フランツ・カフカ 変身⑧

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(しはいにんをどんなことがあってもこんなきぶんでたちさらせてはならない。)

支配人をどんなことがあってもこんな気分で立ち去らせてはならない。

(そんなことをやったらみせにおけるじぶんのちいはきっとぎりぎりまで)

そんなことをやったら店における自分の地位はきっとぎりぎりまで

(あぶなくなるにちがいない、とぐれごーるはみてとった。りょうしんには)

あぶなくなるにちがいない、とグレゴールは見て取った。両親には

(そうしたことがかれほどにはわかっていないのだ。りょうしんはながねんのうちに、)

そうしたことが彼ほどにはわかっていないのだ。両親は永年のうちに、

(ぐれごーるはこのみせでいっしょうしんぱいがないのだ、というかくしんを)

グレゴールはこの店で一生心配がないのだ、という確信を

(きずきあげてしまっているし、おまけにいまはとうめんのしんぱいごとに)

築き上げてしまっているし、おまけに今は当面の心配ごとに

(あんまりかかりきりになっているので、さきのことなどねんとうにはないしまつだった。)

あんまりかかりきりになっているので、先のことなど念頭にはない始末だった。

(だが、ぐれごーるはこのさきのことをしんぱいしたのだ。)

だが、グレゴールはこの先のことを心配したのだ。

(しはいにんをひきとめ、なだめ、かくしんさせ、さいごにはみかたにしなければならない。)

支配人を引きとめ、なだめ、確信させ、最後には味方にしなければならない。

(ぐれごーるとかぞくとのみらいはなんといってもそのことにかかっているのだ!)

グレゴールと家族との未来はなんといってもそのことにかかっているのだ!

(ああ、いもうとがこのばにいてくれたらいいのに!)

ああ、妹がこの場にいてくれたらいいのに!

(いもうとはりこうものだ。さっきも、ぐれごーるがおちつきはらってあおむけに)

妹はりこう者だ。さっきも、グレゴールが落ち着き払って仰向けに

(ねていたとき、ないていた。それに、おんなにはあまいあのしはいにんも、)

寝ていたとき、泣いていた。それに、女には甘いあの支配人も、

(いもうとにくどかれればいけんをかえるだろう。いもうとならげんかんのどあをしめ、)

妹にくどかれれば意見を変えるだろう。妹なら玄関のドアを閉め、

(げんかんのまでしはいにんのおどろきをなんとかなだめたことだろう。ところが、)

玄関の間で支配人の驚きを何とかなだめたことだろう。ところが、

(いもうとはちょうどいあわせず、ぐれごーるじしんがやらなければならないのだ。)

妹はちょうど居合わせず、グレゴール自身がやらなければならないのだ。

(そこで、からだをうごかすじぶんのげんざいののうりょくがどのくらいあるかも)

そこで、身体を動かす自分の現在の脳力がどのくらいあるかも

(まだぜんぜんわからないということをわすれ、またじぶんのはなしはおそらくは)

まだ全然わからないということを忘れ、また自分の話はおそらくは

(こんどもきっとあいてにききとってはもらえないだろうということもわすれて、)

今度もきっと相手に聞き取ってはもらえないだろうということも忘れて、

(どあいたからはなれ、あいているとぐちをとおってからだをずらしていき、)

ドア板から離れ、開いている戸口を通って身体をずらしていき、

など

(しはいにんのところへいこうとした。しはいにんはもうげんかんのまえのたたきにある)

支配人のところへいこうとした。支配人はもう玄関の前のたたきにある

(てすりにこっけいなかっこうでりょうてでしがみついていたのだった。)

手すりに滑稽な恰好で両手でしがみついていたのだった。

(ところが、ぐれごーるはたちまち、なにかつかまるものをもとめながら)

ところが、グレゴールはたちまち、何かつかまるものを求めながら

(ちいさなさけびをあげて、たくさんのちいさなあしをしたにしたままばたりとおちた。)

小さな叫びを上げて、たくさんの小さな脚を下にしたままばたりと落ちた。

(そうなるかならぬときに、かれはこのあさはじめてからだがらくになるのをかんじた。)

そうなるかならぬときに、彼はこの朝はじめて身体が楽になるのを感じた。

(たくさんのちいさなあしはしっかとゆかをふまえていた。)

たくさんの小さな脚はしっかと床を踏まえていた。

(それらのあしはかんぜんにおもうままにうごくのだ。それにきづくと、うれしかった。)

それらの脚は完全に思うままに動くのだ。それに気づくと、うれしかった。

(それらのあしは、かれがいこうとするほうへかれをはこんでいこうとさえ)

それらの脚は、彼がいこうとするほうへ彼を運んでいこうとさえ

(するのだった。そこでかれははやくも、いっさいのなやみはもうこれで)

するのだった。そこで彼は早くも、いっさいの悩みはもうこれで

(すっかりかいしょうするばかりになったぞ、とおもった。だが、そのしゅんかん、)

すっかり解消するばかりになったぞ、と思った。だが、その瞬間、

(おさえたうごきのためにからだをぶらぶらゆすりながら、ははおやから)

