有島武郎 或る女115
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問題文
(よんじゅうろくまっくらなろうかがふるぼけたえんがわになったり、えんがわのつきあたりに)
【四六】 まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当りに
(はしごだんがあったり、ひあたりのいいちゅうにかいのようなへやがあったり、)
階子段があったり、日当たりのいい中二階のような部屋があったり、
(なんどとおもわれるくらいへやにやねをうちぬいてがらすをはめて)
納戸と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて
(こうせんがひいてあったりするような、いわばそのかいわいにたくさんある)
光線が引いてあったりするような、いわばその界隈にたくさんある
(まちあいのたてものにてをいれてつかっているようなびょういんだった。つやは)
待合の建物に手を入れて使っているような病院だった。つやは
(かじきびょういんというそのびょういんのかんごふになっていた。)
加治木病院というその病院の看護婦になっていた。
(ながくてんきがつづいて、そのあとにはげしいみなみかぜがふいて、とうきょうのしがいは)
長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街は
(ほこりまぶれになって、そらも、かおくも、じゅもくも、きなこでまぶしたように)
ほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉でまぶしたように
(なったあげく、きもちわるくむしむしとはだをあせばませるようなあめにかわった)
なったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わった
(あるひのあさ、ようこはわずかばかりなにもつをもってじんりきしゃでかじきびょういんに)
ある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に
(おくられた。うしろのくるまにはあいこがにもつのいちぶぶんをもってのっていた。)
送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。
(すだちょうにでたとき、あいこのくるまはにほんばしのとおりをまっすぐにひとあしさきに)
須田町に出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに一足先に
(びょういんにいかして、ようこはそとぼりにそうたみちをにっぽんぎんこうからしばらくいく)
病院に行かして、葉子は外濠に沿うた道を日本銀行からしばらく行く
(くぎだなのよこちょうにまがらせた。じぶんのすんでいたいえをよそながら)
釘店(くぎだな)の横丁に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所ながら
(みてとおりたいこころもちになっていたからだった。まえほろのすきまから)
見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌のすきまから
(のぞくのだったけれども、いちねんのあとにもそこにはさしてかわったようすは)
のぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は
(みえなかった。じぶんのいたいえのまえでちょっとくるまをとまらしてなかを)
見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中を
(のぞいてみた。もんさつにはおじのなはなくなって、しらないたにんのせいめいが)
のぞいて見た。門札には叔父の名はなくなって、知らない他人の姓名が
(かかげられていた。それでもそのひとはいしゃだとみえて、ちちのじぶんからの)
掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの
(えいじゅどうびょういんというかんばんはあいかわらずげんかんのなげしにみえていた。)
永寿堂病院という看板は相変わらず玄関のなげしに見えていた。
(ちょうさんしゅうとしょめいしてあるそのじもようこにはしたしみのふかいものだった。)
長三洲と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。
(ようこがあめりかにしゅっぱつしたあさもくがつではあったがやはりそのひのように)
葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のように
(じめじめとあめのふるひだったのをおもいだした。あいこがくしをおってきゅうに)
じめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が櫛を折って急に
(なきだしたのも、さだよがおこったようなかおをしてめになみだをいっぱい)
泣き出したのも、貞世が怒ったような顔をして目に涙をいっぱい
(ためたままみおくっていたのもそのげんかんをみるとえがくようにおもいだされた。)
ためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
(「もういいはやくやっておくれ」)
「もういい早くやっておくれ」
(そうようこはくるまのうえからなみだごえでいった。)
そう葉子は車の上から涙声でいった。
(くるまはかじぼうをむけかえられて、またあめのなかをちいさくゆれながら)
車は梶棒を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら
(にほんばしのほうにはしりだした。ようこはふしぎにそこにいっしょにすんでいた)
日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた
(おじおばのことをなきながらおもいやった。あのひとたちはいまどこに)
叔父叔母の事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこに
(どうしているだろう。あのはくちのこももうずいぶんおおきくなったろう。)
どうしているだろう。あのハク痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。
(でもとべいをくわだててからまだいちねんとはたっていないんだ。へえ、そんな)
でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな
(みじかいあいだにこれほどのへんかが・・・ようこはじぶんでじぶんにあきれるように)
短い間にこれほどの変化が・・・葉子は自分で自分にあきれるように
(それをおもいやった。それではあのはくちのこもおもったほどおおきく)
それを思いやった。それではあのハク痴の子も思ったほど大きく
(なっているわけではあるまい。ようこはそのこのことをおもうとどうしたわけか)
なっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか
(さだこのことをむねがいたむほどきびしくおもいだしてしまった。)
定子の事を胸が痛むほどきびしく思い出してしまった。
(かまくらにいったときいらい、じぶんのふところからもぎはなしてしまって、)
鎌倉に行った時以来、自分のふところからもぎ放してしまって、
(こんりんざいわすれてしまおうとかたくこころにちぎっていたそのさだこが・・・)
金輪際忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が・・・
(それはそのばあいようこをまったくみじめにしてしまった。)
それはその場合葉子を全く惨めにしてしまった。
(びょういんについたときもようこはなきつづけていた。)
病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。
(そしてそのびょういんのすぐてまえまできて、そこににゅういんしようとしたことを)
そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を
(こころからこうかいしてしまった。こんならくはくしたようなすがたをつやにみせるのが)
