夢野久作 押絵の奇蹟⑫/⑲

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問題文

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(わたしはふつうのおんなのこではない。おかあさまのこのよにのこされたおもいのかたまりなのだ。)

私は普通の女の子ではない。お母様のこの世に残された思いの固まりなのだ。

(・・・このうえもなくうつくしく、またとなくむごたらしいめにあいながら、なにも)

・・・この上もなく美しく、又となくむごたらしい目に遭いながら、何も

(おっしゃらずにおはてになったおかあさまのおこころが、そのままにわたしのすがたにあらわれて)

仰有らずにお果てになったお母様のお心が、そのままに私の姿にあらわれて

(いるのだ。わたしはこうしたおかあさまのうらみがつきるまでいきておればそれでよい)

いるのだ。私はこうしたお母様の怨みが尽きるまで生きておればそれでよい

(のだ。・・・ああおかあさま・・・わたしはこうしてたっしゃにいきております。)

のだ。・・・ああお母様・・・私はこうして達者に生きております。

(・・・けれども・・・けれどもわたしはこれからどうしたらいいのでしょうか。)

・・・けれども・・・けれども私はこれからどうしたらいいのでしょうか。

(・・・ああおかあさん・・・。というようなきもちをかがみのなかのじぶんのかおにとい)

・・・ああお母さん・・・。というような気持ちを鏡の中の自分の顔に問い

(かけながら、なみだをながしたこともたびたびでございました。そうかとおもいますと)

かけながら、涙を流した事も度々で御座いました。そうかと思いますと

(・・・おわらいになるかもしれませんけど・・・そんなにしてなきましたあとで、)

・・・お笑いになるかも知れませんけど・・・そんなにして泣きましたあとで、

(うれしいのかかなしいのかわからぬからっぽのようなきもちになりますと、かがみのなかの)

嬉しいのか悲しいのかわからぬ空っぽのような気もちになりますと、鏡の中の

(じぶんのかおをあのくちびるをかみしめてかたなをふりあげているいさましいしののひょうじょうにして)

自分の顔をあの唇を噛みしめて刀を振り上げている勇ましい信乃の表情にして

(みたり、ことをひいているあこやのなやましいすがたにしてみたりしてあそんでは、)

みたり、琴を弾いている阿古屋の悩ましい姿にしてみたりして遊んでは、

(たったひとりできもちよくほほとわらうことさえありました。そうして、それが)

たった一人で気持ちよくホホと笑う事さえありました。そうして、それが

(おかあさまのせけんにたいするはらいせであるかのようにおもわれまして「ふぎしゃのこ」と)

お母様の世間に対する腹癒せであるかのように思われまして「不義者の子」と

(いうなまえが、なんともいえずきもちよくさえおもわれてくるのでございました。)

いう名前が、何ともいえず気持ちよくさえ思われて来るので御座いました。

(こんなことまでもうしあげて、しつれいとはぞんじますけれどこれはわたしのじゅうにのとしから)

こんな事まで申上げて、失礼とは存じますけれどこれは私の十二の年から

(じゅうしごさいになりますあいだのことで、わたしがなんとなく、おとこのかたのごしんせつをよろこばぬような)

十四五歳になります間の事で、私が何となく、男の方の御親切を喜ばぬような

(せいしつになりましたのも、そのころのことではなかったかとおもわれるのでございます。)

性質になりましたのも、その頃の事ではなかったかと思われるので御座います。

(けれども、そのうちにじゅうしごにもなりますと、わたしのきもちがまたいくらかずつ)

けれども、そのうちに十四五にもなりますと、私の気もちが又いくらかずつ

(かわってきたようにおもいます。いまももうしましたようにそのころまではまいばんうちじゅう)

かわって来たように思います。今も申しましたようにその頃までは毎晩家中

など

(ねしずまられましてから、たったひとりでおゆどののきょうだいのまえにすわるのが、わたしのひみつの)

寝静まられましてから、たった一人でお湯殿の鏡台の前に坐るのが、私の秘密の

(たのしみのようになっておりました。そうしてまいよまいよそのようなものおもいを)

楽しみのようになっておりました。そうして毎夜毎夜そのような物思いを

(くりかえしては、ないたりわらったりしないことはございませんでしたが、そのうちに)

