てっきり鍵がかかっていると
(おもっていたようこにはそれがいがいでもあり、あたりまえにもおもえた。しかしその)
思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその
(しゅんかんにはようこはわれしらずはっとなった。ただとおりすがりのひとにでもみつけられ)
瞬間には葉子はわれ知らずはっとなった。ただ通りすがりの人にでも見付けられ
(まいとするこころがさきにたって、ようこはぜんごのわきまえもなく、ほとんどむいしきに)
まいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に
(へやにはいると、どうじにぱたんとおとをさせてとをしめてしまった。)
部屋にはいると、同時にぱたんと音をさせて戸をしめてしまった。