有島武郎 或る女101
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問題文
(ことうはくらちをまったくどがいししたようにようこのほうに)
古藤は倉地を全く度外視したように葉子のほうに
(むきなおって、ようこのめにじぶんのめをさだめた。そっちょくなあからさまなそのめには)
向き直って、葉子の目に自分の目を定めた。卒直な明らさまなその目には
(そのばあいにすらこどもじみたしゅうちのいろをたたえていた。れいのごとくことうは)
その場合にすら子供じみた羞恥の色をたたえていた。例のごとく古藤は
(むねのきんぼたんをはめたりはずしたりしながら、)
胸の金ボタンをはめたりはずしたりしながら、
(「ぼくはいままでじぶんのいんじゅんからあなたにたいしてもきむらにたいしてもほんとうに)
「僕は今まで自分の因循からあなたに対しても木村に対してもほんとうに
(ゆうじょうらしいゆうじょうをあらわさなかったのをはずかしくおもいます。ぼくはとうに)
友情らしい友情を現わさなかったのを恥ずかしく思います。僕はとうに
(もっとどうかしなければいけなかったんですけれども・・・)
もっとどうかしなければいけなかったんですけれども・・・
(きむら、きむらってきむらのことばかりいうようですけれども、きむらのことをいうのは)
木村、木村って木村の事ばかりいうようですけれども、木村の事をいうのは
(あなたのことをいうのもおなじだとぼくはおもうんですが、あなたはいまでもきむらと)
あなたの事をいうのも同じだと僕は思うんですが、あなたは今でも木村と
(けっこんするきがたしかにあるんですかないんですか、くらちさんのまえでそれを)
結婚する気が確かにあるんですかないんですか、倉地さんの前でそれを
(はっきりぼくにきかせてください。なにごともそこからしゅっぱつしていかなければ)
はっきり僕に聞かせてください。何事もそこから出発して行かなければ
(このはなしはひっきょうまわりばかりまわることになりますから。ぼくはあなたがきむらと)
この話は畢竟まわりばかり回る事になりますから。僕はあなたが木村と
(けっこんするきはないといわれてもけっしてそれをどうというんじゃありません。)
結婚する気はないといわれても決してそれをどうというんじゃありません。
(きむらはきのどくです。あのおとこはひょうめんはあんなにらくてんてきにみえていて、)
木村は気の毒です。あの男は表面はあんなに楽天的に見えていて、
(いしがつよそうだけれども、ずいぶんなみだっぽいほうだから、そのしつぼうは)
意志が強そうだけれども、ずいぶん涙っぽいほうだから、その失望は
(おもいやられます。けれどもそれだってしかたがない。だいいちはじめから)
思いやられます。けれどもそれだってしかたがない。第一始めから
(むりだったから・・・あなたのおはなしのようなら・・・。)
無理だったから・・・あなたのお話のようなら・・・。
(しかしじじょうがじじょうだとはいえ、あなたはなぜいやならいやと・・・)
しかし事情が事情だとはいえ、あなたはなぜいやならいやと・・・
(そんなかこをいったところがはじまらないからやめましょう。)
そんな過去をいったところが始まらないからやめましょう。
(・・・ようこさん、あなたはほんとうにじぶんをかんがえてみて、どこかまちがっていると)
・・・葉子さん、あなたはほんとうに自分を考えてみて、どこか間違っていると
(おもったことはありませんか。ごかいしてはこまりますよ、ぼくはあなたが)
思った事はありませんか。誤解しては困りますよ、僕はあなたが
(まちがっているというつもりじゃないんですから。たにんのことをたにんが)
間違っているというつもりじゃないんですから。他人の事を他人が
(はんだんすることなんかはできないことだけれども、ぼくはあなたがどこかふしぜんに)
判断する事なんかはできない事だけれども、僕はあなたがどこか不自然に
(みえていけないんです。よくよのなかではじんせいのことはそうたんじゅんにいくもんじゃ)
見えていけないんです。よく世の中では人生の事はそう単純に行くもんじゃ
(ないといいますが、そうしてあなたのせいかつなんぞをみていると、それは)
ないといいますが、そうしてあなたの生活なんぞを見ていると、それは
