有島武郎 或る女98
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問題文
(くらちもくらちでおなじようなことをおもってくるしんでいるらしい。)
倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。
(なんとかしてもとのようなかけへだてのないようこをみいだして、)
なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、
(だんだんとおちいっていくせいかつのきゅうきょうのなかにも、せめてはしばらくなりとも)
だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも
(にんげんらしいこころになりたいとおもって、ようこにちかづいてきているのだ。)
人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。
(それをどこまでもしりぬきながら、そしてみにつまされてふかいどうじょうを)
それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を
(かんじながら、どうしてもめんとむかうところしたいほどにくまないでは)
感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないでは
(いられないようこのこころはじぶんながらかなしかった。)
いられない葉子の心は自分ながら悲しかった。
(ようこはくらちのさいごのひとことでそのきゅうしょにふれられたのだった。)
葉子は倉地の最後の一言でその急所に触れられたのだった。
(ようこはくらちのめのまえでみるみるしおれてしまった。なくまいと)
葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと
(きばりながらいくどもおおしくなみだをのんだ。くらちはあきらかにようこのこころを)
気張りながら幾度も雄々しく涙をのんだ。倉地は明らかに葉子の心を
(かんじたらしくみえた。「ようこ!おまえはなんでこのごろそう)
感じたらしく見えた。「葉子! お前はなんでこのごろそう
(よそよそしくしていなければならんのだ。え?」といいながらようこのてを)
他所他所しくしていなければならんのだ。え?」といいながら葉子の手を
(とろうとした。そのしゅんかんにようこのこころはひのようにおこっていた。)
取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように怒っていた。
(「よそよそしいのはあなたじゃありませんか」そうしらずしらず)
「他所他所しいのはあなたじゃありませんか」そう知らず知らず
(いってしまって、ようこはもぎどうにてをひっこめた。くらちをにらみつける)
いってしまって、葉子は没義道に手を引っ込めた。倉地をにらみつける
(めからはあついおおつぶのなみだがぼろぼろとこぼれた。そして、)
目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、
(「ああ・・・あ、じごくだじごくだ」とこころのなかでぜつぼうてきにせつなくさけんだ。)
「ああ・・・あ、地獄だ地獄だ」と心の中で絶望的に切なく叫んだ。
(ふたりのあいだにはまたもやいまわしいちんもくがくりかえされた。)
二人の間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。
(そのときげんかんにあんないのこえがきこえた。ようこはそのこえをきいてことうがきたのを)
その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤が来たのを
(しった。そしておおいそぎでなみだをおしぬぐった。にかいからおりてきて)
知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て
(とりつぎにたったあいこがやがてろくじょうのまにはいってきて、ことうがきたと)
取り次ぎに立った愛子がやがて六畳の間にはいって来て、古藤が来たと
(つげた。「にかいにおとおししておちゃでもあげておおき、なんだっていまごろ・・・)
告げた。「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ・・・
(ごはんどきもかまわないで・・・」とめんどうくさそうにいったが、あれいらい)
御飯時も構わないで・・・」とめんどうくさそうにいったが、あれ以来
(きたことのないことうにあうのは、いまのこのくるしいあっぱくからのがれるだけでも)
来た事のない古藤に会うのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも
(つごうがよかった。このままつづいたらまたれいのほっさでくらちにあいそをつかされる)
都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想を尽かされる
(ようなことをしでかすにきまっていたから。「わたしちょっとあってみます)
ような事をしでかすにきまっていたから。「わたしちょっと会ってみます
(からね、あなたかまわないでいらっしゃい。きむらのこともさぐっておきたいから」)
からね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」
(そういってようこはそのざをはずした。くらちはへんじひとつせずにさかずきを)
そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を
(とりあげていた。)
取り上げていた。
(にかいにいってみると、ことうはれいのぐんぷくにじょうとうへいのけんしょうをつけて、あぐらを)
二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらを
(かきながらさだよとなにかはなしをしていた。ようこはいままでなきくるしんでいたとは)
かきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは
