有島武郎 或る女103

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問題文

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(いつのまにいったのか、くらちとことうとがろくじょうのまからくびをだした。)

いつの間に行ったのか、倉地と古藤とが六畳の間から首を出した。

(「おようさん・・・ありゃないたためばかりのねつじゃない。はやくきてごらん」)

「お葉さん・・・ありゃ泣いたためばかりの熱じゃない。早く来てごらん」

(くらちのあわてるようなこえがきこえた。)

倉地のあわてるような声が聞こえた。

(それをきくとようこははじめてことのしんそうがわかったように、ゆめからめざめたように、)

それを聞くと葉子は始めて事の真相がわかったように、夢から目ざめたように、

(きゅうにあたまがはっきりしてろくじょうのまにはしりこんだ。さだよはひときわせたけが)

急に頭がはっきりして六畳の間に走り込んだ。貞世はひときわ背たけが

(ちぢまったようにちいさくまるまって、ざぶとんにかおをうずめていた。)

縮まったように小さく丸まって、座ぶとんに顔を埋めていた。

(ひざをついてそばによってうなじのところにさわってみると、)

膝をついてそばに寄って後頸(うなじ)の所にさわってみると、

(きみのわるいほどのねつがようこのてにつたわってきた。)

気味の悪いほどの熱が葉子の手に伝わって来た。

(そのしゅんかんにようこのこころはでんぐりがえしをうった。)

その瞬間に葉子の心はでんぐり返しを打った。

(いとしいさだよにつらくあたったら、そしてもしさだよがそのためにいのちをおとす)

いとしい貞世につらく当たったら、そしてもし貞世がそのために命を落とす

(ようなことでもあったら、くらちをだいじょうぶつかむことができるとなにがなしに)

ような事でもあったら、倉地を大丈夫つかむ事ができると何がなしに

(おもいこんで、しかもそれをじっこうしためいしんとももうそうともたとえようのない、)

思いこんで、しかもそれを実行した迷信とも妄想ともたとえようのない、

(きょうきじみたけちがんがなんのくもなくばらばらにくずれてしまって、)

狂気じみた結願(けちがん)がなんの苦もなくばらばらにくずれてしまって、

(そのあとにはどうかしてさだよをいかしたいというすなおななみだぐましいねがいばかりが)

その跡にはどうかして貞世を活かしたいという素直な涙ぐましい願いばかりが

(しみじみとはたらいていた。じぶんのあいするものがしぬかいきるかのさかいめに)

しみじみと働いていた。自分の愛するものが死ぬか活きるかの境目に

(きたとおもうと、せいへのしゅうちゃくとしへのきょうふとが、いままでそうぞうもおよばなかった)

来たと思うと、生への執着と死への恐怖とが、今まで想像も及ばなかった

(つよさでひしひしとかんぜられた。じぶんをやつざきにしてもさだよのいのちは)

強さでひしひしと感ぜられた。自分を八つ裂きにしても貞世の命は

(とりとめなくてはならぬ。もしさだよがしねばそれはじぶんがころしたんだ。)

取りとめなくてはならぬ。もし貞世が死ねばそれは自分が殺したんだ。

(なにもしらない、かみのようなしょうじょを・・・)

何も知らない、神のような少女を・・・

(ようこはあらぬことまでかってにそうぞうしてかってにくるしむじぶんをたしなめるつもりで)

葉子はあらぬ事まで勝手に想像して勝手に苦しむ自分をたしなめるつもりで

など

(いても、それいじょうにしゅじゅなよそうがはげしくあたまのなかではたらいた。)

いても、それ以上に種々な予想が激しく頭の中で働いた。

(ようこはさだよのせをさすりながら、たんがんするようにあいじょをこうように)

葉子は貞世の背をさすりながら、嘆願するように哀恕を乞うように

(ことうやくらちやあいこまでをみまわした。それらのひとびとはいずれもこころいたげな)

古藤や倉地や愛子までを見まわした。それらの人々はいずれも心痛げな

(かおいろをみせていないではなかった。しかしようこからみるとそれはみんな)

顔色を見せていないではなかった。しかし葉子から見るとそれはみんな

(にせものだった。)

贋物(にせもの)だった。

(やがてことうはへいえいのきといしゃをたのむといってかえっていった。)

やがて古藤は兵営の帰途 医者を頼むといって帰って行った。

(ようこは、ひとりでも、どんなひとでもさだよのみぢかからはなれていくのを)

葉子は、一人でも、どんな人でも貞世の身近から離れて行くのを

(つらくおもった。そんなひとたちはたしょうでもさだよのせいめいをいっしょにもっていって)

つらく思った。そんな人たちは多少でも貞世の生命を一緒に持って行って

(しまうようにおもわれてならなかった。)