くり返しては、泣いたり笑ったりしない事は御座いませんでしたが、そのうちに

(ふとかがみのなかのわたしのかおのりんかくが、どことなくなくなられたおかあさまにもにてきたのに)

フト鏡の中の私の顔の輪廓が、どことなく亡くなられたお母様にも似て来たのに

(きがついてびっくりすることがたびたびあるようになりました。それはまえとちっとも)

気が付いてビックリすることが度々あるようになりました。それは前とちっとも

(かわらぬめはなだちでありながら、こころもちおもながになって、あごや、えりすじに、)

変らぬ眼鼻立ちでありながら、心持ち面長になって、頤(あご)や、襟すじに、

(ほのじろいあおみがかってまいりますと、おしろいなぞはちっともつけないままに、)

ほの白い青味がかって参りますと、白粉なぞはちっともつけないままに、

(それがはっきりとわかってまいりまして、しまいには、あのいぬづかしのとあこやの)

それがハッキリとわかって参りまして、しまいには、あの犬塚信乃と阿古屋の

(めはなやくちびるをつけたおかあさまが、ちゃんとかがみのなかに、おすわりになってわたしをみて)

眼鼻や唇をつけたお母様が、チャンと鏡の中に、御坐りになって私を見て

(おいでになるとしかおもえないくらいになってまいりました。そのおかあさまのおすがたは、また、)

おいでになるとしか思えない位になって参りました。そのお母様のお姿は、又、

(きみょうにも、あのおとうさまからおきられになるすこしまえの、なんともいえないこうごうしい、)

奇妙にも、あのお父様からお斬られになる少し前の、何ともいえない神々しい、

(きよらかなおすがたにみえてきてしようがないのでございました。そうして、その)

清らかなお姿に見えて来てしようがないので御座いました。そうして、その

(おすがたをいっしんにみつめておりますと、そのうちに、そのかがみのなかのおかあさまのくちびるが、)

お姿を一心に見つめておりますと、そのうちに、その鏡の中のお母様の唇が、

(おのずとうごきだしまして、そのまぎわにおっしゃったおことばがりんりんとすきとおって、)

おのずと動き出しまして、その間際に仰有ったお言葉が凛々とすき通って、

(わたしのみみにひびいてくるのでした。「わたしは、ふぎをいたしましたおぼえはもうとう)

私の耳に響いて来るのでした。「私は、不義を致しましたおぼえは毛頭

(ございませぬ・・・けれども、このうえにおみやづかえはいたしかねます」という)

御座いませぬ・・・けれども、この上にお宮仕えはいたしかねます」という

(ように・・・。そのおこえをきくたびに、わたしはいつもはっとして、うしろを)

ように・・・。そのお声を聞くたびに、私はいつもハッとして、うしろを

(ふりかえらずにはおられませんでした。そうして、そこいらにだれもいないことを)

振り返らずにはおられませんでした。そうして、そこいらに誰も居ない事を

(たしかめますと、いまいちどじぶんのくちのなかで、こうしたおかあさまのなぞのようなおことばを)

たしかめますと、今一度自分の口の中で、こうしたお母様の謎のようなお言葉を

(くりかえしながら、あのときにおかあさまがおながしになったとおりのなみだを、ほろほろと)

くり返しながら、あの時にお母様がお流しになった通りの涙を、ホロホロと

(ながさずにはおられないのでございました。わたしはそれから、だんだんとかがみを)

流さずにはおられないので御座いました。私はそれから、だんだんと鏡を

(みるのがこわくなってきました。かがみのなかにうつっておりますわたしのかおが、よにも)

見るのが怖くなって来ました。鏡の中に映っております私の顔が、世にも

(ふしぎなきみのわるいものにおもえたり、そうかとおもいますとこのうえもなく)

不思議な気味のわるいものに思えたり、そうかと思いますとこの上もなく

(なつかしいものにみえたりしますので、そのつどにかがみというものが、よにも)

なつかしいものに見えたりしますので、その都度に鏡というものが、世にも

(とりとめのない、ばからしいような、おそろしいような、またはたまらなく)

取り止めのない、馬鹿らしいような、恐ろしいような、又はたまらなく

(いらだたしいしなもののようにおもわれてならないのでございました。しまいにはがっこうの)

苛立たしい品物のように思われてならないので御座いました。しまいには学校の

(いきかえりに、よそのみせのがらすまどをみてさえもかなしくてきみわるくて、むねが)

