夢野久作 押絵の奇蹟⑬/⑲

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問題文

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(わたしのこころのおくのおくにかくしておりますひみつをいいあてられたようなきもちが)

私の心の奥の奥に隠しております秘密を云い当てられたような気もちが

(いたしますといっしょにおかざわせんせいがなにかしらそんなことについてごぞんじで、それとない)

致しますと一緒に岡沢先生が何かしらそんな事について御存じで、それとない

(ごしんせつからこんなことをおっしゃるのではないかとおもいまして・・・。けれどもその)

御親切からこんな事を仰有るのではないかと思いまして・・・。けれどもその

(よこからなにもごぞんじないらしいおくさまがやさしくおわらいになりました。「まあ。)

横から何も御存じないらしい奥様が優しくお笑いになりました。「マア。

(ほんとに。としこさんはもうすっかりとうきょうつうとおもっていたら、だいじのだいじの)

ホントニ。トシ子さんはもうすっかり東京通と思っていたら、大事の大事の

(かぶきざをおっことしていたわね。ほほほほ。なんならあしたはにちようですから)

歌舞伎座を落っことしていたわね。ホホホホ。何なら明日は日曜ですから

(つれてってくださいませんか。わたしもとしこさんぐらいひさしぶりですから・・・」)

連れてって下さいませんか。私もトシ子さんぐらい久し振りですから・・・」

(するとおかざわせんせいも、なにもごぞんじないらしくにこにこしてふたりのかおをごらんに)

すると岡沢先生も、何も御存じないらしくニコニコして二人の顔を御覧に

(なりました。「うん。おれもそうおもうとったところだ。かぶきざはいなかものが)

なりました。「ウン。俺もそう思うとったところだ。歌舞伎座は田舎者が

(みるものくらいにおもうておったのじゃからつい、うっかりしてわすれておった。)

見るもの位に思うておったのじゃからツイ、ウッカリして忘れておった。

(ははははは。しかしなんぼなんでも、そんなひっこきつめのぐるぐるまきのあたまでは)

ハハハハハ。しかし何ぼ何でも、そんな引っこき詰めのグルグル巻の頭では

(いかんぞ。いずのおおしまにおかざわのしんるいがあるようにおもわれ)

不可(いか)んぞ。伊豆の大島に 岡沢の親戚(しんるい)があるように思われ

(てはこまるからの・・・」「・・・まあ。あんなかわいそうなことを・・・」)

ては困るからの・・・」「・・・まあ。あんな可哀そうなことを・・・」

(そんなごじょうだんのうちにせんせいごふうふはいろいろとわたしにかぶきしばいのおはなしをして)

そんな御冗談のうちに先生御夫婦はいろいろと私に歌舞伎芝居のお話をして

(おきかせになりました。おんがくとげきのかんけいとかひょうしぎのおんがくてきかちとぶたいひょうげんの)

お聞かせになりました。音楽と劇の関係とか拍子木の音楽的価値と舞台表現の

(かんけいとかいうような、きょうみぶかいおはなしが、それからそれへとつきませんでしたが、)

関係とかいうような、興味深いお話が、それからそれへと尽きませんでしたが、

(わたしはただもううわのそらで、ともすればでかかるためいきをおさえおさえごはんをくちにはこんで)

私はただもう上の空で、ともすれば出かかる溜め息を押え押え御飯を口に運んで

(おりましたので、みんなわすれてしまいました。ただそのなかでみみにとまりました)

おりましたので、みんな忘れてしまいました。ただその中で耳に止まりました

(のはおくさまからききましたおはなしで、あしたのげいだいのちゅうしんになっておりますのが、)

のは奥様から聞きましたお話で、明日の芸題の中心になっておりますのが、

(それこそふしぎないんねんともうすものでございましょう、あなたさまのおいえのげいとなって)

それこそ不思議な因縁と申すもので御座いましょう、貴方様のお家の芸となって

など

(おりますあこやのことぜめにきまっておりますこと。そのあこやをおつとめになるの)

