有島武郎 或る女69
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問題文
(さんじゅう「ぼくがまいにちーーまいにちとはいわずまいじかんあなたにふでをとらないのは)
【三〇】 「僕が毎日ーー毎日とはいわず毎時間あなたに筆を執らないのは
(とりたくないからとらないのではありません。ぼくはいちにちあなたにかきつづけて)
執りたくないから執らないのではありません。僕は一日あなたに書き続けて
(いてもなおあきたらないのです。それはいまのぼくのきょうがいではゆるされないことです。)
いてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境涯では許されない事です。
(ぼくはあさからばんまできかいのごとくはたらかねばなりませんから。)
僕は朝から晩まで機械のごとく働かねばなりませんから。
(あなたがべいこくをはなれてからこのてがみはたぶんななかいめのてがみとしてあなたに)
あなたが米国を離れてからこの手紙はたぶん七回目の手紙としてあなたに
(うけとられるとおもいます。しかしぼくのてがみはいつまでもひまをぬすんですこしずつ)
受け取られると思います。しかし僕の手紙はいつまでも暇をぬすんで少しずつ
(かいているのですから、ぼくからいうとひににどもさんどもあなたにあてて)
書いているのですから、僕からいうと日に二度も三度もあなたにあてて
(かいてるわけになるのです。しかしあなたはあのあといっかいのおんしんもめぐんでは)
書いてるわけになるのです。しかしあなたはあの後一回の音信も恵んでは
(くださらない。)
くださらない。
(ぼくはくりかえしくりかえしいいます。たといあなたにどんなかしつどんなごびゅうが)
僕は繰り返し繰り返しいいます。たといあなたにどんな過失どんな誤謬が
(あろうとも、それをたえしのび、それをゆるすことにおいてはしゅきりすといじょうの)
あろうとも、それを耐え忍び、それを許す事においては主キリスト以上の
(にんたいりょくをもっているのをぼくはみずからしんじています。ごかいしてはこまります。ぼくが)
忍耐力を持っているのを僕は自ら信じています。誤解しては困ります。僕が
(いかなるひとにたいしてもかかるちからをもっているというのではないのです。)
いかなる人に対してもかかる力を持っているというのではないのです。
(ただあなたにたいしてです。あなたはいつでもぼくのひんせいをとうとくみちびいてくれます。)
ただあなたに対してです。あなたはいつでもぼくの品性を尊く導いてくれます。
(ぼくはあなたによってひとがどれほどあいしうるかをまなびました。あなたによって)
僕はあなたによって人がどれほど愛しうるかを学びました。あなたによって
(せけんでいうだらくとかざいあくとかいうものがどれほどまでかんようのよゆうがあるかを)
世間でいう堕落とか罪悪とかいうものがどれほどまで寛容の余裕があるかを
(まなびました。そうしてそのかんようによって、かんようするひとじしんがどれほどひんせいを)
学びました。そうしてその寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を
(とうやされるかをまなびました。ぼくはまたじぶんのあいをじょうじゅするためにはどれほどの)
陶冶されるかを学びました。僕はまた自分の愛を成就するためにはどれほどの
(ゆうしゃになりうるかをまなびました。これほどまでにぼくをかみのめにたかめてくださった)
勇者になりうるかを学びました。これほどまでに僕を神の目に高めてくださった
(あなたが、ぼくからまんいちにもうしなわれるというのはそうぞうができません。かみがそんな)
あなたが、僕から万一にも失われるというのは想像ができません。神がそんな
(しれんをひとのこにくだされるざんぎゃくはなさらないのをぼくはしんじています。そんなしれんに)
試練を人の子に下される残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練に
(たえるのはじんりきいじょうですから。いまのぼくからあなたがうばわれるというのは)
堪えるのは人力以上ですから。今の僕からあなたが奪われるというのは
(かみがうばわれるのとおなじことです。あなたはかみだとはいいますまい。しかし)
神が奪われるのと同じ事です。あなたは神だとはいいますまい。しかし
(あなたをとおしてのみぼくはかみをおがむことができるのです。)
あなたを通してのみ僕は神を拝む事ができるのです。
(ときどきぼくはじぶんでじぶんをあわれんでしまうことがあります。じぶんじしんだけのちからと)
時々僕は自分で自分をあわれんでしまう事があります。自分自身だけの力と
(しんこうとですべてのものをみることができたらどれほどこうふくでじゆうだろうと)
信仰とですべてのものを見る事ができたらどれほど幸福で自由だろうと
(かんがえると、あなたをわずらわさなければいっぽをふみだすちからをもかんじえないじぶんの)
考えると、あなたをわずらわさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の