(おもえぬほどうつくしいきげんになっていた。かんたんなあいさつをすますとことうはれいの)
思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な挨拶を済ますと古藤は例の
(いうべきことからさきにいいはじめた。)
いうべき事から先にいい始めた。
(「ごめんどうですがね、あすていきけんえつなところがこんどはしつないのせいとんなんです。)
「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の整頓なんです。
(ところがぼくはせいとんぶろしきをせんたくしておくのをすっかりわすれてしまってね。)
ところが僕は整頓風呂敷を洗濯しておくのをすっかり忘れてしまってね。
(いまとくべつにがいしゅつをごちょうにそっとたのんでゆるしてもらって、これだけぬのをかって)
今特別に外出を伍長にそっと頼んで許してもらって、これだけ布を買って
(きたんですが、ふちをぬってくれるひとがないんでよわってかけつけたんです。)
来たんですが、縁を縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。
(おおいそぎでやっていただけないでしょうか」「おやすいごようですともね。あいさん!」)
大急ぎでやっていただけないでしょうか」「お安い御用ですともね。愛さん!」
(おおきくよぶとかいかにいたあいこがへいぜいににあわず、あたふたとはしごだんを)
大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生に似合わず、あたふたと階子段を
(のぼってきた。ようこはふとまたくらちをねんとうにうかべていやなきもちに)
のぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちに
(なった。しかしそのころさだよからあいこにあいがうつったかとおもわれるほど)
なった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど
(ようこはあいこをだいじにとりあつかっていた。それはまえにもかいたとおり、しいても)
葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても
(たにんにたいするあいじょうをころすことによって、くらちとのあいがよりかたくむすばれるという)
他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がより堅く結ばれるという
(めいしんのようなこころのはたらきからおこったことだった。あいしてもあいしたりないような)
迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような
(さだよにつらくあたって、どうしてもきのあわないあいこをむしをころしてだいじに)
貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事に
(してみたら、あるいはくらちのこころがかわってくるかもしれないとそうようこは)
してみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は
(なにがなしにおもうのだった。で、くらちとあいことのあいだにどんなきかいなちょうこうを)
何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を
(みつけだそうとも、ねんにかけてもようこはあいこをせめまいとかくごをしていた。)
見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。
(「あいさんことうさんがね、おおいそぎでこのふちをぬってもらいたいと)
「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの縁を縫ってもらいたいと
(おっしゃるんだから、あなたしてあげてちょうだいな。ことうさん、)
おっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、
(いましたにはくらちさんがきていらっしゃるんですが、あなたはおきらいね)
今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいね
(おあいなさるのは・・・そう、じゃこちらでおはなしでもしますからどうぞ」)
お会いなさるのは・・・そう、じゃこちらでお話しでもしますからどうぞ」
(そういってことうをいもうとたちのへやのとなりにあんないした。ことうはとけいをみいみい)
そういって古藤を妹たちの部屋の隣に案内した。古藤は時計を見い見い
(せわしそうにしていた。)
せわしそうにしていた。
(「きむらからたよりがありますか」きむらはようこのおっとではなくじぶんのしんゆうだと)
「木村から便りがありますか」木村は葉子の良人ではなく自分の親友だと
(いったようなふうで、ことうはもうきむらくんとはいわなかった。ようこはこのまえ)
いったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前
(ことうがきたときからそれときづいていたが、きょうはことさらそのこころもちが)
古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが
(めだってきこえた。ようこはたびたびくるとこたえた。)
目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。
(「こまっているようですね」「ええ、すこしはね」)
「困っているようですね」「ええ、少しはね」
(「すこしどころじゃないようですよぼくのところにくるてがみによると。なんでも)
「少しどころじゃないようですよ僕の所に来る手紙によると。なんでも
(らいねんにひらかれるはずだったはくらんかいがさらいねんにのびたので、きむらはまた)
来年に開かれるはずだった博覧会が再来年に延びたので、木村はまた
(このまえいじょうのきゅうきょうにおちいったらしいのです。わかいうちだからいいようなものの)
