有島武郎 或る女53
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問題文
(よこはまにもましてみるものにつけてれんそうのむらがりおこるこうけい、それからくるつよい)
横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い
(しげき・・・ようこはやどからまわされたじんりきしゃのうえからぎんざどおりのよるのありさまを)
刺激・・・葉子は宿から回された人力車の上から銀座通りの夜のありさまを
(みやりながら、あやうくいくどもなきだそうとした。さだこのすむおなじとちにかえって)
見やりながら、危うく幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って
(きたとおもうだけでももうむねはわくわくした。あいこもさだよもどんなおそろしいきたいに)
来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子も貞世もどんな恐ろしい期待に
(ふるえながらじぶんのかえるのをまちわびているだろう。あのおじおばがどんなはげしい)
震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母がどんな激しい
(ことばでじぶんをこのふたりのいもうとにえがいてみせているか。かまうものか。なんとでも)
言葉で自分をこの二人の妹に描いて見せているか。構うものか。なんとでも
(いうがいい。じぶんはどうあってもふたりをじぶんのてにとりもどしてみせる。こうおもい)
いうがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取り戻してみせる。こう思い
(さだめたうえはゆびもささせはしないからみているがいい。・・・ふとじんりきしゃが)
定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。・・・ふと人力車が
(おわりちょうのかどをひだりにまがるとくらいほそいとおりになった。ようこはめざすりょかんが)
尾張町のかどを左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が
(ちかづいたのをしった。そのりょかんというのは、くらちがいろざたでなくひいきにして)
近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色ざたでなくひいきにして
(いたげいしゃがあるざいさんかにひかされてひらいたみせだというので、くらちから)
いた芸者がある財産家に落籍(ひか)されて開いた店だというので、倉地から
(あらかじめかけあっておいたのだった。じんりきしゃがそのみせにちかづくにしたがってようこは)
あらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子は
(そのおかみというのにふとしたけねんをもちはじめた。みちのおんなどうしがであうまえに)
その女将というのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出あう前に
(かんずるいっしゅのかるいてきがいしんがようこのこころをしばらくはよのことがらからきりはなした。)
感ずる一種の軽い敵愾心が葉子の心をしばらくは余の事柄から切り放した。
(ようこはくるまのなかでえもんをきにしたり、そくはつのかたちをなおしたりした。)
葉子は車の中で衣紋を気にしたり、束髪の形を直したりした。
(むかしのれんがだてをそのままかいぞうしたとおもわれるしっくいぬりのがんじょうな、かどちめんの)
昔の煉瓦建てをそのまま改造したと思われる漆喰塗りの頑丈な、角地面の
(ひとかまえにきて、こうこうとあかるいいりぐちのまえにしゃふがかじぼうをおろすと、そこにはもう)
一構えに来て、煌々と明るい入り口の前に車夫が梶棒を降ろすと、そこにはもう
(にさんにんのおんなのひとたちがはしりでてまちかまえていた。ようこはすそまえをかばいながら)
二三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾前をかばいながら
(くるまからおりて、そこにたちならんだひとたちのなかからすぐおかみをみわけることが)
車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将を見分ける事が
(できた。せたけがおもいきってひくく、かおかたちもととのってはいないが、さんじゅうおんならしく)
できた。背たけが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく
(ふんべつのそなわった、きかんきらしい、あかぬけのしたひとがそれにちがいないとおもった。)
分別の備わった、きかん気らしい、垢ぬけのした人がそれに違いないと思った。
(ようこはおもいもうけたいじょうのこういをすぐそのひとにたいしてもつことができたので、)
葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つ事ができたので、
(ことさらこころよいしたしみをもちまえのあいきょうにそえながら、あいさつをしようとすると、)
ことさら快い親しみを持ち前の愛嬌に添えながら、挨拶をしようとすると、
(そのひとはこともなげにそれをさえぎって、「いずれごあいさつはのちほど、さぞおさむう)
その人は事もなげにそれをさえぎって、「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒う
(ございましてしょう。おにかいへどうぞ」といってじぶんからさきにたった。)
ございましてしょう。お二階へどうぞ」といって自分から先に立った。
(いあわせたじょちゅうたちはめはしをきかしていろいろとせわにたった。いりぐちの)