おります阿古屋の琴責めに決まっております事。その阿古屋をおつとめになるの

(がわたしとおなじとしでことしじゅうしちにおなりになったばかりのなかむらはんじろうじょう)

が私と同じ年で今年十七におなりになったばかりの中村半次郎丈(じょう)

(・・・ほかならぬあなたさまで、そんなにおわかくてたておやまになられた)

・・・外ならぬ貴方様で、そんなにお若くて 立女形(たておやま)になられた

(はいゆうのおはなしはむかしからひとつもつたわっていないこと。そのおいしょうのおもさがじゅうさんかんめも)

俳優のお話は昔から一つも伝わっていない事。そのお衣裳の重さが十三貫目も

(あるのを、そんなおわかさでじゆうにおつかいになるのがまた、たいへんなひょうばんになって)

あるのを、そんなお若さで自由にお使いになるのが又、大変な評判になって

(いること。そうしてこんどのかぶきざのこうぎょうはさくねんのはるおなくなりに)

いる事。そうして此度(こんど)の歌舞伎座の興行は昨年の春お亡くなりに

(なったあなたさまのおとうさま、なかむらさんぎょくさまのおついぜんのためであったこと・・・なぞで)

なった貴方様のお父様、中村珊玉様のお追善のためであった事・・・なぞで

(ございました。わたしはそのときにごはんをなんばいいただきましたか、それともいっぱいしかいただき)

御座いました。私はその時に御飯を何杯頂きましたか、それとも一杯しか頂き

(ませんでしたか、すこしもおぼえていないのでございます。ただゆめごこちで)

ませんでしたか、少しもおぼえていないので御座います。ただ夢心地で

(おかざわせんせいごふうふのおきゅうじをしながらほかのことばかりかんがえておりましたようです。)

岡沢先生御夫婦のお給仕をしながら外の事ばかり考えておりましたようです。

(おかざわせんせいは「うっかりしてわたしにかぶきざをみせるのをわすれていた」といわれ)

岡沢先生は「ウッカリして私に歌舞伎座を見せるのを忘れていた」と云われ

(ましたが、ほんとうはわたしこそうっかりしておりましたので、なんのために)

ましたが、ホントウは私こそウッカリしておりましたので、何のために

(しばちゅうさんのところからおいとまをいただきましたか、そうしてなんのもくてきでとうきょうにまいりました)

柴忠さんの処からお暇を頂きましたか、そうして何の目的で東京に参りました

(のか。そのときまですっかりわすれていたではございませんか。そうしてうかうかと)

のか。その時までスッカリ忘れていたでは御座いませんか。そうしてウカウカと

(いたしておりますうちに、おかあさまのたいせつなひみつをただひとりごぞんじのなかむらさんぎょくさまが)

致しておりますうちに、お母様の大切な秘密を唯一人御存じの中村珊玉様が

(おなくなりになったことさえもきづかずにいたではございませんか。これが)

お亡くなりになった事さえも気付かずにいたでは御座いませんか。これが

(いちねんまえでありましたならば、こんなよいおりはねがってもないはずでしたのに・・・)

一年前でありましたならば、こんなよい折は願ってもない筈でしたのに・・・

(そうしていのぐちのむすめとなのってなかむらさんぎょくさまにおめにかかるきかいができたかも)

そうして井ノ口の娘と名乗って中村珊玉様にお眼にかかる機会が出来たかも

(しれないのに・・・わたしは、まあなんというふこうものであったろうとおもいますと、)

知れないのに・・・私は、まあ何という不幸者であったろうと思いますと、

(おもわずくやしなみだがでそうになりましたので、そのままおゆをとりにいくふりを)

思わず口惜し涙が出そうになりましたので、そのままお湯を取りに行くふりを

(しておだいどころのほうへいきました。けれどもそのおゆうはんごになりますとせんせいの)

してお台所の方へ行きました。けれどもそのお夕飯後になりますと先生の

(ごようで、にさんちょうさきのあらものやのまえまでゆうびんをだしにまいりましたので、そのついでに)

