夢野久作 押絵の奇蹟⑲/⑲(終)
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問題文
(ああ。わたしは、どういたしたらよろしいのでございましょう。せけんではわたしをあなたの)
ああ。私は、どう致したらよろしいので御座いましょう。世間では私を貴方の
(おとうさまのおちすじをひいたものとしんじきっているのでございます。もしおにいさまと)
お父様のお血すじを引いたものと信じ切っているので御座います。もしお兄様と
(わたしとがごいっしょになるようなことになりましたならば、せけんのひとはなんというで)
私とが御一緒になるような事になりましたならば、世間の人は何と云うで
(ございましょう。きっとあのいまわしいきょうだいのこいとして、そのままには)
御座いましょう。キットあの忌まわしい兄妹の恋として、そのままには
(ゆるさないでございましょう。おにいさまとわたしとがほんとのきょうだいでないというしょうこに、)
許さないで御座いましょう。お兄様と私とがホントの兄妹でないという証拠に、
(あのふるいしょもつのおはなしをれいにひきましてもしんじてくださるかたがなんにんおられるで)
あの古い書物のお話を例に引きましても信じて下さる方が何人居られるで
(しょう。またはくしだじんじゃのえまどうにかかっておりますふたつのおしえのにんぎょうがなんの)
しょう。又は櫛田神社の絵馬堂にかかっております二つの押絵の人形が何の
(しょうこになりましょう。かえっておにいさまとわたしとをよにものろわれただんじょにしてしまう)
証拠になりましょう。却ってお兄様と私とを世にも呪われた男女にしてしまう
(やくにしかたたないでございましょう。そればかりでなく、そのときのわたしにはこんな)
役にしか立たないで御座いましょう。そればかりでなく、その時の私にはこんな
(こともかんがえられたのでございました。おにいさまはほんとうはもうずっとまえから、)
事も考えられたので御座いました。お兄様はホントウはもうズット前から、
(おとうさまにこのおはなしをおききになっているのではないかしら・・・このことについて)
お父様にこのお話をお聞きになっているのではないかしら・・・この事について
(わたしよりもずっとくわしくごぞんじなので、それをおもてむきにはかくしておいでになり)
私よりもずっと詳しく御存じなので、それを表向きには隠しておいでになり
(ながら、おこころのうちではやっぱりわたしとおなじようなおもいになやんでおいでになるの)
ながら、お心のうちではやっぱり私と同じような思いに悩んでおいでになるの
(ではないかしら。おんなぎらいというひょうばんをへいきでたてとおしておいでになりますのも、)
ではないかしら。女嫌いという評判を平気で立て通しておいでになりますのも、
(そんなおこころもちからでたことで、ほんとうはひとしれず、わたしのことをおもっておいでに)
そんなお心持ちから出た事で、ホントウは人知れず、私の事を思っておいでに
(なるのではないかしら・・・わたしのことをいろいろとおさぐりになっているのではない)
なるのではないかしら・・・私の事を色々とお探りになっているのではない
(かしら・・・。そうしてまんにひとつおにいさまがわたしをおみつけになりましたときに、)
かしら・・・。そうして万に一つお兄様が私をお見付けになりました時に、
(とのがたのきづよいおこころから、そんなことはちっともかまわぬとおっしゃって、すぐにもただいまの)
殿方の気強いお心から、そんな事はちっとも構わぬと仰有って、直ぐにも只今の
(ごめいよちいをおふりすてになってわたしをすくいにおいでになるようなことがありは)
御名誉地位をお振り棄てになって私を救いにお出でになるような事がありは
(しまいかしら・・・。もしそのようなばあいになりましたら、わたしはどう)
しまいかしら・・・。もしそのような場合になりましたら、私はどう
(いたしましょう。このせなかからむねへぬけとおっておりますおそろしいきずあとを、わたしは)
致しましょう。この背中から胸へ抜けとおっております恐ろしい疵痕を、私は
(どうしておにいさまにおめにかけることができましょう。そうして、それをしも)
どうしてお兄様にお眼にかける事が出来ましょう。そうして、それをしも
(ごしょうちのうえで、おかまいにならぬとしましても、わたしはもうそのころから、いっしょうがいなおる)
御承知の上で、お構いにならぬとしましても、私はもうその頃から、一生涯治る
(みこみもございませぬなんびょうにとりつかれていることを、よくぞんじておりましたのを)