抑えた動きのために身体をぶらぶらゆすりながら、母親から

(いくらもはなれていないところでははおやとちょうどむかいあってゆかのうえに)

いくらも離れていないところで母親とちょうど向かい合って床の上に

(よこたわったときに、まったくほうしんじょうたいにあるようにみえたははおやが)

横たわったときに、まったく放心状態にあるように見えた母親が

(がばとたかくとびあがり、りょううでをおおきくひろげ、てのゆびをみんなひらいて、)

がばと高く跳び上がり、両腕を大きく拡げ、手の指をみんな開いて、

(さけんだのだった。)

叫んだのだった。

(「たすけて!どうかたすけて!」)

「助けて! どうか助けて!」

(まるでぐれごーるをよくみようとするかのように、あたまをしたにむけていたのだが、)

まるでグレゴールをよく見ようとするかのように、頭を下に向けていたのだが、

(そのかっこうとはぎゃくにおもわずしらずうしろへすたすたとあるいていった。)

その恰好とは逆に思わず知らずうしろへすたすたと歩いていった。

(じぶんのうしろにはしょくじのよういがしてあるてーぶるがあることを)

自分のうしろには食事の用意がしてあるテーブルがあることを

(わすれてしまっていた。そして、てーぶるのところへいきつくと、)

忘れてしまっていた。そして、テーブルのところへいきつくと、

(ほうしんしたようになっていそいでそれにこしをおろし、じぶんのすぐそばで)

放心したようになって急いでそれに腰を下ろし、自分のすぐそばで

(ひっくりかえったおおきなこーひー・ぽっとからだくだくこーひーがじゅうたんのうえへ)

ひっくり返った大きなコーヒー・ポットからだくだくコーヒーが絨毯の上へ

(こぼれおちるのにもぜんぜんきづかないようすだった。)

こぼれ落ちるのにも全然気づかない様子だった。

(「おかあさん、おかあさん」と、ぐれごーるはひくいこえでいい、ははおやのほうを)

「お母さん、お母さん」と、グレゴールは低い声で言い、母親のほうを

(みあげた。いっしゅん、しはいにんのことはまったくかれのねんとうからさっていた。)

見上げた。一瞬、支配人のことはまったく彼の念頭から去っていた。

(そのかわり、ながれるこーひーをながめて、なんどかあごをぱくぱくうごかさないでは)

そのかわり、流れるコーヒーをながめて、何度か顎をぱくぱく動かさないでは

(いられなかった。それをみてははおやはあらためておおきなさけびごえをあげ、)

いられなかった。それを見て母親は改めて大きな叫び声を上げ、

(てーぶるからにげだし、かけていったちちおやのりょううでのなかにたおれてしまった。)

テーブルから逃げ出し、かけていった父親の両腕のなかに倒れてしまった。

(しかし、いまはぐれごーるにはりょうしんをかまっているひまがなかった。)

しかし、今はグレゴールには両親をかまっているひまがなかった。

(しはいにんはもうげんかんのそとのかいだんのうえにいた。てすりのうえにあごをのせ、さいごに)

支配人はもう玄関の外の階段の上にいた。手すりの上に顎をのせ、最後に

(こちらのほうへふりかえった。ぐれごーるはできるだけかくじつにおいつこうとして、)

こちらのほうへ振り返った。グレゴールはできるだけ確実に追いつこうとして、

(すたーとをきった。しはいにんはなにかかんづいたにちがいなかった。というのは、)

スタートを切った。支配人は何か勘づいたにちがいなかった。というのは、

(かれはなんだんもひとあしとびにおりると、すがたをけしてしまったのだった。)

彼は何段も一足跳びに降りると、姿を消してしまったのだった。

(にげていきながらも、「ひゃあ!」とさけんだ。そのさけびごえがたてものの)

逃げていきながらも、「ひゃあ!」と叫んだ。その叫び声が建物の

(かいだんぶじゅうにひびいた。まずいことに、しはいにんのこのとうぼうは、それまで)

階段部じゅうに響いた。まずいことに、支配人のこの逃亡は、それまで

(ひかくてきおちついていたちちおやをもこんらんさせたようだった。ちちおやはじぶんでも)

比較的落ち着いていた父親をも混乱させたようだった。父親は自分でも

(しはいにんのあとをおっていくとか、あるいはすくなくともしはいにんのあとを)

支配人のあとを追っていくとか、あるいは少なくとも支配人のあとを

(おおうとするぐれごーるのじゃまをしないとかいうのではなくて、)

追おうとするグレゴールのじゃまをしないとかいうのではなくて、

(しはいにんがぼうしとおーばーといっしょにいすのひとつのうえにおきわすれていった)

支配人が帽子とオーバーといっしょに椅子の一つの上に置き忘れていった

(すてっきをみぎてでつかみ、ひだりてではおおきなしんぶんをてーぶるからとって、)

ステッキを右手でつかみ、左手では大きな新聞をテーブルから取って、

(あしをふみならしながら、すてっきとしんぶんとをふってぐれごーるをかれのへやへ)

足を踏み鳴らしながら、ステッキと新聞とを振ってグレゴールを彼の部屋へ

(おいかえすことにとりかかった。)

追い返すことに取りかかった。

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