行き帰りに、よその店の硝子窓を見てさえも悲しくて気味わるくて、胸が

(どきどきするようになりました。そうしていつからともなく、・・・もうどんな)

ドキドキするようになりました。そうしていつからともなく、・・・もうどんな

(ことがあってもかがみというものをみまい。おけしょうもしまい。かみもひきつめて)

事があっても鏡というものを見まい。お化粧もしまい。髪も引き詰めて

(ぐるぐるまきにしておきましょう。そうして、あのおかあさまのなぞのようなおことばの)

グルグル巻きにしておきましょう。そうして、あのお母様の謎のようなお言葉の

(ほんとうのいみがわかるまではけっこんというものをしまい。わたしはすぐにもとうきょうに)

ホントウの意味がわかるまでは結婚というものをしまい。私は直ぐにも東京に

(のぼって「なかむらさんぎょくさま」におめにかかって「わたしはふぎをいたしましたおぼえはもうとう)

上って「中村珊玉様」にお眼にかかって「私は不義を致しましたおぼえは毛頭

(ございません・・・けれどもこのうえのおみやづかえはいたしかねます」ときっぱり)

御座いません・・・けれどもこの上のお宮仕えは致しかねます」とキッパリ

(おっしゃったおかあさまのおことばのいみをときあかしていただきましょう・・・そうして)

仰有ったお母様のお言葉の意味を説き明かして頂きましょう・・・そうして

(わたしがおかあさまのふぎのこでないことをはっきりとたしかめるまでは、しんでもおとこの)

私がお母様の不義の子でない事をハッキリとたしかめるまでは、死んでも男の

(かたのごしんせつをみにうけまい・・・というようなおとこのような、きもちになって)

方の御親切を身に受けまい・・・というような男のような、気もちになって

(しまいました。こうしたけっしんをいたしますと、わたしはあるゆうがたそっとしばちゅうさんのうちを)

しまいました。こうした決心を致しますと、私はある夕方ソッと柴忠さんの家を

(ぬけだしましてはかたちっこうのいしがきのうえにまいりました。そうしてたったひとつもって)

脱け出しまして博多築港の石垣の上に参りました。そうしてたった一つ持って

(おりましたそまつなかいちゅうかがみをおびのあいだからとりだしましてじぶんのかおとおわかれを)

おりました粗末な懐中鏡を帯の間から取り出しまして自分の顔とお別れを

(いたしますと、まるいゆるやかななみにゆられて、きらきらとひかりながらそこのほうに)

致しますと、丸いゆるやかな波に揺られて、キラキラと光りながら底の方に

(みえなくなるまでみおくっておりました。それがわたしのじゅうろくのはるでございました。)

見えなくなるまで見送っておりました。それが私の十六の春で御座いました。

(しばちゅうさんは、このようなわたしのかってなおねがいをこころよくききいれてくださいました。)

柴忠さんは、このような私の勝手なお願いを快く聞き入れて下さいました。

(「それはけっこうなこととおもいます。ちょうどとうきょうのおんがくがっこうのこうしで、ていだいのきょうじゅを)

「それは結構な事と思います。ちょうど東京の音楽学校の講師で、帝大の教授を

(やっているおかざわというのが、わたしのおさなともだちですから、それにしょうかいじょうをかいて)

やっている岡沢というのが、私の幼友達ですから、それに紹介状を書いて

(あげましょう。きごころのいいふうふものですがこどもがないのですからよろこんでおひき)

上げましょう。気心のいい夫婦者ですが子供がないのですから喜んでお引き

(うけするでしょう。なかすのおやしきをうったおかねはわたしがおあずかりしております)

受けするでしょう。中洲のおやしきを売ったお金は私がお預かりしております

(から、ごいりようのときはいつでもいってよこしてください。それから、これはわたしの)

から、御入用の時はいつでも云ってよこして下さい。それから、これは私の

(すんしですが、これだけはぬすまれぬようにしてはだみにつけておいでなさい。たこくに)

寸志ですが、これだけは盗まれぬようにして肌身につけておいでなさい。他国に

(たびいくとまんいちのことがおおいものですから・・・それにあなたはもうただいまでは、)

旅行くと万一の事が多いものですから・・・それにあなたはもう只今では、

(いのぐちけのひとつぶだねになっておられるのですからね・・・」というようななにから)

