山本周五郎 赤ひげ診療譚 狂女の話 9

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プレイ回数1025難易度(4.5) 5027打 長文 長文モード可
映画でも有名な、山本周五郎の傑作短編です。
長崎から江戸へ帰ってきた青年医師保本登は、小石川養生所で働くことになるが…。

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問題文

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(のぼるはくらがりのなかでおすぎをみた。「そういうことはしらなかった」とかれはいった、) 登は暗がりの中でお杉を見た。「そういうことは知らなかった」と彼は云った、 (「ーーつがわはなにをしたんだ」「そんなこといえませんわ」) 「ーー津川はなにをしたんだ」「そんなこと云えませんわ」 (「いいか、おすぎさん」とかれはあらたまったちょうしでいった、) 「いいか、お杉さん」と彼は改まった調子で云った、 (「わたしはいしゃだし、あたらしいいじゅつをまなんできたにんげんだ、くわしいしょうじょうがわかれば、) 「私は医者だし、新らしい医術をまなんで来た人間だ、詳しい症状がわかれば、 (あかひげとはべつなちりょうほうがあるかもしれない、はなしてみるだけでも、) 赤髯とはべつな治療法があるかもしれない、話してみるだけでも、 (むだじゃあないとおもわないか」おすぎもかれをみかえした、) むだじゃあないと思わないか」お杉も彼を見返した、 (「まじめにそうおっしゃるのね」「わたしのことはよくしっているはずだ」) 「まじめにそう仰しゃるのね」「私のことはよく知っている筈だ」 (「よってさえいらっしゃらなければね」とおすぎはいった、) 「酔ってさえいらっしゃらなければね」とお杉は云った、 (「ようございます、このつぎのときにすっかりおはなしもうしますわ」) 「ようございます、この次のときにすっかりお話し申しますわ」 (「どうしていまはなさないんだ」のぼるはおすぎのてをつかもうとした。) 「どうしていま話さないんだ」登はお杉の手をつかもうとした。 (おすぎはそのてをさけてたちあがり、くすっとしのびわらいをしながらいった。) お杉はその手を避けて立ちあがり、くすっと忍び笑いをしながら云った。 (「そういうことをなさるからよ」「それとこれとはべつだ」) 「そういうことをなさるからよ」「それとこれとはべつだ」 (のぼるはすばやくたっておすぎをだいた。) 登はすばやく立ってお杉を抱いた。 (おすぎはじっとしていた。のぼるはかたてをおすぎのせ、かたてをかたにまわしてだきしめた。) お杉はじっとしていた。登は片手をお杉の背、片手を肩にまわして抱き緊めた。 (「おれがすきなんだろう」「あなたは」とおすぎがききかえした。) 「おれが好きなんだろう」「あなたは」とお杉が訊き返した。 (「すきさ」といいざま、のぼるはじぶんのくちびるでつよくおすぎのくちびるをふさいだ、) 「好きさ」と云いざま、登は自分の唇でつよくお杉の唇をふさいだ、 (「すきだよ」おすぎのからだからちからがぬけ、やわらかくおもたくなるのがかんじられた。) 「好きだよ」お杉の躯から力がぬけ、柔らかく重たくなるのが感じられた。 (のぼるはこしかけのほうへひきもどそうとした。) 登は腰掛のほうへ引き戻そうとした。 (すると、おすぎはかれのうでからすりぬけ、しのびわらいをしながらうしろへとびのいた。) すると、お杉は彼の腕からすりぬけ、忍び笑いをしながらうしろへとびのいた。 (「いや、そんなことをなさるあなたはきらいよ」とおすぎがいった、) 「いや、そんなことをなさるあなたは嫌いよ」とお杉が云った、
など
(「おやすみなさい」「かってにしろ」とかれはいった。) 「おやすみなさい」「勝手にしろ」と彼は云った。 (それからごろくにちおすぎにあわなかった。もうさんがつちゅうじゅんになっていただろう、) それから五六日お杉に逢わなかった。もう三月中旬になっていただろう、 (しょないにあるさくらはどれもさきさかり、さいえんのほうでもやくようのきやくさきが、) 所内にある桜はどれも咲きさかり、栽園のほうでも薬用の木や草木が、 (おそいのもすっかりめをのばしていたし、はやいものははなをさかせており、) おそいのもすっかり芽を伸ばしていたし、早いものは花を咲かせており、 (かぜがわたると、それらのはなのつよいにおいで、くうきがおもくかんじられるようであった。) 風がわたると、それらの花の強い匂いで、空気が重く感じられるようであった。 (ーーひるめしのあとで、のぼるがやくえんのほうへあるいていくと、) ーー午(ひる)めしのあとで、登が薬園のほうへ歩いていくと、 (せんたくのもどりのおすぎにあった。