(そくばくをのろいたくもなります。どうじにそれほどしたわしいそくばくはほかにないことを)
束縛を呪いたくもなります。同時にそれほど慕わしい束縛は他にない事を
(しるのです。そくばくのないところにじゆうはないといったいみであなたのそくばくは)
知るのです。束縛のない所に自由はないといった意味であなたの束縛は
(ぼくのじゆうです。)
僕の自由です。
(あなたはーーいったんぼくにてをあたえてくださるとやくそくなさったあなたは、ついに)
あなたはーーいったん僕に手を与えてくださると約束なさったあなたは、ついに
(ぼくをみすてようとしておられるのですか。どうしていっかいのおんしんもめぐんでは)
僕を見捨てようとしておられるのですか。どうして一回の音信も恵んでは
(くださらないのです。しかしぼくはしんじてうたがいません。よにもししんりがある)
くださらないのです。しかし僕は信じて疑いません。世にもし真理がある
(ならば、そしてしんりがさいごのしょうりしゃならばあなたはかならずぼくにかえってくださるに)
ならば、そして真理が最後の勝利者ならばあなたは必ず僕に還ってくださるに
(ちがいないと。なぜなれば、ぼくはちかいます。ーーしゅよこのしもべをみまもり)
違いないと。なぜなれば、僕は誓います。ーー主よこの僕(しもべ)を見守り
(たまえーーぼくはあなたをあいしていらいだんじてほかのいせいにこころをうごかさなかったことを。)
たまえーー僕はあなたを愛して以来断じて他の異性に心を動かさなかった事を。
(このせいいがあなたによってみとめられないわけはないとおもいます。)
この誠意があなたによって認められないわけはないと思います。
(あなたはじゅうらいくらいいくつかのかこをもっています。それがしらずしらずあなたの)
あなたは従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らずあなたの
(こうじょうしんをちゅうちょさせ、あなたをややぜつぼうてきにしているのではないのですか。もし)
向上心を躊躇させ、あなたをやや絶望的にしているのではないのですか。もし
(そうならあなたはぜんぜんごびゅうにおちいっているとおもいます。すべてのすくいはおもいきって)
そうならあなたは全然誤謬に陥っていると思います。すべての救いは思いきって
(そのなかからとびだすほかにはないのでしょう。そこにていたいしているのはそれだけ)
その中から飛び出すほかにはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけ
(あなたのくらいかこをくらくするばかりです。あなたはぼくにしんらいをおいてくださる)
あなたの暗い過去を暗くするばかりです。あなたは僕に信頼を置いてくださる
(ことはできないのでしょうか。じんるいのなかにすくなくもひとり、あなたのすべてのつみを)
事はできないのでしょうか。人類の中に少なくも一人、あなたのすべての罪を
(よろこんでわすれようとりょうてをひろげてまちもうけているもののあるのをしんじてくださる)
喜んで忘れようと両手を広げて待ち設けているもののあるのを信じてくださる
(ことはできないでしょうか。)
事はできないでしょうか。
(こんなくだらないりくつはもうやめましょう。)
こんな下らない理屈はもうやめましょう。
(さくやかいたてがみにつづけてかきます。けさはみるとんしのところからしきゅうにこいという)
昨夜書いた手紙に続けて書きます。けさハミルトン氏の所から至急に来いという
(でんわがかかりました。しかごのふゆはよきいじょうにさむいのです。せんだいどころのひでは)
電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比では
(ありません。ゆきはすこしもないけれども、いりーこをたごちほうからわたってくるかぜは)
ありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は
(みをきるようでした。ぼくはがいとうのうえにまたおおがいとうをかさねぎしていながら、かぜに)
身を切るようでした。僕は外套の上にまた大外套を重ね着していながら、風に
(むいたひふにしみとおるかぜのさむさをかんじました。はみるとんしのようというのは)
向いた皮膚にしみとおる風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用というのは
(らいねんせんとるいすにかいさいされるだいきぼなはくらんかいのきょうぎのためきゅうにそこに)
来年セントルイスに開催される大規模な博覧会の協議のため急にそこに
(おもむくようになったからどうこうしろというのでした。ぼくはりょこうのよういはなんらして)
赴くようになったから同行しろというのでした。僕は旅行の用意はなんらして
(いなかったが、ここにあめりかにずむがあるのだとおもってそのままどうこうすることに)
いなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行する事に
(しました。じぶんのへやのとにかぎもかけずにとびだしたのですから)
しました。自分の部屋の戸に鍵もかけずに飛び出したのですから
