有島武郎 或る女㊳

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(「おんなのよわきこころにつけいりたもうはあまりにむごきおこころとただうらめしくぞんじ)

「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷(むご)きお心とただ恨めしく存じ

(まいらせそろわらわのうんめいはこのふねにむすばれたるくしきえにし)

参らせ候(そろ)妾(わらわ)の運命はこの船に結ばれたる奇(く)しきえにし

(やそうらいけんこころがらとはもうせいまはかこのすべてみらいのすべてをうちすて)

や候(そうら)いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨て

(てただめのまえのはずかしきおもいにただようばかりなるねなしぐさのみとなりはてまいらせ)

てただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ

(そろをこともなげにみやりたもうがうらめしくうらめしくし」となんのくふうもなく、)

候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」となんのくふうもなく、

(よくいみもわからないでいっしゃせんりにかきながしてきたが、)

よく意味もわからないで一瀉千里(いっしゃせんり)に書き流して来たが、

(「し」というじにくると、ようこはぺんもおれよといらいらしくそのうえをぬり)

「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り

(けした。おもいのままをじむちょうにいってやるのは、おもいぞんぶんじぶんをもてあそべと)

消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべと

(いってやるのとおなじことだった。ようこはいかりにまかせてよはくをらんぼうにいたずらがきで)

いってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きで

(よごしていた。と、とつぜんせんいのへやからたかだかとくらちのわらいごえがきこえてきた。)

よごしていた。と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。

(ようこはわれにもなくつむりをあげて、しばらくききみみをたててから、)

葉子はわれにもなく頭(つむり)を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、

(そっととぐちにあゆみよったが、あとはそれなりまたしずかになった。ようこははずかし)

そっと戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。葉子は恥ずかし

(げにざにもどった。そしてかみのうえにおもいだすままにかってなじをかいたり、かたちのしれ)

げに座に戻った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れ

(ないかたちをかいてみたりしながら、ずきんずきんといたむあたまをぎゅっとひじをついた)

ない形を書いてみたりしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっと肘をついた

(かたてでおさえてなんということもなくかんがえつづけた。ねんがとどけばきむらにもさだこにも)

片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。念が届けば木村にも定子にも

(なんのようがあろう。くらちのこころさえつかめばあとはじぶんのいじひとつだ。そうだ。)

なんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地一つだ。そうだ。

(ねんがとどかなければ・・・ねんがとどかなければ・・・とどかなければあらゆるものに)

念が届かなければ・・・念が届かなければ・・・届かなければあらゆるものに

(ようがなくなるのだ。そうしたらうつくしくしのうねえ。・・・どうして・・・わたしは)

用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。・・・どうして・・・私は

(どうして・・・けれども・・・ようこはいつのまにかじゅんすいにかんしょうてきになっていた。)

どうして・・・けれども・・・葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。

(じぶんにもこんなおぼこなおもいがひそんでいたかとおもうと、だいてなでさすってやり)

自分にもこんなおぼこな思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやり

など

(たいほどじぶんがかわゆくもあった。そしてきべとわかれていらいたえてあじわわ)

たいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわ

(なかったこのあまいじょうちょにじぶんからほだされておぼれて、しんじゅうでもするひとの)

なかったこの甘い情緒に自分からほだされておぼれて、心中でもする人の

(ような、こいにみをまかせるこころやすさにひたりながらこづくえにつっぷしてしまった。)

ような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。

(やがてよいつぶれたひとのようにつむりをもたげたときは、とうにひが)

やがて酔いつぶれた人のように頭(つむり)をもたげた時は、とうに日が

(かげってへやのなかにははなやかにでんとうがともっていた。いきなりせんいのへやの)

かげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。いきなり船医の部屋の

(とがらんぼうにひらかれるおとがした。ようこははっとおもった。そのときようこのへやのとに)

戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸に

(どたりとつきあたったひとのけはいがして、「さつきさん」とにごってしおがれたじむちょうの)

どたりと突きあたった人の気配がして、「早月さん」と濁って塩がれた事務長の

(こえがした。ようこはみのすくむようなしょうどうをうけて、おもわずたちあがってたじろぎ)

声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎ

(ながらへやのすみににげかくれた。そしてからだじゅうをみみのようにしていた。)

ながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。

(「さつきさんおねがいだ。ちょっとあけてください」ようこはてばやくこづくえのうえのかみを)

