有島武郎 或る女93

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順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 布ちゃん 5574 A 5.8 95.1% 933.9 5488 282 88 2024/04/18

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問題文

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(そのころからあのまさいというおとこがくらちのるすをうかがってはようこにあいに)

そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに

(くるようになった。「あいつはいぬだった。あやうくてをかませるところだった。)

来るようになった。「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。

(どんなことがあってもよせつけるではないぞ」とくらちがようこにいいきかせてから)

どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」と倉地が葉子にいい聞かせてから

(いっしゅうかんもたたないあとに、ひょっこりまさいがかおをみせた。なかなかの)

一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかの

(しゃれもので、すんぶんのすきもないみなりをしていたおとこが、どこかにひんきゅうを)

しゃれ者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮を

(におわすようになっていた。からーにはうっすりあせじみができて、ずぼんの)

におわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンの

(ひざにはやけこげのちいさなあながあいたりしていた。ようこがあげるあげないも)

膝には焼けこげの小さな孔が明いたりしていた。葉子が上げる上げないも

(いわないうちに、こんいずくらしくどんどんげんかんからあがりこんでざしきに)

いわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に

(とおった。そしてこうからしいせいようがしのうつくしいはこをようこのめのまえにふろしきから)

通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷から

(とりだした。「せっかくおいでくださいましたのにくらちさんはるすですから、)

取り出した。「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、

(はばかりですがでなおしておあそびにいらしってくださいまし。これはそれまで)

はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまで

(おあずかりおきをねがいますわ」そういってようこはかおにはいかにもこんいを)

お預かりおきを願いますわ」そういって葉子は顔にはいかにも懇意を

(みせながら、ことばにはにのくがつげないほどのれいたんさとつよさとをしめして)

見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示して

(やった。しかしまさいはしゃあしゃあとしてへいきなものだった。ゆっくり)

やった。しかし正井はしゃあしゃあとして平気なものだった。ゆっくり

(うちがくしからまきたばこいれをとりだして、きんぐちをいっぽんつまみとると、)

内衣嚢から巻煙草入れを取り出して、金口を一本つまみ取ると、

(すみのうえにたまったはいをしずかにかきのけるようにしてひをつけて、のどかに)

炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかに

(かおりのいいけむりをざしきにただよわした。「おるすですか・・・それはかえって)

香りのいい煙を座敷に漂わした。「お留守ですか・・・それはかえって

(こうつごうでした・・・もうなつらしくなってきましたね、となりのばらも)

好都合でした・・・もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇も

(さきだすでしょう・・・とおいようだがまだきょねんのことですねえ、おたがいさまに)

咲き出すでしょう・・・遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に

(たいへいようをいったりきたりしたのは・・・あのころがおもしろいさかりでしたよ。)

太平洋を行ったり来たりしたのは・・・あのころがおもしろい盛りでしたよ。

など

(わたしたちのしごともまだにらまれずにいたんでしたから・・・ときにおくさん」)

わたしたちの仕事もまだにらまれずにいたんでしたから・・・時に奥さん」

(そういっておりいってそうだんでもするようにまさいはたばこぼんをおしのけて)

そういって折り入って相談でもするように正井は煙草盆を押しのけて

(ひざをのりだすのだった。ひとをあなどってかかってくるとおもうとようこはぐっと)

膝を乗り出すのだった。人を侮ってかかって来ると思うと葉子はぐっと

(しゃくにさわった。しかしいぜんのようなようこはそこにはいなかった。)

癪にさわった。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。

(もしそれがいぜんであったら、じぶんのさいきとりきりょうとびぼうとにじゅうぶんのじしんを)

もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美貌とに充分の自信を

(もつようこであったら、けのすえほどもじぶんをうしなうことなく、ゆうえんにえんかつにおとこを)

持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失う事なく、優婉に円滑に男を

(じぶんのかけたわなのなかにおとしいれて、じじょうじばくのにがいめに)

自分のかけた陥穽(わな)の中におとしいれて、自縄自縛の苦い目に

(あわせているにちがいない。しかしげんざいのようこはたわいもなくてきを)

あわせているに違いない。しかし現在の葉子はたわいもなく敵を

(てもとまでもぐりこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。)