(ごくがいめんてきにみているからそうみえるのかもしれないけれども、じっさい)
ごく外面的に見ているからそう見えるのかもしれないけれども、実際
(ずいぶんふくざつらしくおもわれますが、そうあるべきことなんでしょうか。)
ずいぶん複雑らしく思われますが、そうあるべき事なんでしょうか。
(もっともっとclearにsun-clearにじぶんのちからだけのこと、)
もっともっとclearにsun-clearに自分の力だけの事、
(とくだけのことをしてくらせそうなものだとぼくじしんはおもうんですがね・・・)
徳だけの事をして暮らせそうなものだと僕自身は思うんですがね・・・
(ぼくにもそうでなくなるじだいがくるかもしらないけれども、いまのぼくとしては)
僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としては
(そうよりかんがえられないんです。いちじはこんざつもき、ふわもき、けんかも)
そうより考えられないんです。一時は混雑も来、不和も来、けんかも
(くるかはしれないが、けっきょくはそうするよりしかたがないとおもいますよ。)
来るかは知れないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。
(あなたのことについてもぼくはまえからそういうふうにはっきりかたづけて)
あなたの事についても僕は前からそういうふうにはっきり片づけて
(しまいたいとおもっていたんですけれど、こそくなこころからそれまでにいかずとも)
しまいたいと思っていたんですけれど、姑息な心からそれまでに行かずとも
(いいけっかがうまれてきはしないかとおもったりしてきょうまでどっちつかずで)
いい結果が生まれて来はしないかと思ったりしてきょうまでどっちつかずで
(すごしてきたんです。しかしもうこのいじょうぼくにはがまんができなくなりました。)
過ごして来たんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。
(くらちさんとあなたとけっこんなさるならなさるできむらもあきらめるよりほかに)
倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村もあきらめるよりほかに
(みちはありません。きむらにとってはくるしいことだろうが、ぼくからかんがえると)
道はありません。木村にとっては苦しい事だろうが、僕から考えると
(どっちつかずではんもんしているのよりどれだけいいかわかりません。)
どっちつかずで煩悶しているのよりどれだけいいかわかりません。
(だからくらちさんにいこうをうかがおうとすれば、くらちさんはあたまからぼくをばかにして)
だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕をばかにして
(はなしをしんみにうけてはくださらないんです」)
話を真身に受けてはくださらないんです」
(「ばかにされるほうがわるいのよ」くらちはにわのほうからかおをかえして、)
「ばかにされるほうが悪いのよ」倉地は庭のほうから顔を返して、
(「どこまでばかにできあがったおとこだろう」というようににがわらいをしながら)
「どこまでばかに出来上がった男だろう」というように苦笑いをしながら
(ことうをみやって、またしらぬかおににわのほうをむいてしまった。)
古藤を見やって、また知らぬ顔に庭のほうを向いてしまった。
(「そりゃそうだ。ばかにされるぼくはばかだろう。しかしあなたには・・・)
「そりゃそうだ。ばかにされる僕はばかだろう。しかしあなたには・・・
(あなたにはぼくらがもってるりょうしんというものがないんだ。それだけは)
あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけは
(ばかでもぼくにはわかる。あなたがばかといわれるのと、ぼくがじぶんをばかと)
ばかでも僕にはわかる。あなたがばかといわれるのと、僕が自分をばかと
(おもっているそれとは、いみがちがいますよ」)
思っているそれとは、意味が違いますよ」
(「そのとおり、あなたはばかだとおもいながら、どこかこころのすみで)
「そのとおり、あなたはばかだと思いながら、どこか心のすみで
(「なにばかなものか」とおもいよるし、わたしはあなたをうそほんなしに)