しまうように思われてならなかった。

(ひはとっぷりくれてしまったけれどもどこのとじまりもしないこのいえに、)

日はとっぷり暮れてしまったけれどもどこの戸締まりもしないこの家に、

(ことうがいってよこしたいしゃがやってきた。そしてさだよはあきらかに)

古藤がいってよこした医者がやって来た。そして貞世は明らかに

(ちょうちぶすにかかっているとしんだんされてしまった。)

腸チブスにかかっていると診断されてしまった。

(よんじゅうに「おねえさま・・・いっちゃいやあ・・・」)

【四二】 「おねえ様・・・行っちゃいやあ・・・」

(まるでよっつかいつつのようじのようにがんぜなくわがままになってしまったさだよのこえを)

まるで四つか五つの幼児のように頑是なくわがままになってしまった貞世の声を

(ききのこしながらようこはびょうしつをでた。おりからじめじめとふりつづいている)

聞き残しながら葉子は病室を出た。おりからじめじめと降り続いている

(さみだれに、ろうかにはよあけからのうすぐらさがそのままのこっていた。)

五月雨に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。

(はくいをきたかんごふがくらいだだっぴろいろうかを、うわぞうりのおおきなおとをさせながら)

白衣を着た看護婦が暗いだだっ広い廊下を、上草履の大きな音をさせながら

(あんないにたった。とおかのよも、よるひるのみさかいもなく、おびもとかずに)

案内に立った。十日の余も、夜昼の見さかいもなく、帯も解かずに

(かんごのてをつくしたようこは、どうかするとふらふらとなって、あたまだけが)

看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが

(ごたいからはなれてどこともなくただよっていくかともおもうようなふしぎなさっかくを)

五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を

(かんじながら、それでもきんちょうしきったこころもちになっていた。すべてのおんきょう、)

感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、

(すべてのしきさいがきょくどにこちょうされてそのかんかくにふれてきた。)

すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れて来た。

(さだよがちょうちぶすとしんだんされたそのばん、ようこはたんかにのせられたそのあわれな)

貞世が腸チブスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたそのあわれな

(ちいさないもうとにつきそってこのだいがくびょういんのかくりしつにきてしまったのであるが、)

小さな妹に付き添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、

(そのときわかれたなりで、くらちはいちどもびょういんをたずねてはこなかったのだ。)

その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては来なかったのだ。

(ようこはあいこひとりがるすするさんないのいえのほうに、すこしふあんしんでは)

葉子は愛子一人が留守する山内(さんない)の家のほうに、少し不安心では

(あるけれどもいつかひまをやったつやをよびよせておこうとおもって、やどもとに)

あるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとに

(いってやると、つやはあれからかんごふをしがんしてきょうばしのほうのあるびょういんに)

いってやると、つやはあれから看護婦を志願して京橋のほうのある病院に

(いるということがしれたので、やむをえずくらちのげしゅくからとしをとったじょちゅうをひとり)

いるという事が知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人

(たのんでいてもらうことにした。びょういんにきてからのとおかーーそれはきのうから)

頼んでいてもらう事にした。病院に来てからの十日ーーそれはきのうから

(きょうにかけてのことのようにみじかくもおもわれもし、いちにちがいちねんにそうとうするかと)

きょうにかけての事のように短くも思われもし、一日が一年に相当するかと

(うたがわれるほどながくもかんじられた。)

疑われるほど長くも感じられた。

(そのながくかんじられるほうのきかんには、くらちとあいことのすがたが)

その長く感じられるほうの期間には、倉地と愛子との姿が

(ふあんとしっととのたいしょうとなってようこのこころのめにたちあらわれた。)

不安と嫉妬との対照となって葉子の心の目に立ち現われた。

(ようこのいえをあずかっているものはくらちのげしゅくからきたおんなだとすると、)

葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、

(それはくらちのいぬといってもよかった。そこにひとりのこされたあいこ・・・)

それは倉地の犬といってもよかった。そこに一人残された愛子・・・

(ながいじかんのあいだにどんなことでもおこりえずにいるものか。そうきを)

長い時間の間にどんな事でも起こり得ずにいるものか。そう気を

(まわしだすとようこはさだよのしんだいのかたわらにいて、ねつのためにくちびるが)

回し出すと葉子は貞世の寝台のかたわらにいて、熱のために口びるが

(かさかさになって、はんぶんめをあけたままこんすいしているそのちいさなかおを)

かさかさになって、半分目をあけたまま昏睡しているその小さな顔を

(みつめているときでも、おもわずかっとなってそこをとびだそうとするような)

見つめている時でも、思わずかっとなってそこを飛び出そうとするような

(しょうどうにかりたてられるのだった。)