手もとまでもぐりこませてしまってただいらいらと焦るだけだった。

(そういうはめになるとようこはぞんがいちからのないじぶんであるのを)

そういう破目(はめ)になると葉子は存外力のない自分であるのを

(しらねばならなかった。)

知らねばならなかった。

(まさいはひざをのりだしてから、しばらくだまってびんしょうにようこのかおいろを)

正井は膝を乗り出してから、しばらく黙って敏捷に葉子の顔色を

(うかがっていたが、これならだいじょうぶとみきわめをつけたらしく、)

うかがっていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、

(「すこしばかりでいいんです、ひとつゆうずうしてください」ときりだした。)

「少しばかりでいいんです、一つ融通してください」と切り出した。

(「そんなことをおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは)

「そんな事をおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは

(ごぞんじじゃありませんか。そりゃよじんじゃなし、できるのならなんとか)

御存じじゃありませんか。そりゃ余人じゃなし、できるのならなんとか

(いたしますけれども、しまいさんにんがどうかこうかしてくらちにやしなわれている)

いたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている

(こんにちのようなきょうがいでは、わたしになにができましょう。)

今日(こんにち)のような境涯では、わたしに何ができましょう。

(まさいさんにもにあわないまとちがいをおっしゃるのね。くらちならごそうだんにも)

正井さんにも似合わない的違いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にも

(なるでしょうからめんとむかっておはなしくださいまし。なかにはいると)

なるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいると

(わたしがこまりますから」ようこはとりつくしまもないようにといやみなちょうしで)

わたしが困りますから」葉子は取りつく島もないようにと厭味な調子で

(ずけずけとこういった。まさいはせせらわらうようにほほえんできんぐちのはいを)

ずけずけとこういった。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を

(しずかにはいふきにおとした。「もうすこしざっくばらんにいってくださいよ)

静かに灰吹きに落とした。「もう少しざっくばらんにいってくださいよ

(きのうきょうのおつきあいじゃなし。くらちさんとまずくなったくらいは)

きのうきょうのお交際(つきあい)じゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは

(ごしょうちじゃありませんか。・・・しっていらっしってそういうくちのききかたは)

御承知じゃありませんか。・・・知っていらっしってそういう口のきき方は

(すこしひどすぎますぜ、(ここでかめんをとったようにまさいはふてくされた)

少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井はふてくされた

(たいどになった。しかしことばはどこまでもおんとうだった。)きらわれたって)

態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった。)きらわれたって

(わたしはなにもくらちさんをどうしようのこうしようのと、そんなはくじょうなことは)

わたしは何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情な事は

(しないつもりです。くらちさんにけががあればわたしだってどうざいいじょうですからね。)

しないつもりです。倉地さんにけががあればわたしだって同罪以上ですからね。

(・・・しかし・・・ひとつなんとかならないもんでしょうか」)

・・・しかし・・・一つなんとかならないもんでしょうか」

(ようこのいかりにこうふんしたしんけいはまさいのこのひとことにすぐおびえてしまった。)

葉子の怒りに興奮した神経は正井のこの一言にすぐおびえてしまった。

(なにもかもくらちのうらめんをしりぬいているはずのまさいが、すてばちになったら)

何もかも倉地の裏面を知り抜いているはずの正井が、捨てばちになったら

(くらちのみのうえにどんなさいなんがふりかからぬともかぎらぬ。)

倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。

(そんなことをさせてはとんだことになるだろう。)

そんな事をさせては飛んだ事になるだろう。

(そんなことをさせてはとんだことになる。)

そんな事をさせては飛んだ事になる。

(ようこはますますよわみになったじぶんをすくいだすすべにこうじはてていた。)

葉子はますます弱身になった自分を救い出す術に因(こう)じ果てていた。

(「それをごしょうちでわたしのところにいらしったって・・・たといわたしに)

「それを御承知でわたしの所にいらしったって・・・たといわたしに

(つごうがついたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼ)

都合がついた所で、どうしようもありませんじゃないの。なんぼ

(わたしだっても、くらちとなかたがえをなさったあなたにくらちのかねを)

わたしだっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金を

(なにする・・・」「だからくらちさんのものをおねだりはしませんさ。)