「早月さんお願いだ。ちょっとあけてください」葉子は手早く小机の上の紙を

(くずかごになげすてて、ふぁうんてん・ぺんをものかげにほうりこんだ。そして)

屑かごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そして

(せかせかとあたりをみまわしたが、あわてながらめまどのかーてんをしめきった。)

せかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓のカーテンをしめきった。

(そしてまたたちすくんだ、じぶんのこころのおそろしさにまどいながら。がいぶではにぎりこぶし)

そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。外部では握り拳

(でつづけさまにとをたたいている。ようこはそわそわとすそまえをかきあわせて、かたごし)

で続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前をかき合わせて、肩越し

(にかがみをみやりながらなみだをふいてまゆをなでつけた。「さつきさん!!」ようこはやや)

に鏡を見やりながら涙をふいて眉をなでつけた。「早月さん!!」葉子はやや

(しばしとつおいつちゅうちょしていたが、とうとうけっしんして、なにかあわてくさって、)

しばしとつおいつ躊躇していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、

(かぎをがちがちやりながらとをあけた。じむちょうはひどくよってはいってきた。)

鍵をがちがちやりながら戸をあけた。事務長はひどく酔ってはいって来た。

(どんなにのんでもかおいろもかえないほどのごうしゅなくらちが、こんなにようのはめずらしい)

どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒な倉地が、こんなに酔うのは珍しい

(ことだった。しめきったとににおうだちによりかかって、れいぜんとしたようすではなれて)

事だった。締めきった戸に仁王立ちによりかかって、冷然とした様子で離れて

(たつようこをまじまじとみすえながら、「ようこさん、ようこさんがわるければさつきさん)

立つ葉子をまじまじと見すえながら、「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さん

(だ。さつきさん・・・ぼくのすることはするだけのかくごがあってするんですよ。)

だ。早月さん・・・僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。

(ぼくはね、よこはまいらいあなたにほれていたんだ。それがわからないあなたじゃない)

僕はね、横浜以来あなたに惚れていたんだ。それがわからないあなたじゃない

(でしょう。ぼうりょく?ぼうりょくがなんだ。ぼうりょくはおろかなこった。ころしたくなれば)

でしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば

(ころしてもすすんぜるよ」ようこはそのさいごのことばをきくとめまいをかんずる)

殺しても進んぜるよ」葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩(めまい)を感ずる

(ほどうちょうてんになった。「あなたにきむらさんというのがついてるくらいは、よこはまの)

ほど有頂天になった。「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の

(してんちょうからきかされとるんだが、どんなひとだかぼくはもちろんしりませんさ。)

支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。

(しらんがぼくのほうがあなたにふかぼれしとることだけは、このむねさんずんでちゃんと)

知らんが僕のほうがあなたに深惚れしとる事だけは、この胸三寸でちゃんと

(しっとるんだ。それ、それがわからん?ぼくははじもなにもさらけだしていっとるん)

知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるん

(ですよ。これでもわからんですか」ようこはめをかがやかしながら、そのことばを)

ですよ。これでもわからんですか」葉子は目をかがやかしながら、その言葉を

(むさぼった。かみしめた。そしてのみこんだ。こうしてようこにとってうんめいてきな)

むさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。こうして葉子に取って運命的な

(いちにちはすぎた。)

一日は過ぎた。

(じゅうはちそのよるふねはびくとりやについた。そうこのたちならんだながいさんばしに)

【一八】 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に

(”cartothetown.fare15せんと”とおおきな)

”Car to the Town.Fare 15¢(セント)”と大きな

(しろいかんばんにかいてあるのがよめにもしるくようこのめまどからみやられた。)

白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓から見やられた。

(べいこくへのじょうりくがきんぜられているしなのくりーがここからじょうりくするのと、)

米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力(クリー)がここから上陸するのと、

(そうとうのにやくとで、ふねのないがいはきゅうにそうぞうしくなった。じむちょうはいそがしいとみえて)

相当の荷役とで、船の内外は急に騒々しくなった。事務長は忙しいと見えて

(そのよるはついにようこのへやにかおをみせなかった。そこいらがそうぞうしくなれば)

その夜はついに葉子の部屋に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなれば

(なるほどようこはたとえようのないへいわをかんじた。うまれていらい、ようこはせいにこちゃく)

なるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着

(したふあんからこれほどまできれいにとおざかりうるものとはおもいももうけていな)

した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていな

(かった。しかもそれがくうそなへいわではない。とびたっておどりたいほどの)

かった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの

(ecstasyをくもなくおさえうるつよいちからのひそんだへいわだった。すべてのことに)

ecstasyを苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に

(あきたったひとのように、またにじゅうごねんにわたるながいくるしいたたかいにはじめてかって)

飽き足った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って

(かぶとをぬいだひとのように、こころにもにくにもこころよいひろうをおぼえて、いわばそのつかれをゆめの)

兜を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢の

(ようにあじわいながら、なよなよとそふぁにみをよせてともしびをみつめていた。)

ように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。

(くらちがそこにいないのがあさいこころのこりだった。けれどもなんといっても)

倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても

(こころやすかった。ともすればびしょうがくちびるのうえをさざなみのようにひらめきすぎた。)

心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。

(けれどもそのよくじつからいっとうせんきゃくのようこにたいするたいどはてのひらをかえしたように)

けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように

(かわってしまった。いちやのあいだにこれほどのへんかをひきおこすことのできるちからを、)

変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、

(ようこはたがわふじんのほかにそうぞうしえなかった。たがわふじんがよにときめくおっとを)

葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人を

(もって、ひとのめにたつこうさいをして、おんなざかりといいくだり、もういくらかくだりざかである)

持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂である

(のにひきかえて、どんなひとのはいぐうにしてみてもはずかしくないさいのうとようぼうとを)

のに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌とを

(もったわかわかしいようこのたよりなげなみのうえとが、ふたりにちかづくおとこたちにどうじょうの)

持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人に近づく男たちに同情の

(けいちょうをおこさせるのはもちろんだった。しかしどうとくはいつでもたがわふじんのような)

軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような

(たちばにあるひとのりきで、ふじんはまたそれをゆうりにつかうことをわすれないしゅるいのひとで)

立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人で

(あった。そしてせんきゃくたちのようこにたいするどうじょうのそこにひそむやしんーーはかない、)

あった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心ーーはかない、

(やしんともいえないほどのやしんーーもうひとついいかゆれば、ようこのきおくにしんせつなおとこ)

野心ともいえないほどの野心ーーもう一ついい換ゆれば、葉子の記憶に親切な男

(として、ゆうかんなおとことして、びぼうなおとことしてのこりたいというほどな)

として、勇悍(ゆうかん)な男として、美貌な男として残りたいというほどな

(やしんーーにぜつぼうのだんていをあたえることによって、そのどうじょうをひっこめさせることの)

野心ーーに絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事の

(できるのもふじんはこころえていた。じむちょうがじこのせいりょくはんいからはなれてしまったことも)

できるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も

(ふかいのひとつだった。こんなことからじむちょうとようことのかんけいはこうみょうなしゅだんでいちはやく)

不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く

(ふねじゅうにつたえられたにちがいない。そのけっかとしてようこはたちまちふねじゅうのしゃこうから)

船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から

(ほうむられてしまった。すくなくともたがわふじんのまえでは、せんきゃくのだいぶぶんはようこにたいして)

葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して

(よそよそしいたいどをしてみせるようになった。なかにもいちばんあわれ)

疎々(よそよそ)しい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれ

(なのはおかだった。だれがなんとつげぐちしたのかしらないが、ようこがあさおそくめを)

なのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目を

(さましてかんぱんにでてみると、いつものようにてすりによりかかって、もううちうみに)

さまして甲板に出て見ると、いつものように手欄によりかかって、もう内海に

(なったなみのいろをながめていたかれは、ようこのすがたをみとめるやいなや、ふいとそのばを)

なった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場を

(はずして、どこへかかげをかくしてしまった。それからというもの、おかはまるで)

はずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで

(ゆうれいのようだった。ふねのなかにいることだけはたしかだが、ようこがどうかしてそのすがたを)

幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を

(みつけたとおもうと、つぎのしゅんかんにはもうみえなくなっていた。そのくせようこは)

見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は

(おもわぬときに、おかがどこかでじぶんをみまもっているのをたしかにかんずることがたびたび)

思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたび

(だった。ようこはそのおかをあわれむことすらもうわすれていた。)

だった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。

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