『何ばかなものか』と思いよるし、わたしはあなたを嘘本なしに
(ばかというだけのそういがあるよ」)
ばかというだけの相違があるよ」
(「あなたはきのどくなひとです」)
「あなたは気の毒な人です」
(ことうのめにはいかりというよりも、あるはげしいかんじょうのなみだがうすくやどっていた。)
古藤の目には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。
(ことうのこころのなかのいちばんおくふかいところがけがされないままで、ふとめから)
古藤の心の中の一番奥深い所が汚(けが)されないままで、ふと目から
(のぞきだしたかとおもわれるほど、そのなみだをためためはいっしゅのちからときよさとを)
のぞき出したかと思われるほど、その涙をためた目は一種の力と清さとを
(もっていた。さすがのくらちもそのひとことにはことばをかえすことなく、ふしぎそうに)
持っていた。さすがの倉地もその一言には言葉を返す事なく、不思議そうに
(ことうのかおをみた。ようこもおもわずいっしゅあらたまったきぶんになった。そこには)
古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこには
(これまでみなれていたことうはいなくなって、そのかわりにごまかしの)
これまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしの
(きかないつよいちからをもったひとりのじゅんけつなせいねんがひょっこりあらわれでたように)
きかない強い力を持った一人の純潔な青年がひょっこり現われ出たように
(みえた。なにをいうか、またいつものようなありきたりのどうとくろんをふりまわす)
見えた。何をいうか、またいつものようなありきたりの道徳論を振り回す
(とおもいながら、いっしゅのけいぶをもってだまってきいていたようこは、このひとことで、)
と思いながら、一種の軽侮をもって黙って聞いていた葉子は、この一言で、
(いわばことうをかべぎわにおもいぞんぶんおしつけていたくらちがてもなく)
いわば古藤を壁ぎわに思い存分押し付けていた倉地が手もなく
(はじきかえされたのをみた。ことばのうえやしうちのうえやでいかにこうあつてきに)
はじき返されたのを見た。言葉の上や仕打ちの上やでいかに高圧的に
(でてみても、どうすることもできないようなしんじつさがことうからあふれでていた。)
出てみても、どうする事もできないような真実さが古藤からあふれ出ていた。
(それにはむかうにはしんじつではむかうほかはない。くらちはそれを)
それに歯向かうには真実で歯向かうほかはない。倉地はそれを
(もちあわしているかどうかようこにはそうぞうがつかなかった。)
持ち合わしているかどうか葉子には想像がつかなかった。
(そのばあいくらちはしばらくことうのかおをふしぎそうにみやったあと、へいきなかおをして)
その場合倉地はしばらく古藤の顔を不思議そうに見やった後、平気な顔をして
(ぜんからさかずきをとりあげて、のみのこしてひえたさけをてれかくしのように)
膳から杯を取り上げて、飲み残して冷えた酒を照れ隠しのように
(あおりつけた。ようこはこのときことうとこんなちょうしでむかいあっているのが)
あおりつけた。葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが
(おそろしくってならなくなった。ことうのめのまえでひょっとするといままできずいてきた)
恐ろしくってならなくなった。古藤の目の前でひょっとすると今まで築いて来た
(せいかつがくずれてしまいそうなきぐをさえかんじた。で、そのままだまって)
生活がくずれてしまいそうな危惧をさえ感じた。で、そのまま黙って
(くらちのまねをするようだが、へいきをよそおいつつきせるをとりあげた。)
倉地のまねをするようだが、平気を装いつつ煙管(きせる)を取り上げた。
(そのばのしうちとしてはつたないやりかたであるのをはがゆくはおもいながら。)
その場の仕打ちとしては拙いやりかたであるのを歯がゆくは思いながら。
(ことうはしばらくことばをとぎらしていたが、またあらたまってようこのほうに)
古藤はしばらく言葉を途切らしていたが、また改まって葉子のほうに