居合わせた女中たちは目はしをきかしていろいろと世話に立った。入り口の
(つきあたりのかべにはおおきなぼんぼんどけいがひとつかかっているだけでなんにも)
突き当たりの壁には大きなぼんぼん時計が一つかかっているだけでなんにも
(なかった。そのみぎてのがんじょうなふみごこちのいいはしごだんをのぼりつめると、ほかのへや)
なかった。その右手の頑丈な踏み心地のいい階子段をのぼりつめると、他の部屋
(からろうかできりはなされて、じゅうろくじょうとはちじょうとろくじょうとのへやがかぎがたにつづいていた。)
から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形に続いていた。
(ちりひとつすえずにきちんとそうじがとどいていて、さんかしょにおかれたてつびんからたつ)
塵一つすえずにきちんと掃除が届いていて、三か所に置かれた鉄びんから立つ
(ゆげでへやのなかはやわらかくあたたまっていた。「おざしきへともうすところですが、)
湯気で部屋の中は軟らかく暖まっていた。「お座敷へと申すところですが、
(ごきさくにこちらでおくつろぎくださいまし・・・みまともとっては)
御気さくにこちらでおくつろぎくださいまし・・・三間(みま)ともとっては
(ございますが」そういいながらおかみはながひばちのおいてあるろくじょうのまへと)
ございますが」そういいながら女将は長火鉢の置いてある六畳の間へと
(あんないした。そこにすわってひととおりのあいさつをことばすくなにすますと、おかみは)
案内した。そこにすわってひととおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は
(ようこのこころをしりぬいているように、じょちゅうをつれてかいかにおりていってしまった。)
葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。
(ようこはほんとうにしばらくなりともひとりになってみたかったのだった。かるい)
葉子はほんとうにしばらくなりとも一人になってみたかったのだった。軽い
(あたたかさをかんずるままにおもいちりめんのはおりをぬぎすてて、ありたけのかいちゅうぶつをおびの)
暖かさを感ずるままに重い縮緬の羽織を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の
(あいだからとりだしてみると、こりがちなかたも、おもくるしくかんじたむねもすがすがしく)
間から取り出して見ると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしく
(なって、かなりつよいつかれをいっときにかんじながら、ねこいたのうえにひじをもたせて)
なって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板の上に肘を持たせて
(いずまいをくずしてもたれかかった。ふるびをおびたあしやがまから)
居ずまいをくずしてもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜(あしやがま)から
(なりをたててしろくゆげのたつのも、きれいにかきならされたはいのなかに、かたそうな)
鳴りを立てて白く湯気の立つのも、きれいにかきならされた灰の中に、堅そうな
(さくらすみのひがしろいかつぎのしたでほんのりとあからんでいるのも、せいこうな)
桜炭の火が白い被衣(かつぎ)の下でほんのりと赤らんでいるのも、精巧な
(ようだんすのはめこまれたいっけんのかべにつづいたきようなさんしゃくどこに、しらぎくをさした)
用箪笥のはめ込まれた一間の壁に続いた器用な三尺床に、白菊をさした
(からつやきのつりはないけがあるのも、かすかにたきこめられたじんこうの)
唐津焼きの釣り花活けがあるのも、かすかにたきこめられた沈香(じんこう)の
(においも、めのつんだすぎまさのてんじょういたも、ほっそりとみがきのかかった)
においも、目のつんだ杉柾(すぎまさ)の天井板も、細っそりと磨きのかかった
(かわつきのはしらも、ようこにとってはーーおもい、こわい、かたいせんしつから)
皮付きの柱も、葉子に取ってはーー重い、 硬(こわ)い、堅い船室から
(ようやくかいほうされてきたようこにとってはなつかしくばかりながめられた。)
ようやく解放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかりながめられた。
(こここそはくっきょうのひなんじょだというようにようこはつくづくあたりをみまわした。)
こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見回した。
(そしてへやのすみにあるきうるしをぬったくわのひろぶたをひきよせて、)
そして部屋のすみにある生漆(きうるし)を塗った桑の広蓋を引き寄せて、
(それにてさげやかいちゅうぶつをいれおわると、あくこともなくそのふちからそこにかけての)
それに手提げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁から底にかけての
(まるみをもったびみょうなてざわりをめでいつくしんだ。ばしょがらとてそこここからこの)
円味を持った微妙な手ざわりを愛で慈しんだ。場所がらとてそこここからこの
(かいわいにとくゆうながっきのこえがきこえてきた。てんちょうせつであるだけにきょうはことさら)
界隈に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさら
(それがにぎやかなのかもしれない。こがいにはぽくりやあずまげたのおとがすこし)
それがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくりやあずま下駄の音が少し
(さえてたえずしていた。きかざったげいしゃたちがみがきあげたかおをびりびりする)