何する・・・」「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。

(きむらさんからもたんまりきているはずじゃありませんか。そのなかから)

木村さんからもたんまり来ているはずじゃありませんか。その中から

(・・・たんとあいいませんから、きゅうきょうをたすけるとおもってどうか」)

・・・たんとあいいませんから、窮境を助けると思ってどうか」

(まさいはようこをおとこたらしとみくびったたいどで、じょうふをもってるめかけにでも)

正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってる妾にでも

(せまるようなずうずうしいかおいろをみせた。こんなおしもんどうのけっかようこは)

逼るようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子は

(とうとうまさいにさんびゃくえんほどのかねをむざむざとせびりとられてしまった。)

とうとう正井に三百円ほどの金をむざむざとせびり取られてしまった。

(ようこはそのばんくらちがかえってきたときもそれをいいだすきりょくはなかった。)

葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれをいい出す気力はなかった。

(ちょきんはぜんぶさだこのほうにおくってしまって、ようこのてもとにはいくらも)

貯金は全部定子のほうに送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも

(のこってはいなかった。)

残ってはいなかった。

(それからというものまさいはいっしゅうかんとおかずにようこのところにきては)

それからというもの正井は一週間とおかずに葉子の所に来ては

(かねをせびった。まさいはそのおりおりに、えじままるのさるんのいちぐうに)

金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅(いちぐう)に

(じんどってさけとたばことにひたりながら、なにかしらんひそひそばなしをしていた)

陣取って酒と煙草とにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた

(すうにんのひとたちーーひとをみぬくめのするどいようこにもどうしてもそのひとたちの)

数人の人たちーー人を見抜く目の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの

(しょくぎょうをすいさつしえなかったすうにんのひとたちのなかまにくらちがはいってはじめだした)

職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始め出した

(ひみつなしごとのこさいをもらした。まさいがようこをおどかすために、)

秘密な仕事の巨細(こさい)をもらした。正井が葉子を脅かすために、

(そのはなしにはこちょうがくわえられている、そうおもってきいてみても、ようこのむねを)

その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸を

(ひやっとさせることばかりだった。くらちがにっしんせんそうにもさんかしたじむちょうで、)

ひやっとさせる事ばかりだった。倉地が日清戦争にも参加した事務長で、

(かいぐんのひとたちにもこうかいぎょうしゃにもわりあいにひろいこうさいがあるところから、ざいりょうの)

海軍の人たちにも航海業者にも割合に広い交際がある所から、材料の

(しゅうしゅうしゃとしてそのなかまのぎゅうじをとるようになり、ろこくやべいこくにむかって)

蒐集者としてその仲間の牛耳を取るようになり、露国や米国に向かって

(もらしたそこくのぐんじじょうのひみつはなかなかよういならざるものらしかった。)

もらした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。

(くらちのきぶんがすさんでいくのももっともだとおもわれるようなことがらを)

倉地の気分がすさんでいくのももっともだと思われるような事柄を

(かずかずようこはきかされた。ようこはしまいにはじぶんじしんをまもるためにも)

数々葉子は聞かされた。葉子はしまいには自分自身を護るためにも

(まさいのきげんをとりはずしてはならないとおもうようになった。そして)

正井のきげんを取りはずしてはならないと思うようになった。そして

(まさいのことばがいちごいちごおもいだされて、よるなぞになるとねむらせぬほどに)

正井の言葉が一語一語思い出されて、夜なぞになると眠らせぬほどに

(ようこをくるしめた。ようこはまたひとつのおもいひみつをせおわなければならぬじぶんを)

葉子を苦しめた。葉子はまた一つの重い秘密を背負わなければならぬ自分を

(みいだした。このつらいいしきはすぐにまたくらちにひびくようだった。)

見いだした。このつらい意識はすぐにまた倉地に響くようだった。

(くらちはともするとてきのかんちょうではないかとうたがうようなけわしいめでようこを)

倉地はともすると敵の間諜ではないかと疑うような険しい目で葉子を

(にらむようになった。)

にらむようになった。

(そしてふたりのあいだにはまたひとつのみぞがふえた。)

そして二人の間にはまた一つの溝が増えた。

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