有島武郎 或る女㉞

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(がいかいのあっぱくにはんこうするばかりに、いっときひのようになにものをもやきつくしてもえ)

外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え

(あがったかりそめのねつじょうは、あっぱくのゆるむとともにもろくもなえてしまって、)

上がった仮初めの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくも萎えてしまって、

(ようこはれいせいなひひょうからしくじぶんのこいとこいのあいてとをみた。どうしてしつぼうしないで)

葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないで

(いられよう。じぶんのいっしょうがこのひとにしばりつけられてしなびていくのかとおもうとき、)

いられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、

(またいろいろなおとこにもてあそばれかけて、かえっておとこのこころというものをうらがえして)

またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返して

(とっくりとみきわめたそのこころが、きべという、くうそうのうえでこそゆうきもせいさいも)

とっくりと見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩も

(あれ、じっせいかつにおいてはみさげはてたほどひんじゃくでかんたんないちしょせいのこころとしいて)

あれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて

(むすびつかねばならぬとおもったとき、ようこはみぶるいするほどしつぼうしてきべとわかれて)

結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れて

(しまったのだ。ようこのなめたすべてのけいけんは、おとこにそくばくをうけるきけんをおもわせる)

しまったのだ。葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせる

(ものばかりだった。しかしなんというしぜんのいたずらだろう。それとともに)

ものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに

(ようこは、おとこというものなしにはいっこくもすごされないものとなっていた。)

葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。

(ひせきのようほうをあやまったかんじゃが、そのどくのおそろしさを)

砒石(ひせき)の用法を謬(あやま)った患者が、その毒の恐ろしさを

(しりぬきながら、そのちからをかりなければいきていけないように、ようこはせいの)

知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の

(よろこびのみなもとを、まかりちがえば、せいそのものをむしばむべきおとこというものに、)

喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、

(もとめずにはいられないでぃれんまにおちいってしまったのだ。にくよくのきばをならして)

求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。肉欲の牙を鳴らして

(あつまってくるおとこたちにたいして、(そういうおとこたちがあつまってくるのはほんとうは)

集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは

(ようこじしんがふりまくにおいのためだとはきづいていて)ようこはれいしょうし)

葉子自身がふりまく香(にお)いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑し

(ながらくものようにあみをはった。ちかづくものはひとりのこらずそのうつくしいよつであみに)

ながら蜘蛛のように網を張った。近づくものは一人残らずその美しい四つ手網に

(からめとった。ようこのこころはしらずしらずざんにんになっていた。ただあのようりょくある)

からめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力ある

(じょろうぐものように、いきていたいよっきゅうからまいにちそのうつくしいあみをよつでにはった。)

女郎蜘蛛のように、生きていたい欲求から毎日その美しい網を四つ手に張った。

など

(そしてそれにちかづきもしえないでののしりさわぐひとたちを、じぶんのせいかつとはかんけいの)

そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係の

(ないきかいしででもあるようにれいぜんとしりめにかけた。ようこはほんとうをいうと、)

ない木か石ででもあるように冷然と尻目にかけた。葉子はほんとうをいうと、

(ひつようにしたがうというほかになにをすればいいのかわからなかった。ようこにとっては、)

必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。葉子に取っては、

(ようこのこころもちをすこしもりかいしていないしゃかいほどおろかしげなみにくいものはなかった。)

葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。

(ようこのめからみたしんるいというひとむれはただどんよくなせんみんとしかおもえなかった。)

葉子の目から見た親類という一群れはただ貪欲な賤民としか思えなかった。

(ちちはあわれむべくかげのうすいひとりのだんせいにすぎなかった。はははーーはははいちばん)

父はあわれむべく影の薄い一人の男性に過ぎなかった。母はーー母はいちばん

(ようこのみぢかにいたといっていい。それだけようこはははとりょうりつしえないきゅうてきのような)

葉子の身近にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵のような

(かんじをもった。はははあたらしいかたにわがこをとりいれることをこころえてはいたが、それを)

感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れる事を心得てはいたが、それを

(とりあつかうすべはしらなかった。ようこのせいかくがははのそなえたかたのなかでおどろくほど)

取り扱う術は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほど

(するするとせいちょうしたときに、はははじぶんいじょうのほうりきをにくむまじょのようにようこのいく)

するすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く

(みちにたちはだかった。そのけっかふたりのあいだにはだいさんしゃからそうぞうもできないような)

道に立ちはだかった。その結果二人の間には第三者から想像もできないような

(はんもくとしょうとつとがつづいたのだった。ようこのせいかくはこのあんとうのおかげできょくせつの)

反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折の

(おもしろさとみにくさとをくわえた。しかしなんといってもはははははだった。しょうめんからは)

おもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは

(ようこのすることなすことにひてんをうちながらも、こころのそこでいちばんよくようこをりかい)

葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解

(してくれたにちがいないとおもうと、ようこはははにたいしてふしぎななつかしみをおぼえる)

してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚える

(のだった。ははがしんでからは、ようこはまったくこどくであることをふかくかんじた。そして)

のだった。母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして

(しじゅうはりつめたこころもちと、しつぼうからわきでるかいかつさとで、とりがきからきにかじつを)

始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を

(さぐるように、ひとからひとにかんらくをもとめてあるいたが、どこからともなくふいにおそって)

探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って

(くるふあんはようこをそこしれぬゆううつのぬまにけおとした。じぶんはあらいそに)

来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱(ゆううつ)の沼に蹴落とした。自分は荒磯に

(いっぽんながれよったながれきではない。しかしそのながれきよりもじぶんはこどくだ。)

一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。

(じぶんはひとひらかぜにちってゆくかれはではない。しかしそのかれはよりじぶんは)

自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分は

(うらさびしい。こんなせいかつよりほかにするせいかつはないのかしらん。いったい)

うらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったい

(どこにじぶんのせいかつをじっとみていてくれるひとがあるのだろう。そうようこは)

どこに自分の生活をじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子は

(しみじみおもうことがないでもなかった。けれどもそのけっかはいつでもしっぱいだった。)

しみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。

(ようこはこうしたさびしさにうながされて、うばのいえをたずねたり、とつぜんおおつかのうちだに)

葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母の家を尋ねたり、突然大塚の内田に

(あいにいったりしてみるが、そこをでてくるときにはただひとしおのこころの)

あいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入(ひとしお)の心の

(むなしさがのこるばかりだった。ようこはおもいあまってまたみだらなまんぞくをもとめるために)

むなしさが残るばかりだった。葉子は思い余って又みだらな満足を求めるために

(おとこのなかにわってはいるのだった。しかしおとこがようこのめのまえでよわみをみせた)

男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた

(しゅんかんに、ようこはきょうまんなじょおうのように、そのほりょから)

瞬間に、葉子は驕慢(きょうまん)な女王のように、その捕虜から

(おもてをそむけて、そのできごとをあくむのようにいみきらった。ぼうけんの)

面(おもて)をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の

(えものはきまりきってとるにもたらないやくざものであることをようこはしみじみ)

獲物はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ

(おもわされた。こんなぜつぼうてきなふあんにせめさいなめられながらも、そのふあんに)

思わされた。こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に

(かりたてられてようこはきむらというこうさんにんをともかくそのおっとにえらんでみた。)

駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人に選んでみた。

(ようこはじぶんがなんとかしてきむらにそりをあわせるどりょくをしたならば、いっしょうがいきむらと)

葉子は自分がなんとかして木村にそりを合せる努力をしたならば、一生涯木村と

(つれそって、ふつうのふうふのようなせいかつができないものでもないといっときおもうまでに)

連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでに

(なっていた。しかしそんなつぎはぎなかんがえかたが、どうしていつまでもようこの)

なっていた。しかしそんなつぎはぎな考えかたが、どうしていつまでも葉子の

(こころのそこをむしばむふあんをいやすことができよう。ようこがきをおちつけて、べいこくに)

心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に

(ついてからのせいかつをかんがえてみると、こうあってこそとおもいこむようなせいかつには、)

着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、

(きむらはのけものになるか、じゃまものになるほかはないようにもおもえた。きむらと)

木村はのけ者になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と

(くらそう、そうけっしんしてふねにのったのではあったけれども、ようこのきぶんはしじゅう)

暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終

(ぐらつきどおしにぐらついていたのだ。てあしのちぎれたにんぎょうをおもちゃばこに)

ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱に

(しまったものか、いっそすててしまったものかとちゅうちょするしょうじょのこころににた)

しまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇する少女の心に似た

(ぞんざいなためらいをようこはいつまでももちつづけていた。そういうときとつぜんようこの)

ぞんざいなためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。そういう時突然葉子の

(まえにあらわれたのがくらちじむちょうだった。よこはまのさんばしにつながれたえじままるのかんぱんの)

前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板の

(うえで、はじめてもうじゅうのようなこのおとこをみたときから、いなずまのようにするどくようこはこの)

上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの

(おとこのゆうえつをかんじゅした。よがよならば、くらちはちいさなきせんのじむちょうなんぞをして)

男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをして

(いるおとこではない。じぶんとどうようにまちがってきょうぐうづけられてうまれてきたにんげん)

いる男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間

(なのだ。ようこはじぶんのみにつまされてくらちをあわれみもしおそれもした。いままで)

なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし畏れもした。今まで

(だれのまえにでてもへいきでじぶんのおもうぞんぶんをふるまっていたようこは、このおとこのまえ)

だれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前

(ではおもわずしらずこころにもないきょうしょくをじぶんのせいかくのうえにまで)

では思わず知らず心にもない嬌飾(きょうしょく)を自分の性格の上にまで

(くわえた。じむちょうのまえでは、ようこはふしぎにもじぶんのおもっているのとちょうど)

加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど

(はんたいのどうさをしていた。むじょうけんてきなふくじゅうということもじむちょうにたいしてだけはただ)

反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ

(のぞましいことにばかりおもえた。このひとにおもうぞんぶんうちのめされたら、じぶんのいのちは)

望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は

(はじめてほんとうにもえあがるのだ。こんなふしぎな、ようこにはありえないよくぼう)

始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望

(すらがすこしもふしぎでなくうけいれられた。そのくせうわべでは)

すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面(うわべ)では

(じむちょうのそんざいをすらきがつかないようにふるまった。ことにようこのこころをふかく)

事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く

(きずつけたのは、じむちょうのものうげなむかんしんなたいどだった。ようこが)

傷つけたのは、事務長の物懶(ものう)げな無関心な態度だった。葉子が

(どれほどひとのこころをひきつけることをいったときでも、したときでも、じむちょうはれいぜんと)

どれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然と

(してみむこうともしなかったことだ。そういうたいどにでられると、ようこは、じぶんの)

して見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の

(ことはたなにあげておいて、はげしくじむちょうをにくんだ。このにくしみのこころがいちにちいちにちと)

事は棚に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が一日一日と

(つのっていくのをひじょうにおそれたけれども、どうしようもなかったのだ。しかし)

募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。しかし

(ようこはとうとうけさのできごとにぶっつかってしまった。ようこはおそろしいがけのきわ)

葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕のきわ

(からめちゃくちゃにとびこんでしまった。ようこのめのまえでいままですんでいた)

からめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた

(せかいはがらっとかわってしまった。きむらがどうした。べいこくがどうした。やしなって)

世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って

(いかなければならないいもうとやさだこがどうした。いままでようこをおそいつづけていたふあんは)

行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安は

(どうした。ひとにおかされまいとみがまえていたそのじそんしんはどうした。そんなものは)

どうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは

(こっぱみじんになくなってしまっていた。くらちをえたらばどんなことで)

木っ葉(こっぱ)みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事で

(もする。どんなくつじょくでもみつとおもおう。くらちをじぶんひとりにえさえすれば・・・。)

もする。どんな屈辱でも蜜と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば・・・。

(いままでしらなかった、ほりょのうくるみつよりあまいくつじょく!ようこのこころはこんなにじゅんじょ)

今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱! 葉子の心はこんなに順序

(だっていたわけではない。しかしようこはりょうてであたまをおさえてかがみをみいりながら)

立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながら

(こんなこころもちをはてしもなくかみしめた。そしてついそうはおおくのめいろをたどり)

こんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどり

(ぬいたすえに、ふしぎなかすいじょうたいにおちいるまえまですすんできた。ようこはそふぁを)

ぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを

(めじかのようにたちあがって、かことみらいとをたちきったげんざいのせつなの)

牝鹿(めじか)のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在の刹那の

(くらむばかりなへんしんにうちふるいながらほほえんだ。)

くらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。

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