(はなしかけた。)
話しかけた。
(「そうあらたまらないでください。そのかわりおもっただけのことを)
「そう改まらないでください。その代わり思っただけの事を
(いいかげんにしておかずにはなしあわせてみてください。いいですか。)
いいかげんにして置かずに話し合わせてみてください。いいですか。
(あなたとくらちさんとのこれまでのせいかつは、ぼくみたいなむけいけんのものにも、)
あなたと倉地さんとのこれまでの生活は、僕みたいな無経験のものにも、
(ぎもんとしてかたづけておくことのできないようなじじつをかんじさせるんです。)
疑問として片づけて置く事のできないような事実を感じさせるんです。
(それにたいするあなたのべんかいはきべんとよりぼくにはひびかなくなりました。)
それに対するあなたの弁解は詭弁とより僕には響かなくなりました。
(ぼくのにぶいちょっかくですらがそうかんがえるのです。だからこのさいあなたとくらちさんとの)
僕の鈍い直覚ですらがそう考えるのです。だからこの際あなたと倉地さんとの
(かんけいをあきらかにして、あなたからきむらにいつわりのないこくはくをして)
関係を明らかにして、あなたから木村に偽りのない告白をして
(いただきたいんです。きむらがひとりでせいかつにくるしみながら)
いただきたいんです。木村が一人で生活に苦しみながら
(たとえようのないぎわくのなかにもがいているのをすこしでもそうぞうしてみたら・・・)
たとえようのない疑惑の中にもがいているのを少しでも想像してみたら・・・
(いまのあなたにはそれをようきゅうするのはむりかもしれないけれども・・・。)
今のあなたにはそれを要求するのは無理かもしれないけれども・・・。
(だいいちこんなふあんていなじょうたいからあなたはあいこさんやさだよさんをすくうぎむが)
第一こんな不安定な状態からあなたは愛子さんや貞世さんを救う義務が
(あるとおもいますよぼくは。あなただけにかぎられずに、しほうはっぽうのひとのこころに)
あると思いますよ僕は。あなただけに限られずに、四方八方の人の心に
(ひびくというのはおそろしいことだとはほんとうにあなたにはおもえませんかねえ。)
響くというのは恐ろしい事だとはほんとうにあなたには思えませんかねえ。
(ぼくにはそばでみているだけでもおそろしいがなあ。ひとにはいつかそうかんじょうを)
僕にはそばで見ているだけでも恐ろしいがなあ。ひとにはいつか総勘定を
(しなければならないときがくるんだ。いくらかりになっていても)
しなければならない時が来るんだ。いくら借りになっていても
(びくともしないというじしんもなくって、ずるずるべったりにむはんせいにかりばかり)
びくともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり
(つくっているのはかんがえてみるとふあんじゃないでしょうか。ようこさん、あなたには)
作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには
(うつくしいせいじつがあるんだ。ぼくはそれをしっています。きむらにだけは)
美しい誠実があるんだ。僕はそれを知っています。木村にだけは
(どうしたわけかべつだけれども、あなたはびたいちもんでもかりをしているとおもうと)
どうしたわけか別だけれども、あなたはびた一文でも借りをしていると思うと
(ねごこちがわるいというようなきしょうをもっているじゃありませんか。)
寝心地が悪いというような気象を持っているじゃありませんか。
(それにこころのしゃっきんならいくらしゃっきんをしていてもへいきでいられるわけは)
それに心の借金ならいくら借金をしていても平気でいられるわけは
(ないとおもいますよ。なぜあなたはこのんでそれをふみにじろうとばかり)
ないと思いますよ。なぜあなたは好んでそれを踏みにじろうとばかり
(しているんです。そんななさけないことばかりしていてはだめじゃありませんか。)
しているんです。そんな情ない事ばかりしていてはだめじゃありませんか。
(・・・ぼくははっきりおもうとおりをいいあらわしえないけれども・・・)
・・・僕ははっきり思うとおりをいい現わし得ないけれども・・・
(いおうとしていることはわかってくださるでしょう」)
いおうとしている事はわかって下さるでしょう」