井ノ口家の一粒種になっておられるのですからね・・・」というような何から

(なにまでごしんせつなおことばで、りょひのほかに、うまれてはじめてみましたひゃくえんのおさつを)

何まで御親切なお言葉で、旅費のほかに、生れて初めて見ました百円のお札を

(いちまいとしょうかいじょうをかいてくださいました。そのしょうかいじょうはひらきふうになっておりまして、)

一枚と紹介状を書いて下さいました。その紹介状は開き封になっておりまして、

(しばちゅうさんからぜひいちどよんでおくようにいわれました。それからべつにおかざわせんせいに)

柴忠さんから是非一度読んでおくように云われました。それから別に岡沢先生に

(あててしばちゅうさんからだされるゆうびんのなかみもみせていただきましたが、どちらにもわたしの)

宛てて柴忠さんから出される郵便の中味も見せて頂きましたが、どちらにも私の

(ことをしんだゆうじんのひとりむすめとかいてありまして、りょうしんのことなぞはすこしももらして)

事を死んだ友人の一人娘と書いてありまして、両親の事なぞはすこしも洩らして

(ありませんでしたので、ほっとあんしんしたことでございました。)

ありませんでしたので、ほっと安心したことで御座いました。

(おんなのつまりませぬくりごとをながながとかきつけましてさぞかしおあきに)

女のつまりませぬくり言を長々と書きつけまして嘸(さぞ)かしお倦(あ)きに

(なったことでございましょう。けれども、そのときのわたしはいっしょうけんめいのおもいで)

なった事で御座いましょう。けれども、その時の私は一生けんめいの思いで

(ございました。そうしてそのせいか、もじからびんごのおのみちまでのりました)

御座いました。そうしてそのせいか、門司から備後の尾ノ道まで乗りました

(きせんにもよいもせずに、みっかさんやかかってしんばしにつきますと、おかざわせんせいごふうふの)

汽船にも酔いもせずに、三日三夜かかって新橋に着きますと、岡沢先生御夫婦の

(おむかえをうけましてやなかのかんせいなおたくにごやっかいになりましたが、)

お迎えを受けまして谷中(やなか)の閑静なお宅に御厄介になりましたが、

(それからのちというもの、きょうはなかむらさんぎょくさまをおたずねしようか、あしたはかぶきざへ)

それから後というもの、今日は中村珊玉様をお訪ねしようか、明日は歌舞伎座へ

(いこうかとおもいながらも、これというてづるはおろかほうがくさえもわかりませぬ)

行こうかと思いながらも、これという手蔓は愚か方角さえもわかりませぬ

(なさけなさ・・・ともうしておかざわせんせいに、このようなことをおうちあけするわけにも)

情なさ・・・と申して岡沢先生に、このような事をお打ち明けする訳にも

(まいりませず、とほうにくるるばかりでございました。それにとうきょうのめまぐるしさと)

参りませず、途方に暮るるばかりで御座いました。それに東京のめまぐるしさと

(にぎやかさと、とりあえずはいっておりましたうえののふつわじょがっこうのがっかの)

賑やかさと、とりあえず這入っておりました上野の仏和女学校の学科の

(むずかしさと、それからもうひとつ、うまれてはじめておかざわせんせいにおしえていただいたぴあのの)

難しさと、それからもう一つ、生れて初めて岡沢先生に教えて頂いたピアノの

(おもしろさにむちゅうになってしまいましていちねんばかりはゆめのようにすごしてしまい)

面白さに夢中になってしまいまして一年ばかりは夢のように過ごしてしまい

(ました。そうしてまもなくよくとしのはるになりますと、あるゆうはんどきのことでござい)

ました。そうして間もなく翌年の春になりますと、或る夕飯時のことで御座い

(ました。おくさまのおしゃくでさかずきをかさねておられましたおかざわせんせいが、おもいもかけず)

ました。奥様のお酌で盃を重ねておられました岡沢先生が、思いもかけず

(こんなことをいいだされました。「としこさんは、まだかぶきざをみたことが)

こんな事を云い出されました。「トシ子さんは、まだ歌舞伎座を見たことが

(なかったっけね」わたしはそのときにおもわずはっとしまして、そうおっしゃったおかざわせんせいの)

なかったっけね」私はその時に思わずハッとしまして、そう仰有った岡沢先生の

(おかおをみあげながらまっかになってしまいました。)

お顔を見上げながら真赤になってしまいました。

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