心から後悔してしまった。こんな落魄したような姿をつやに見せるのが
(たえがたいことのようにおもわれだしたのだ。)
堪え難い事のように思われ出したのだ。
(くらいにかいのへやにあんないされて、あいこがじゅんびしておいたとこによこになると)
暗い二階の部屋に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると
(ようこはだれにあいさつもせずにただなきつづけた。そこはうんがのみずのにおいが)
葉子はだれに挨拶もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいが
(どろくさくかよってくるようなところだった。あいこはすすけたしょうじのかげで)
泥臭く通(かよ)って来るような所だった。愛子は煤けた障子の陰で
(てまわりのにもつをとりだしてあんばいした。くちすくなのあいこは)
手回りの荷物を取り出して案配した。口少なの愛子は
(あねをなぐさめるようなことばもださなかった。がいぶがそうぞうしいだけに)
姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々しいだけに
(へやのなかはなおさらひっそりとおもわれた。)
部屋の中はなおさらひっそりと思われた。
(ようこはやがてしずかにかおをあげてへやのなかをみた。あいこのかおいろが)
葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が
(きいろくみえるほどそのひのそらもへやのなかもさびれていた。すこしかびを)
黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も寂れていた。少し黴を
(もったようにほこりっぽくぶくぶくするたたみのうえにはまるぼんのうえに)
持ったようにほこりっぽくぶくぶくする畳の上には丸盆の上に
(だいがくびょういんからもってきたやくびんがのせてあった。しょうじぎわにはちいさなきょうだいが、)
大学病院から持って来た薬瓶が乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、
(ちがいだなにはてぶんことすずりばこがかざられたけれども、とこのまにはふくものひとつ、)
違い棚には手文庫と硯箱が飾られたけれども、床の間には幅物一つ、
(はないけひとつおいてなかった。そのかわりにくさいろのふろしきにつつみこんだいるいと)
花活け一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷に包み込んだ衣類と
(くろいえのぱらそるとがおいてあった。やくびんののせてあるまるぼんが、)
黒い柄のパラソルとが置いてあった。薬瓶の乗せてある丸盆が、
(でいりのしょうにんからとうらいのもので、ふちのところにはげたところができて、)
出入りの商人から到来のもので、縁の所に剥げた所ができて、
(おもてにはあかいたんざくのついたやがまとにめいちゅうしているえがやすっぽいきんで)
表には赤い短冊のついた矢が的に命中している画が安っぽい金で
(えがいてあった。ようこはそれをみるとぼんもあろうにとおもった。)
描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。
(それだけでもうようこははらがたったりなさけなくなったりした。)
それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
(「あいさんあなたごくろうでもまいにちちょっとずつはきてくれないじゃ)
「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ
(こまりますよ。さあちゃんのようすもききたいしね。・・・さあちゃんも)
困りますよ。貞(さあ)ちゃんの様子も聞きたいしね。・・・貞ちゃんも
(たのんだよ。ねつがさがってものごとがわかるようになるときにはわたしもなおって)
頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって
(かえるだろうから・・・あいさん」)
帰るだろうから・・・愛さん」
(いつものとおりはきはきとしたてごたえがないので、もうぎりぎりしてきたようこは)
いつものとおりはきはきとした手答えがないので、もうぎりぎりして来た葉子は
(けんをもったこえで、「あいさん」とごきつよくよびかけた。ことばをかけると)
剣を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけると
(それでもかたづけもののてをおいてようこのほうにむきなおったあいこは、)
それでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、
(このときようやくかおをあげておとなしく「はい」とへんじをした。)
この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。
(ようこのめはすかさずそのかおをはっしとむちうった。そしてねどこのうえに)
葉子の目はすかさずその顔を発矢とむちうった。そして寝床の上に
(はんしんをひじにささえておきあがった。くるまでゆられたためにふくぶはいたみを)
半身を肘にささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを
(ましてこえをあげたいほどうずいていた。)
増して声をあげたいほどうずいていた。
(「あなたにきょうははっきりきいておきたいことがあるの・・・)
「あなたにきょうははっきり聞いておきたい事があるの・・・
(あなたはよもやおかさんとひょんなやくそくなんぞしてはいますまいね」)
あなたはよもや岡さんとひょんな約束なんぞしてはいますまいね」
(「いいえ」)
「いいえ」
(あいこはてもなくすなおにこうこたえてめをふせてしまった。)
愛子は手もなく素直にこう答えて目を伏せてしまった。
(「ことうさんとも?」)
「古藤さんとも?」
(「いいえ」)
「いいえ」
(こんどはかおをあげてふしぎなことをといただすというようにじっとようこを)
今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっと葉子を
(みつめながらこうこたえた。そのたくとがあるような、ないような)
見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような
(あいこのたいどがようこをいやがうえにいらだたした。)
愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。
(おかのばあいにはどこかうしろめたくてくびをたれたともみえる。)
岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。
(ことうのばあいにはわざとしらをきるためにだいたんにかおをあげたともとれる。)
古藤の場合にはわざとしらを切るために大胆に顔を上げたとも取れる。
(またそんないみではなく、あまりふしぎなきつもんがにどまでつづいたので、)
またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、
(にどめにはけげんにおもってかおをあげたのかともかんがえられる。)
二度目には怪訝に思って顔を上げたのかとも考えられる。
(ようこはたたみかけてくらちのことまでといただそうとしたが、そのきぶんは)
葉子は畳みかけて倉地の事まで問いただそうとしたが、その気分は
(くだかれてしまった。そんなことをきいたのがだいいちおろかだった。)
くだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。
(かくしだてをしようとけっしんしたいじょうは、おんなはおとこよりもはるかにこうみょうで)
隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で
(だいたんなのをようこはじぶんでぞんぶんにしりぬいているのだ。じぶんからすすんで)
大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで
(うちかぶとをみすかされたようなもどかしさはいっそうようこのこころをいきどおらした。)
内兜を見透かされたようなもどかしさはいっそう葉子の心を憤らした。