すこしはなれてあるきながら、) 洗濯の戻りのお杉に会った。少しはなれて歩きながら、 (どうしてばんにこないのかときくと、かぜをひいたのだと、おすぎはこたえた。) どうして晩に来ないのかと訊くと、風邪をひいたのだと、お杉は答えた。 (もうよくなったから、こんやはゆくつもりだったといったが、) もうよくなったから、今夜はゆくつもりだったと云ったが、 (そういいながらもかるいせきをするし、すっかりこえをからしていた。) そう云いながらも軽い咳をするし、すっかり声を嗄(か)らしていた。 (「まだせきがでるじゃないか」とかれがいった、) 「まだ咳が出るじゃないか」と彼が云った、 (「だいじにするほうがいい、こんやでなくったっていいんだよ」) 「大事にするほうがいい、今夜でなくったっていいんだよ」 (おすぎはびしょうしながらなにかいった。「よくきこえない」とかれはすこしちかよった、) お杉は微笑しながらなにか云った。「よく聞えない」と彼は少し近よった、 (「どうしたって」「こんやうかがいます」とおすぎがこたえた。) 「どうしたって」「今夜うかがいます」とお杉が答えた。 (「むりをするな、くすりはのんでいるのか」) 「むりをするな、薬はのんでいるのか」 (「ええ、きょじょうせんせいからいただいています」) 「ええ、去定先生からいただいています」 (「むりをしないほうがいい」とかれはいった、) 「むりをしないほうがいい」と彼は云った、 (「わたしがのどのらくになるくすりをつくってやろう」おすぎはびしょうしながらうなずいた。) 「私が喉の楽になる薬をつくってやろう」お杉は微笑しながらうなずいた。 (そのひ、しょくどうでゆうめしをたべていると、のぼるにきゃくだとげんかんからしらせてきた。) その日、食堂で夕めしを食べていると、登に客だと玄関から知らせて来た。 (きょじょうはがいしゅつしてまだかえらず、もりはんだゆうはしらんかおをしていた。) 去定は外出してまだ帰らず、森半太夫は知らん顔をしていた。 (しょくじちゅうにたつことはきんじられているので、のぼるはどんなきゃくだとといかえした。) 食事ちゅうに立つことは禁じられているので、登はどんな客だと問い返した。 (すると、きゃくはまだわかいむすめで、なはあまのまさをだというへんじだった。) すると、客はまだ若い娘で、名は天野まさをだという返辞だった。 (ーーあまの、まさを。のぼるはそのなにはっきりしたきおくがなかった。) ーー天野、まさを。登はその名にはっきりした記憶がなかった。 (けれどもすぐにけんとうがついた。ちぐさにいもうとがひとりあった、まだほんのしょうじょで、) けれどもすぐに見当がついた。ちぐさに妹が一人あった、まだほんの少女で、 (かおもほとんどおぼえていないが、せいがあまのであり、) 顔も殆んど覚えていないが、姓が天野であり、 (ここへじぶんをたずねてきたとすると、そのいもうとにちがいないとおもった。) ここへ自分を訪ねて来たとすると、その妹にちがいないと思った。 (ーーたぶんあのしょうじょだろう。だがなんのためにきたのか、とのぼるはいぶかった。) ーーたぶんあの少女だろう。だがなんのために来たのか、と登は訝った。 (じぶんのいしできたのか、それともだれかのさしがねか、) 自分の意志で来たのか、それとも誰かのさしがねか、 (まるですいさつすることもできなかったし、) まるで推察することもできなかったし、 (うっかりあってはいけないというきがした。) うっかり会ってはいけないという気がした。 (「へやにいないといってくれ」とのぼるはとりつぎのものにいった、) 「部屋にいないと云ってくれ」と登は取次の者に云った、 (「わたしはあわないから、でんごんがあったらきいておいてくれ」) 「私は会わないから、伝言があったら聞いておいてくれ」 (しょくじがおわったとき、とりつぎのものがきた。) 食事が終ったとき、取次の者が来た。 (ぜひあいたいからまっているといったが、いまかえっていった。) ぜひ会いたいから待っていると云ったが、いま帰っていった。 (でんごんはなく、またくるといった、ということであった。) 伝言はなく、また来ると云った、ということであった。 (このもんどうを、むこうでもりはんだゆうがきいていた。) この問答を、向うで森半太夫が聞いていた。 (ちゃをすすりながら、はんだゆうがさりげなくきいていることをのぼるはみとめ。) 茶を啜りながら、半太夫がさりげなく聞いていることを登は認め。 (らんぼうにたちあがってしょくどうをでた。のぼるはえんぷのきちたろうにさけをかわせた。) 乱暴に立ちあがって食堂を出た。登は園夫の吉太郎に酒を買わせた。 (やせてひょろながいからだの、きのよわい、そのどもりのわかものは、かいにいくのをしぶった。) 