(ばびこっくはかせのおくさんはおどろいているでしょう。しかしさすがにべいこくです。)
バビコック博士の奥さんは驚いているでしょう。しかしさすがに米国です。
(きのみきのままここまできてもなにひとつふじゆうをかんじません。かまくらあたりまで)
着のみ着のままここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉あたりまで
(いくのにもひざかけからりょこうかばんまでよういしなければならないのですから、)
行くのにも膝かけから旅行カバンまで用意しなければならないのですから、
(にほんのぶんめいはまだなかなかのものです。ぼくたちはこのちにつくと、ていしゃばないの)
日本の文明はまだなかなかのものです。僕たちはこの地に着くと、停車場内の
(けしょうしつでひげをそり、くつをみがかせ、やかいにでてもはずかしくないしたくが)
化粧室で髭をそり、靴をみがかせ、夜会に出ても恥ずかしくないしたくが
(できてしまいました。そしてすぐきょうぎかいにしゅっせきしました。あなたもしって)
できてしまいました。そしてすぐ協議会に出席しました。あなたも知って
(おらるるとおりどいつじんのあのへんにおけるせいりょくはえらいものです。はくらんかいが)
おらるるとおりドイツ人のあのへんにおける勢力は偉いものです。博覧会が
(ひらけたら、われわれはべいこくにたいしてよりもむしろこれらのどいつじんにたいして)
開けたら、われわれは米国に対してよりもむしろこれらのドイツ人に対して
(きんこんいちばんするひつようがあります。らんちのときぼくははみるとんしにれいのにほんに)
緊褌一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本に
(かいしめてあるきものそのほかのはなしをもういちどしました。はくらんかいをまえにひかえて)
買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えて
(いるのではみるとんしもこんどはのりきになってくれまして、たかしまやとれんらくを)
いるのでハミルトン氏も今度は乗り気になってくれまして、高島屋と連絡を
(つけておくためにとにかくしなものをとりよせてじぶんのみせでさばかしてみようと)
つけておくためにとにかく品物を取り寄せて自分の店でさばかしてみようと
(いってくれました。これでぼくのざいせいはひじょうによゆうができるわけです。いままでみせが)
いってくれました。これで僕の財政は非常に余裕ができるわけです。今まで店が
(なかったばかりに、とりよせてもにやっかいだったものですが、はみるとんしのみせで)
なかったばかりに、取り寄せても荷厄介だったものですが、ハミルトン氏の店で
(とりあつかってくれればそうとうにうれるのはわかっています。そうなったらいままでと)
取り扱ってくれれば相当に売れるのはわかっています。そうなったら今までと
(ちがってあなたのほうにもたりないながらしおくりをしてあげることができましょう。)
違ってあなたのほうにも足りないながら仕送りをして上げる事ができましょう。
(さっそくでんぽうをうっていちばんはやいふなびんでとりよせることにしましたから)
さっそく電報を打っていちばん早い船便で取り寄せる事にしましたから
(ふじつちゃくにすることとおもっています。)
不日着荷する事と思っています。
(いまはよるもだいぶふけました。はみるとんしはこんやもきょうおうによばれて)
今は夜もだいぶふけました。ハミルトン氏は今夜も饗応に呼ばれて
(でかけました。だいきらいなてーぶる・すぴーちになやまされているでしょう。)
出かけました。大きらいなテーブル・スピーチになやまされているでしょう。
(はみるとんしはじつにしゃーぷなびじねすまんらいきなひとです。そしてねっしんな)
ハミルトン氏は実にシャープなビジネスマンライキな人です。そして熱心な
(せいとうはのしんこうをもったじぜんかです。ぼくはことのほかしんらいされちょうほうがられて)
正統派の信仰を持った慈善家です。僕はことのほか信頼され重宝がられて
(います。そこからぼくのらいふ・きゃりやあをふみだすのはだいなるりえきです。)
います。そこから僕のライフ・キャリヤアを踏み出すのは大なる利益です。
(ぼくのぜんとにはたしかにこうみょうがみえだしてきました。)
僕の前途には確かに光明が見え出してきました。
(あなたにかくことはていしなくかくことです。しかしあすのふんとうてきせいかつ(これはだいとうりょう)
あなたに書く事は底止なく書く事です。しかしあすの奮闘的生活(これは大統領
(るーずべるとのちょしょの”strenuouslife”をやくしてみたことば)
ルーズベルトの著書の”Strenuous Life”を訳してみた言葉
(です。いまこのことばはとうちのりゅうこうごになっています)にそなえるためにふでを)
です。今この言葉は当地の流行語になっています)に備えるために筆を
(とめねばなりません。このてがみはあなたにもよろこびをわけていただくことが)
止めねばなりません。この手紙はあなたにも喜びを分けていただく事が
(できるかとおもいます。)
できるかと思います。