見込みも御座いませぬ難病に取りつかれている事を、よく存じておりましたのを
(どういたしましょう。わたしはこのびょうきをかくしとうございましたばっかりに、なにもかも)
どう致しましょう。私はこの病気を隠しとう御座いましたばっかりに、何もかも
(わすれて、いっしんにべんきょうをつづけておりましたのです。ただきもちばかりでいきて)
忘れて、一心に勉強を続けておりましたのです。ただ気持ちばかりで生きて
(おりましたのです。そうしてそんなようなきもちをもちつづけていきますうちに、)
おりましたのです。そうしてそんなような気持ちを持ち続けて行きますうちに、
(いつからともなく、なくなられましたわたしのおかあさまがいまわのきわにおのこしになった)
いつからともなく、亡くなられました私のお母様が今わの際にお残しになった
(あのなぞのおことばの、あとのはんぶんのいみをうっかりさとってしまっていたので)
あの謎のお言葉の、あとの半分の意味をウッカリ悟ってしまっていたので
(ございます。「わたしはふぎをいたしましたおぼえはもうとうございません。けれども)
御座います。「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません。けれども
(・・・このうえのおみやづかえはいたしかねます」ときっぱりおとうさまにおっしゃった、その)
・・・この上のお宮仕えは致しかねます」とキッパリお父様に仰有った、その
(おかあさまのおことばのなかには、そのときのおかあさまが、やはりわたしとおなじようなびょうきに)
お母様のお言葉の中には、その時のお母様が、やはり私と同じような病気に
(かかってわたしとおなじようなきもちでおしごとにねっちゅうしておいでになった、ぜつぼうてきな)
かかって私と同じような気持ちでお仕事に熱中しておいでになった、絶望的な
(おこころもちがたえられぬほどいたいたしくいっぱいにこもっていたにちがいありませぬことを、)
お心持ちが堪えられぬ程痛々しく一パイに籠っていたに違いありませぬ事を、
(みにしみじみさとっていたのでございます。なにをおかくしいたしましょう。わたしのうちは)
身にしみじみ悟っていたので御座います。何をお隠し致しましょう。私の家は
(だいだいこうしたびょうきにのろわれておりましたためにえんぐみをするものがないといっても)
代々こうした病気に呪われておりましたために縁組をするものがないと云っても
(よかったのでございます。ですからおかあさまは、ただわたしひとりがこうふくになりますよう)
よかったので御座います。ですからお母様は、ただ私一人が幸福になりますよう
(に・・・そうしてわたしひとりのこうふくをおまもりになりたいために、あのようなおことばを)
に・・・そうして私一人の幸福をお守りになりたいために、あのようなお言葉を
(のこされて、よをおはやめになったものとしかかんがえられないのでございます。その)
残されて、世をお早めになったものとしか考えられないので御座います。その
(おかあさまとおなじびょうどくでいっぱいになっておりますこのからだを、どうしておわかい)
お母様と同じ病毒で一パイになっておりますこの身体を、どうしてお若い
(ごびょうしんのおにいさまにささげることができましょう。そのためにおにいさまのごめいよと)
御病身のお兄様に捧げる事が出来ましょう。そのためにお兄様の御名誉と
(げいじゅつとをすてていただくことが、どうしてできましょう。そうおもいますたびにわたしのむねは、)
芸術とを捨てて頂く事が、どうして出来ましょう。そう思います度に私の胸は、
(いつもはりさけるようになりました。ふいてもふいてもおちるなみだをぴあのの)
いつも張り裂けるようになりました。拭いても拭いても落ちる涙をピアノの
(きーのうえからはらいのけながら、そっとふたをおろしまして、そのつめたいいたのうえに、)
キーの上から払い除けながら、ソッと蓋を下しまして、その冷たい板の上に、
(ねつのあるほおをしみじみとおしつけましたことがいくたびでございましたろう。)
熱のある頬をシミジミと押し付けました事が幾度で御座いましたろう。
(けれどもおにいさま。わたしはもうただいまとなりましてはなにもかもわからなくなって)
けれどもお兄様。私はもう只今となりましては何もかもわからなくなって
(しまいました。ただ・・・おにいさまがこのてがみをごらんになりましたならば、)
しまいました。ただ・・・お兄様がこの手紙を御覧になりましたならば、