御用で、二三町先の荒物屋の前まで郵便を出しに参りましたので、そのついでに

(わたしはおおいそぎでとおまわりをしまして、うらまちのちいさなぶんぐやけんぎょうのざっしやから)

私は大急ぎで遠まわりをしまして、裏町の小さな文具屋兼業の雑誌屋から

(そのつきの「かぶきじだい」というざっしをいっさつかってまいりました。そうしておにかいの)

その月の「歌舞伎時代」という雑誌を一冊買って参りました。そうしてお二階の

(わたしのへやにかえりますとゆうあかりのさすまどぎわにすわって、こわいものでも)

私の室(へや)に帰りますと夕明かりのさす窓際に坐って、怖いものでも

(みるようにそっとひらいてみました。わたしは、それまでそのようなざっしにてを)

見るようにソッと開いて見ました。私は、それまでそのような雑誌に手を

(ふれたことすらありませぬほんとのいなかむすめでございました。もっともはいゆうのかたの)

触れた事すらありませぬホントの田舎娘で御座いました。もっとも俳優の方の

(おなまえは、ほかのかたよりもたくさんにぞんじておったかもしれませぬけれども、それは)

お名前は、ほかの方よりも沢山に存じておったかも知れませぬけれども、それは

(おかあさまのにしきえについておりましたふるいふるいおかたのなまえばかりで、ちかごろのおかたの)

お母様の錦絵についておりました古い古いお方の名前ばかりで、近頃のお方の

(おなまえはひとりもぞんじませんでした。ましてなかむらさんぎょくさまにおとこのおこさんがおありに)

お名前は一人も存じませんでした。まして中村珊玉様に男のお子さんがおありに

(なることだの、それがわたしとおないどしでおいでになるあなたさまで、なかむらはんじろうさまとおっしゃる)

なる事だの、それが私と同い年でおいでになる貴方様で、中村半次郎様と仰有る

(ことなぞゆめにもぞんじませんでしたので、そうとしりますと、もうふしぎな)

事なぞ夢にも存じませんでしたので、そうと知りますと、もう不思議な

(おなつかしさがいっぱいになりまして、まだひょうしをひらきませぬうちからかおがあつく)

おなつかしさが一パイになりまして、まだ表紙を開きませぬうちから顔が熱く

(なるようにおもいました。もうすまでもなく、あなたさまと、おとうさまの、おすがおのしゃしんを)

なるように思いました。申すまでもなく、貴方様と、お父様の、お素顔の写真を

(はいけんいたしましたのはそのときがはじめてでございました。そうして、まことに)

拝見致しましたのはその時が初めてで御座いました。そうして、まことに

(しつれいではございますけれど、さいしょにおおきくでておりましたあなたさまのおとうさまの、)

失礼では御座いますけれど、最初に大きく出ておりました貴方様のお父様の、

(じっとくをめしたおかおをじいとみあげておりますうちに、しばちゅうさんのところのおゆどのの)

十徳を召したお顔をジイと見上げておりますうちに、柴忠さんの処のお湯殿の

(かがみのなかでみておりましたわたしのかおが、まざまざとうきだしてまいりましたときのわたしの)

鏡の中で見ておりました私の顔が、マザマザと浮き出して参りました時の私の

(むねのとどろきはどんなでございましたでしょう。いまさらにふしぎなような、おそろしい)

胸の轟きはどんなで御座いましたでしょう。今更に不思議なような、恐ろしい

(ような・・・そうしてたまらなくおなつかしいような・・・それでもそう)

ような・・・そうしてたまらなくおなつかしいような・・・それでもそう

(おもってはならぬと・・・いうようななんともいえませぬおもいにわななきながら、)

思ってはならぬと・・・いうような何ともいえませぬ思いにわななきながら、

(いつまでそのおしゃしんをみいっておりましたことでしょうか。けれども、そうした)

いつまでそのお写真を見入っておりました事でしょうか。けれども、そうした

(わたしのおもいは、そのつぎのぺーじをひらきますといっしょにかきけされてしまいました。)