冴えて絶えずしていた。着飾った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりする
(ようなよさむにおしげもなくでんぽうにさらして、さすがにかんきにあしをはやめながら、)
ような夜寒に惜しげもなく伝法にさらして、さすがに寒気に足を早めながら、
(よばれたところにくりだしていくそのようすが、まざまざとはきもののおとをきいた)
招(よ)ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履物の音を聞いた
(ばかりでようこのそうぞうにはえがかれるのだった。あいのりらしいじんりきしゃのわだちの)
ばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの
(おともいせいよくひびいてきた。ようこはもういちどこれはくっきょうなひなんじょにきたものだと)
音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと
(おもった。このかいわいではようこはまなじりをかえしてひとからみられることは)
思った。この界隈では葉子は眦(まなじり)を反して人から見られる事は
(あるまい。)
あるまい。
(めずらしくあっさりした、さかなのあたらしいゆうしょくをすますとようこはふろを)
珍しくあっさりした、魚の鮮(あたら)しい夕食を済ますと葉子は風呂を
(つかって、おもいぞんぶんかみをあらった。たしないふねのなかのたんすいではあらってもあらっても)
つかって、思い存分髪を洗った。足しない船の中の淡水では洗っても洗っても
(ねちねちとあかのとりきれなかったものが、さわればてがきれるほどさばさばと)
ねちねちと垢の取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさばさばと
(あぶらがぬけて、ようこはあたまのなかまでかるくなるようにおもった。そこにおかみもしょくじを)
油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将も食事を
(おえてはなしあいてになりにきた。「たいへんおおそうございますこと、こんやのうちに)
終えて話相手になりに来た。「たいへんお遅うございますこと、今夜のうちに
(おかえりになるでしょうか」そうおかみはようこのおもっていることをさきがけに)
お帰りになるでしょうか」そう女将は葉子の思っている事を魁(さきが)けに
(いった。「さあ」とようこもはっきりしないへんじをしたが、こさむくなってきたので)
いった。「さあ」と葉子もはっきりしない返事をしたが、小寒くなって来たので
(ゆかたをきかえようとすると、そこにそでだたみにしてあるじぶんのきものにつくづく)
浴衣を着かえようとすると、そこに袖だたみにしてある自分の着物につくづく
(あいそがつきてしまった。このへんのじょちゅうにたいしてもそんなしつっこい)
愛想が尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこい
(けばけばしいがらのきものはにどときるきにはなれなかった。そうなるとようこは)
けばけばしい柄の着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子は
(しゃにむにそれがたまらなくなってくるのだ。ようこはうんざりしたようすをして)
しゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざりした様子をして
(じぶんのきものからおかみにめをやりながら、「みてくださいこれを。このふゆはべいこくに)
自分の着物から女将に目をやりながら、「見てくださいこれを。この冬は米国に
(いるのだとばかりきめていたので、あんなものをつくってみたんですけれども、)
いるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、
(がまんにももうきていられなくなりましたわ。ごしょう。あなたのところになにかふだんぎの)
我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生。あなたの所に何かふだん着の
(あいたのでもないでしょうか」「どうしてあなた。わたしはこれでござんす)
あいたのでもないでしょうか」「どうしてあなた。わたしはこれでござんす
(もの」とおかみはひょうきんにもきがるくちゃんとたちあがってじぶんの)
もの」と女将は剽軽(ひょうきん)にも気軽くちゃんと立ち上がって自分の
(せたけのひくさをみせた。そうしてたったままでしばらくかんがえていたが、おどりで)
背たけの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで
(しこみぬいたようなてつきではたとひざのうえをたたいて、「ようございます。)
仕込み抜いたような手つきではたと膝の上をたたいて、「ようございます。
(わたしひとつくらちさんをびっくらさしてあげますわ。わたしのいもうとぶんにあたるのに)
わたし一つ倉地さんをびっくらさして上げますわ。わたしの妹分に当たるのに
(がらといいとしかっこうといい、しつれいながらあなたさまとそっくりなのがいますから、)
柄といい年格好といい、失礼ながらあなた様とそっくりなのがいますから、
(それのをとりよせてみましょう。あなたさまはあらいがみでいらっしゃるなり・・・)
それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり・・・
(いかが、わたしがすっかりしたててさしあげますわ」このおもいつきはようこには)
いかが、わたしがすっかり仕立てて差し上げますわ」この思い付きは葉子には
(つよいゆうわくだった。ようこはいちもにもなくいさみたってしょうちした。)
強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。