(すべてがすっかりおわかりになりますことと・・・そればかりをこころだのみにいたし)
すべてがスッカリおわかりになります事と・・・そればかりを心頼みに致し
(まして、ようようにここまでしたためてきたのでございます。それは)
まして、ようようにここまで認(したた)めて来たので御座います。それは
(なぜかともうしますと、おにいさまはもしや、おにいさまのほんとうのおかあさまをごぞんじなのでは)
何故かと申しますと、お兄様はもしや、お兄様の本当のお母様を御存じなのでは
(ないかとおもわれますからでございます。そうして、それといっしょに、おとうさまの)
ないかと思われますからで御座います。そうして、それと一緒に、お父様の
(ごびょうきのほんとのげんいんもごぞんじになっていることとおもわれますからでございます。)
御病気のホントの原因も御存じになっている事と思われますからで御座います。
(そうしてまた、もしも、そんなことがございませんで、おにいさまはそのようなことに)
そうして又、もしも、そんな事が御座いませんで、お兄様はそのような事に
(ついてほんとうになにひとつごぞんじないものとしますれば、あなたのおとうさまは、やはり)
ついてホントウに何一つ御存じないものとしますれば、貴方のお父様は、やはり
(わたしのおかあさまとおんなじように、ただひとつのこいをおむねにひめられたまま・・・)
私のお母様とおんなじように、唯一つの恋をお胸に秘められたまま・・・
(おにいさまにもおあかしにならないまま・・・このうえもなくけだかいいっしょうをおおくりに)
お兄様にもお明かしにならないまま・・・この上もなく気高い一生をお送りに
(なったおかたにちがいございませぬことが、たやすくおさっしできるからでございます。)
なったお方に違い御座いませぬ事が、たやすくお察し出来るからで御座います。
(どうぞおゆるしくださいませ。ごびょうきのおりからをもかまいませず、おんなごころのせつなさに、)
どうぞおゆるし下さいませ。御病気の折柄をも構いませず、女心の切なさに、
(こんなにながながとしたことをおめにかけましてさぞかしおよみづらくて)
こんなに長々とした事をお眼にかけまして 嘸(さぞ)かしお読みづらくて
(おつかれのこととぞんじます。けれどもこのことをおうちあけして、ほんとのことを)
お疲れの事と存じます。けれどもこの事をお打ち明けして、ホントの事を
(はんだんしていただくおかたはこのよにおにいさまおひとりしか、おいでにならないので)
判断して頂くお方はこの世にお兄様お一人しか、おいでにならないので
(ございます。わたしはもう、このようなひみつをむねにひめておりますちからがなくなり)
御座います。私はもう、このような秘密を胸に秘めております力がなくなり
(ましたのでございます。ただひとり、おにいさまのおこころにおすがりするよりほかにいたしかたが)
ましたので御座います。唯一人、お兄様のお心にお縋りするよりほかに致し方が
(なくなったのでございます。おにいさま、もしおにいさまが、ほんとうにわたしのおにいさまで)
なくなったので御座います。お兄様、もしお兄様が、ホントウに私のお兄様で
(おいでになりますならばわたしはおにいさまのただひとりのいもうととして、いのちにかえてもおねがい)
おいでになりますならば私はお兄様のただ一人の妹として、命にかえてもお願い
(いたします。かんごふさんたちの、それとないおはなしをききますと、おにいさまは、)
致します。看護婦さんたちの、それとないお話を聞きますと、お兄様は、
(そののちたいへんにおぐあいがよろしいとのことで、それだけうけたまわりましただけでもじぶんの)
その後大変にお工合がよろしいとの事で、それだけ承りましただけでも自分の
(びょうきがうすらいでいくようにこころづようございます。どうぞどうぞこのうえにもよく)
病気が薄らいで行くように心強う御座います。どうぞどうぞこの上にもよく
(おなりあそばして、すっかりもとのようにおなりあそばすまでは、わたしのことを)
おなり遊ばして、スッカリもとのようにおなり遊ばすまでは、私の事を
(できるだけおわすれくださいまして、おこころしずかにごようじょうなすってくださいませ。わたしは)
出来るだけお忘れ下さいまして、お心静かに御養生なすって下さいませ。私は
(そればかりをこころだのみにいたしましてこのびょういんでおてあてをうけております。)
そればかりを心頼みに致しましてこの病院でお手当てを受けております。
(そうしていきておりますうちに、ただひとめでも、おにいさまのおじょうぶなおすがたを)