痩せてひょろ長い躯の、気の弱い、その吃りの若者は、買いにいくのを渋った。 (ーーこうたびたびでは、いまにみつかってしかられる、といいたかったらしい。) ーーこうたびたびでは、いまにみつかって叱られる、と云いたかったらしい。 (だがひどいどもりで、なかなかおもうようにくちがきけないし、のぼるがどなりつけると、) だがひどい吃りで、なかなか思うように口がきけないし、登がどなりつけると、 (へいこうして、あたまをかきながらでていった。) 閉口して、頭を掻きながら出ていった。 (「いもうとむすめなどをよこして、こんどはなにをたくらもうというんだ」) 「妹娘などをよこして、こんどはなにを企もうというんだ」 (とかれはひとりでつぶやいた、) と彼は独りでつぶやいた、 (「やってみろ、こんどはそううまくだまされはしないぞ」さけがくると、) 「やってみろ、こんどはそううまく騙されはしないぞ」酒が来ると、 (のぼるはそれをひやでのみ、かなりよってから、のこりをとっくりのままもってでた。) 登はそれを冷で飲み、かなり酔ってから、残りを徳利のまま持って出た。 (きおんのたかいよるでくもっているのだろう、そらにはつきもなく、ほしもみえなかった。) 気温の高い夜で曇っているのだろう、空には月もなく、星も見えなかった。 (くうきはつちのにおいとはなのかおりとで、かすかにあまく、おもたくしめっており、) 空気は土の匂いと花の薫りとで、かすかにあまく、重たく湿っており、 (それがときをきってつよくにおうようにかんじられた。) それがときをきって強く匂うように感じられた。 (くらいのと、よっていたからだろう、かれはこしかけのまえをしらずにとおりすぎて、) 暗いのと、酔っていたからだろう、彼は腰掛の前を知らずにとおりすぎて、 (うしろからおすぎによびとめられた。) うしろからお杉に呼びとめられた。 (「きていたのか」といいながら、かれはそっちへもどった。) 「来ていたのか」と云いながら、彼はそっちへ戻った。 (「おじょうさんがねましたから」) 「お嬢さんが寝ましたから」 (とおすぎがようやくききとれるほどのしゃがれごえでいった、) とお杉がようやく聞きとれるほどのしゃがれ声で云った、 (「ーーどうなさいました」「つまずいたんだ」) 「ーーどうなさいました」「つまずいたんだ」 (かれはちょっとよろめいて、どしんとこしかけにかけた、) 彼はちょっとよろめいて、どしんと腰掛に掛けた、 (「ここへこいよ」おすぎははなれてこしをかけ、なにかいった。) 「ここへ来いよ」お杉ははなれて腰を掛け、なにか云った。 (「きこえない」とかれはくびをふった、) 「聞えない」と彼は首を振った、 (「そのこえじゃあきこえやしない、もっとこっちへこいよ」おすぎはすこしすりよった。) 「その声じゃあ聞えやしない、もっとこっちへ来いよ」お杉は少しすり寄った。 (「さあこれ」とかれはたもとからくすりぶくろをだしておすぎにわたした、) 「さあこれ」と彼は袂から薬袋を出してお杉に渡した、 (「せんじてのむんだ、せんじかたはかいてある、これでのどはらくになるはずだ」) 「煎じてのむんだ、煎じ方は書いてある、これで喉は楽になる筈だ」 (おすぎはれいをのべてからいった、「おさけをもっていらしったんですか」) お杉は礼を述べてから云った、「お酒を持っていらしったんですか」 (「ほんのひととくちさ、のみのこりだ」「あたしももってきました」) 「ほんの一と口さ、飲み残りだ」「あたしも持って来ました」 (「なんだって」かれはおすぎのほうへみみをよせた。) 「なんだって」彼はお杉のほうへ耳をよせた。 (「あなたのふくべ」とおすぎはいって、もっているふくべをみせた、) 「あなたの瓠(ふくべ)」とお杉は云って、持っている瓠を見せた、 (「いつかあずかったままわすれていたふくべよ、) 「いつか預かったまま忘れていた瓠よ、 (おじょうさんのあがるおいしいおさけがあるので、すこしわけてもってきたんです」) お嬢さんのあがるおいしいお酒があるので、少し分けて持って来たんです」 (「ああ、えびづるそうのみでかもしたさけだろう」「ごぞんじなんですか」) 「ああ、えびづる草の実で醸(かも)した酒だろう」「ご存じなんですか」 (「あかひげがやくようにつくらせてるやつだ、) 「赤髯が薬用につくらせてるやつだ、 (いつかごへいのこやであじをみたことがあるよ」といってかれはふくべをうけとった、) いつか五平の小屋で味をみたことがあるよ」と云って彼は瓠を受取った、 (「しかしおまえがさけをもってきてくれるなんて、めずらしいじゃないか」) 「しかしおまえが酒を持って来てくれるなんて、珍らしいじゃないか」
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