私の思いは、その次の頁を開きますと一緒にかき消されてしまいました。

(たとえ、まひるにゆうれいにであいましたとても、わたしは、あのときほどにふるえ)

たとえ、ま昼に幽霊に出会いましたとても、私は、あの時ほどに慄るえ

(わななきはいたしませんでしょう。・・・そのぺーじにやはりおおきくしちぶしんに)

わななきは致しませんでしょう。・・・その頁にやはり大きく七分身に

(おうつりになっているあなたさまのおようふくすがたをはいけんいたしましたときに、おかあさまの)

おうつりになっている貴方様のお洋服姿を拝見致しました時に、お母様の

(へんそうかとおもうほどよくにておいであそばすことが、ただひとめでわかって)

変装かと思うほどよく肖(に)ておいで遊ばすことが、ただ一眼でわかって

(しまったのでございました。そのときにわたしはたたみのうえにりょうてをついて、あなたさまの)

しまったので御座いました。その時に私は畳の上に両手をついて、貴方様の

(おしゃしんをみいったまま・・・ふしぎのうえにもかさなるふしぎに、すっかり)

お写真を見入ったまま・・・不思議の上にも重なる不思議に、すっかり

(おびやかされてしまったのでございました。そうしてなにもかもがわからなく)

おびやかされてしまったので御座いました。そうして何もかもがわからなく

(なりましたまま、いまにもきぜつしそうにいきぐるしくあえぎつづけていたように)

なりましたまま、今にも気絶しそうに息苦しくあえぎ続けていたように

(おもいます。しまいにはりょうほうのてくびがしびれてきまして、かみのけがかおのまえに)

思います。しまいには両方の手首が痺れて来まして、髪の毛が顔の前に

(みだれかかってまいりましてもやはりみうごきすらできないままにつぎからつぎへと)

乱れかかって参りましてもやはり身動きすら出来ないままに次から次へと

(おそろしいおもいにまよいつづけていたようにおもいます。「わたしはふぎをいたしたおぼえは)

恐ろしい思いに迷い続けていたように思います。「私は不義を致したおぼえは

(もうとうございません」とおっしゃったおかあさまのおことばをはっきりとおもいだし)

毛頭御座いません」と仰有ったお母様のお言葉をハッキリと思い出し

(ながら・・・。けれども、そのうちにへやのなかがまっくらになってしまったのにきが)

ながら・・・。けれども、そのうちに室の中が真暗になってしまったのに気が

(つきますと、わたしはやっときをとりなおしました。つくえのはしにおきましたこらむぷに)

つきますと、私はやっと気を取り直しました。机の端に置きました小ラムプに

(ひをつけまして、ふるえるゆびでもくじにありましたあなたさまのかんそうだんのところを)

火をつけまして、ふるえる指で目次にありました貴方様の感想談のところを

(ひらいてみましたが、それをよんでいきますうちにわたしは、もういまにもこえをたてて)

開いて見ましたが、それを読んで行きますうちに私は、もう今にも声を立てて

(なきたいようになりましたのを、そでをかみしめかみしめてやっとがまんしとおした)

泣きたいようになりましたのを、袖を噛みしめ噛みしめてやっと我慢し通した

(ことでございました。それはこんどのついぜんこうぎょうにつきまして、あなたさまがざっしきしゃに)

ことで御座いました。それは今度の追善興行につきまして、貴方様が雑誌記者に

(おもらしになったごかんそうのおはなしでしたが、そのときにおしゃしんといっしょにきりぬいて)

お洩らしになった御感想のお話でしたが、その時にお写真と一緒に切り抜いて

(たいせつにしまっておりましたのをここにはさんでおきます。ふるいことでございますから)

大切に仕舞っておりましたのをここに挟んでおきます。古い事で御座いますから

(もうおわすれになっているかもしれぬとぞんじまして・・・。)

もうお忘れになっているかも知れぬと存じまして・・・。

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