そうして生きておりますうちに、ただ一眼でも、お兄様のお丈夫なお姿を
(はいけんしたいとそればかりをかみさまにおいのりいたしております。わたしはもうこのよの)
拝見したいとそればかりを神様にお祈り致しております。私はもうこの世の
(なかで、おにいさまのことをかんがえるよりほかにはなんのたのしみもなくなっているので)
中で、お兄様の事を考えるよりほかには何の楽しみもなくなっているので
(ございますから・・・。けれどももしかして、まだおにいさまがごじょうぶなごじゆうな)
御座いますから・・・。けれどももしかして、まだお兄様が御丈夫な御自由な
(おからだにおなりになりませぬうちに、わたしがなくなりますようなことがございました)
お身体におなりになりませぬうちに、私が亡くなりますような事が御座いました
(ならば、すみませぬがただいちどでよろしうございますからわたしのおはかにおまいり)
ならば、済みませぬが唯一度でよろしう御座いますから私のお墓にお参り
(くださいまして、おできになりますことならおおくのはなよりも、あのはなしょうぶを)
下さいまして、お出来になります事なら多くの花よりも、あの花菖蒲を
(おたむけになってくださいませ。おかあさまがおきられになったときに、おざしきのまえに)
お手向けになって下さいませ。お母様がお斬られになった時に、お座敷の前に
(さいておりましたおもいでのはなでございますから・・・。どうぞどうぞおねがい)
咲いておりました思い出の花で御座いますから・・・。どうぞどうぞお願い
(いたします。けっしてごむりをなさいませぬように・・・そんなことをあそばしたことが)
致します。決して御無理をなさいませぬように・・・そんな事を遊ばした事が
(わかりましたならば、わたしは、そのうえのごむりをおさせもうしませんようにかくご)
わかりましたならば、私は、その上の御無理をおさせ申しませんように覚悟
(いたしているのでございますから・・・。せめて、おにいさまだけでも、ごぶじに)
致しているので御座いますから・・・。せめて、お兄様だけでも、御無事に
(このよにいきのこっていただきまして、おかあさまのげいじゅつをこのよにあらわしてくださいます)
この世に生き残って頂きまして、お母様の芸術をこの世にあらわして下さいます
(ようにと、そればかりをおいのりしているのでございますから・・・。けれども)
ようにと、そればかりをお祈りしているので御座いますから・・・。けれども
(もしそうでございませんでしたならば、おにいさまとわたしとが、ちをわけたきょうだいで)
もしそうで御座いませんでしたならば、お兄様と私とが、血を分けた兄妹で
(ございませんでしたならば・・・ほんとうにあなたのおとうさまと、わたしのおかあさまの、)
御座いませんでしたならば・・・ホントウに貴方のお父様と、私のお母様の、
(せつないおこころのかたみでございましたならば・・・。ああ・・・わたしはどういたしま)
切ないお心の形見で御座いましたならば・・・。ああ・・・私はどう致しま
(しょう・・・。あなたのおとうさまと、わたしのおかあさまのこいは、よにもうえなくせいじょうなもので)
しょう・・・。貴方のお父様と、私のお母様の恋は、世にも上なく清浄なもので
(ございました。そうしてえいきゅうにけだかいものでございました。どうぞどうぞ)
御座いました。そうして永久に気高いもので御座いました。どうぞどうぞ
(おにいさまとわたしのこいも、そのようにいつまでもけだかく、せいじょうに、かなしくておわります)
お兄様と私の恋も、そのようにいつまでも気高く、清浄に、悲しくて終わります
(ように・・・。いまいちどおめにかかりたい・・・とおもいますと、わたしはまたしても)
ように・・・。今一度お眼にかかりたい・・・と思いますと、私は又しても
(くるおしいここちにせめられます。けれども、このようなおもいすらも、おふたかたのこいの)
狂おしい心地にせめられます。けれども、このような思いすらも、お二方の恋の
(けだかさにくらべますと、おはずかしい、けがらわしいもののようにおもわれ)
気高さに比べますと、お恥かしい、汚らわしいもののように思われ
(まして・・・。おもいがみだれまして、もうふでがすすみませぬ。)
まして・・・。思いが乱れまして、もう筆が進みませぬ。
(おなごりおしうぞんじます。あらあらかしこ)
お名残り惜しう存じます。 あらあらかしこ
(めいじさんじゅうごねんさんがつにじゅうくにちいのぐちとしこより)
明治三十五年三月二十九日 井ノ口トシ子より
(ひしだしんたろうさまみもとに)
菱田新太郎様 みもとに