この前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなものの
(あんなふうんなおとこもすくない。かねもおくってはこないでしょう」)
あんな不運な男も少ない。金も送っては来ないでしょう」
(なんというぶしつけなことをいうおとこだろうとようこはおもったが、あまりいうことに)
なんという不躾な事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事に
(わだかまりがないのでひにくでもいってやるきにはなれなかった。)
わだかまりがないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。
(「いいえあいかわらずおくってくれますことよ」「きむらっていうのは)
「いいえ相変わらず送ってくれますことよ」「木村っていうのは
(そうしたおとこなんだ」ことうはなかばはじぶんにいうようにかんげきしたちょうしで)
そうした男なんだ」古藤は半ばは自分にいうように感激した調子で
(こういったが、へいきでしおくりをうけているらしくものをいうようこには)
こういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子には
(ひどくはんかんをもよおしたらしく、「きむらからのそうきんをうけとったとき、そのかねが)
ひどく反感を催したらしく、「木村からの送金を受け取った時、その金が
(あなたのてをやきただらかすようにはおもいませんか」とはげしくようこを)
あなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」と激しく葉子を
(まともにみつめながらいった。そしてあぶらでよごれたようなあかいてで、)
まともに見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、
(せわしなくむねのしんちゅうぼたんをはめたりはずしたりした。)
せわしなく胸の真鍮ボタンをはめたりはずしたりした。
(「なぜですの」「きむらはこまりきってるんですよ。・・・ほんとうにあなた)
「なぜですの」「木村は困りきってるんですよ。・・・ほんとうにあなた
(かんがえてごらんなさい・・・」いきおいこんでなおいいつのろうとしたことうは、)
考えてごらんなさい・・・」勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、
(ふすまをあけひらいたままのとなりのへやにあいこたちがいるのにきづいたらしく、)
襖を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、
(「あなたはこのまえおめにかかったときからすると、またひどくやせましたねえ」)
「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」
(とことばをそらした。)
と言葉をそらした。
(「あいさんもうできて?」とようこもちょうしをかえてあいこにとおくからこうたずね)
「愛さんもうできて?」と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね
(「いいえまだすこし」とあいこがいうのをしおにようこはそちらにたった。)
「いいえまだ少し」と愛子がいうのを潮に葉子はそちらに立った。
(さだよはひどくつまらなそうなかおをして、つくえにりょうひじをもたせたまま、)
貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両肘を持たせたまま、
(ぼんやりとにわのほうをみやって、さんにんのきょどうなどにはめもくれないふう)
ぼんやりと庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふう
(だった。かきねぞいのきのあいだからは、しゅじゅないろのばらのはながゆうやみのなかにも)
だった。垣根添いの木の間からは、種々な色の薔薇の花が夕闇の中にも
(ちらほらとみえていた。ようこはこのごろのさだよはほんとうにへんだと)
ちらほらと見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと
(おもいながら、あいこのぬいかけのぬのをとりあげてみた。それはまだ)
思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ
(はんぶんもぬいあげられてはいなかった。ようこのかんしゃくはぎりぎりつのって)
半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳癪はぎりぎり募って
(きたけれども、しいてこころをおししずめながら、「これっぽっち・・・)
来たけれども、しいて心を押ししずめながら、「これっぽっち・・・
(あいこさんどうしたというんだろう。どれねえさんにおかし、そして)
愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そして
(あなたは・・・さあちゃんもことうさんのところにいっておあいてを)
あなたは・・・貞(さあ)ちゃんも古藤さんの所に行ってお相手を
(しておいで・・・」「ぼくはくらちさんにあってきます」)
しておいで・・・」「僕は倉地さんに会って来ます」
(とつぜんうしろむきのことうはたたみにかたてをついてかたごしにむきかえりながら)
突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながら
(こういった。そしてようこがへんじをするひまもなくたちあがってはしごだんを)
こういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段を
(おりていこうとした。ようこはすばやくあいこにめくばせして、したにあんないして)
降りて行こうとした。葉子はすばやく愛子に目くばせして、下に案内して
(ふたりのようをたしてやるようにといった。あいこはいそいでたっていった。)
二人の用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。