衝動に駆り立てられるのだった。

(しかしまたみじかくかんじられるほうのきかんにはたださだよばかりがいた。)

しかしまた短く感じられるほうの期間にはただ貞世ばかりがいた。

(すえことしてりょうしんからなめるほどできあいもされ、ようこのゆいいつのちょうじともされ、)

末子として両親からなめるほど溺愛もされ、葉子の唯一の寵児ともされ、

(けんこうで、かいかつで、むじゃきで、わがままで、びょうきということなどはついぞ)

健康で、快活で、無邪気で、わがままで、病気という事などはついぞ

(しらなかったそのこは、ひきつづいてちちをうしない、ははをうしない、ようこのびょうてきな)

知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な

(じゅそのぎせいとなり、とつぜんしびょうにとりつかれて、ゆめにもうつつにも)

呪詛の犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にもうつつにも

(おもいもかけなかったしとむかいあって、ひたすらにおそれおののいている、)

思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、

(そのすがたは、せんじょうのたにぞこにつづくがけのきわにりょうてだけでぶらさがったひとが、)

その姿は、千丈の谷底に続く崕のきわに両手だけでぶら下がった人が、

(そこのつちがぼろぼろとくずれおちるたびごとに、けんめいになってたすけをもとめて)

そこの土がぼろぼろとくずれ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて

(なきさけびながら、すこしでもてがかりのあるものにしがみつこうとするのをみるのと)

泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと

(ことならなかった。しかもそんなはめにさだよをおとしいれてしまったのは)

異ならなかった。しかもそんな破目に貞世をおとしいれてしまったのは

(けっきょくじぶんにせきにんのだいぶぶんがあるとおもうと、ようこはいとしさかなしさで)

結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで

(むねもはらわたもさけるようになった。さだよがしぬにしても、せめては)

胸も腸(はらわた)も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては

(じぶんだけはさだよをあいしぬいてしなせたかった。さだよをかりにもいじめるとは・・・)

自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世を仮にもいじめるとは・・・

(まるでてんしのようなこころでじぶんをしんじきりあいしぬいてくれたさだよを)

まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世を

(かりにももぎどうにとりあつかったとは・・・ようこはじぶんながらようこのこころのらちなさ)

仮にも没義道に取り扱ったとは・・・葉子は自分ながら葉子の心の埒なさ

(おそろしさにくいてもくいてもおよばないくいをかんじた。)

恐ろしさに悔いても悔いても及ばない悔いを感じた。

(そこまでせんじつめてくると、ようこにはくらちもなかった。)

そこまで詮じつめて来ると、葉子には倉地もなかった。

(ただいのちにかけてもさだよをびょうきからすくって、さだよがもとどおりに)

ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元通りに

(つやつやしいけんこうにかえったとき、さだよをだいじにだいじにじぶんのむねに)

つやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸に

(かきいだいてやって、「さあちゃんおまえはよくこそなおってくれたね。)

かき抱いてやって、「貞(さあ)ちゃんお前はよくこそなおってくれたね。

(ねえさんをうらまないでおくれ。ねえさんはいままでのことをみんなこうかいして、)

ねえさんを恨まないでおくれ。ねえさんは今までの事をみんな後悔して、

(これからはあなたをいつまでもいつまでもごしょうだいじにしてあげますからね」)

これからはあなたをいつまでもいつまでも後生大事にしてあげますからね」

(としみじみとなきながらいってやりたかった。ただそれだけのねがいに)

としみじみと泣きながらいってやりたかった。ただそれだけの願いに

(かたまってしまった。そうしたこころもちになっていると、じかんはただ)

固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ

(やのようにとんですぎた。しのほうへさだよをつれていくじかんはただ)

矢のように飛んで過ぎた。死のほうへ貞世を連れて行く時間はただ

(やのようにとんですぎるとおもえた。)

矢のように飛んで過ぎると思えた。

(このきかいなこころのかっとうにくわえて、ようこのけんこうはこのとおかほどのはげしいこうふんと)

この奇怪な心の葛藤に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と

(かつどうとでみじめにもそこないきずつけられているらしかった。きんちょうのきょくてんに)

活動とでみじめにも損ない傷つけられているらしかった。緊張の極点に

(いるようないまのようこにはさほどとおもわれないようにもあったが、さだよが)

いるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が

(しぬかなおるかしてひといきつくときがきたら、どうしてにくたいをささえることが)

死ぬかなおるかして一息つく時が来たら、どうして肉体をささえる事が

(できようかとあやぶまないではいられないよかんがきびしくようこをおそうしゅんかんは)

できようかと危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は

(いくどもあった。)

幾度もあった。

(そうしたくるしみのさいちゅうにめずらしくくらちがたずねてきたのだった。)

そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。

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