晩年 ⑯

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プレイ回数759難易度(4.2) 5178打 長文 かな
太宰 治

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問題文

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(わたしはこのゆうじんたちといちにちでもあわなかったらさびしいのだ。)

私はこの友人たちと一日でも逢わなかったら淋しいのだ。

(そのころのことであるが、あるのわきのあらいひに、わたしはがっこうできょうしにつよくりょうほおを)

そのころの事であるが、或る野分のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬を

(なぐられた。それがぐうぜんにもわたしのにんきょうてきなこういからそんなしょばつをうけたのだから)

なぐられた。それが偶然にも私の任侠的な行為からそんな処罰を受けたのだから

(わたしのゆうじんたちはおこった。そのひのほうかご、よねんせいぜんぶがはくぶつきょうしつへあつまって、)

私の友人たちは怒った。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集まって、

(そのきょうしのついほうについてきょうぎしたのである。すとらいき、すとらいき、とこえたかく)

その教師の追放について協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高く

(さけぶせいともあった。わたしはろうばいした。もしわたしいちこじんのためをおもってすとらいきを)

さけぶ生徒もあった。私は狼狽した。もし私一個人のためを思ってストライキを

(するのだったら、よしてくれ、わたしはあのきょうしをにくんでいない、じけんはかんたんなのだ)

するのだったら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでいない、事件は簡単なのだ

(かんたんなのだ、とせいとたちにたのみまわった。ゆうじんたちはわたしをひきょうだとかかってだとか)

簡単なのだ、と生徒たちに頼みまわった。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか

(いった。わたしはいきぐるしくなって、そのきょうしつからでてしまった。おんせんばのいえへかえって、)

言った。私は息苦しくなって、その教室から出て了った。温泉場の家へ帰って、

(わたしはすぐゆにはいった。のわきにたたかれてやぶれつくしたにさんまいのばしょうのはが、)

私はすぐ湯にはいった。野分にたたかれて破れつくしたニ三枚の芭蕉の葉が、

(そのにわのすみからゆぶねのなかへあおいかげをおとしていた。わたしはゆぶねのふちに)

その庭の隅から湯槽のなかへ青い影を落としていた。私は湯槽のふちに

(こしかけながらいきたきもせずおもいにしずんだ。はずかしいおもいでにおそわれるときには)

腰かけながら生きた気もせず思いに沈んだ。恥しい思い出に襲われるときには

(それをふりはらうために、ひとりして、さて、とつぶやくくせがわたしにあった。)

それを振りはらうために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあった。

(かんたんなのだ、かんたんなのだ、とささやいて、あちこちをうろうろしていたじしんのすがたを)

簡単なのだ、簡単なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしていた自身の姿を

(そうぞうしてわたしは、ゆをてのひらですくってこぼしすくってはこぼししながら、さて、さて、と)

想像して私は、湯を掌で掬ってこぼし掬ってはこぼししながら、さて、さて、と

(なんかいもいった。あくるひ、そのきょうしがわたしたちにあやまって、けっきょくすとらいきは)

何回も言った。あくる日、その教師が私たちにあやまって、結局ストライキは

(おこらなかったし、ゆうじんたちともわけなくなかなおりできたけれど、このさいなんは)

起こらなかったし、友人たちともわけなく仲直り出来たけれど、この災難は

(わたしをくらくした。みよのことなどしきりにおもいだされた。)

私を暗くした。みよのことなどしきりに思い出された。

(ついには、みよとあわねばじぶんがこのままだらくしてしまいそうにも、)

ついには、みよと逢わねば自分がこのまま堕落してしまいそうにも、

(かんがえられたのである。ちょうどははもあねもとうじからかえることになって、)

考えられたのである。ちょうど母も姉も湯治からかえることになって、

など

(そのしゅったつのひが、あたかもどようびであったから、わたしはははたちをおくっていくという)

その出立の日が、あたかも土曜日であったから、私は母たちを送って行くという

(めいもくで、こきょうへもどることができた。ゆうじんたちにはひみつにして)

名目で、故郷へ戻ることができた。友人たちには秘密にして

(こっそりでかけたのである。おとうとにもききょうのほんとのわけはいわずにおいた。)

こっそり出掛けたのである。弟にも帰郷のほんとのわけは言わずに置いた。

(いわなくてもわかっているのだとおもっていた。みんなでそのおんせんばをひきあげ、)

言わなくても判っているのだと思っていた。みんなでその温泉場を引きあげ、

(わたしたちのせわになっているごふくしょうへひとまずおちつき、それからははとあねとさんにんで)

私たちの世話になっている呉服商へひとまず落ちつき、それから母と姉と三人で

(こきょうへむかった。れっしゃがぷらっとふおむをはなれるとき、みおくりにきていたおとうとが、)

故郷へ向かった。列車がプラットフオムを離れるとき、見送りにきていた弟が、

(れっしゃのまどからあおいふじびたいをのぞかせて、がんばれ、とひとこといった。)

列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言った。

(わたしはそれをうっかりすなおにうけいれて、よしよし、ときげんよくうなずいた。)

私はそれをうっかり素直に受け入れて、よしよし、と気嫌よくうなずいた。

(ばしゃがとなりむらをすぎて、しだいにうちへちかづいてくると、わたしはまったく)

馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいてくると、私はまったく

(おちつかなかった。ひがくれて、そらもやまもまっくらだった。)

落ちつかなかった。日が暮れて、空も山もまっくらだった。

(いなだがあきかぜにふかれてさらさらとうごくこえに、みみかたむけてはむねをとどろかせた。)

稲田が秋風に吹かれてさらさらと動く声に、耳傾けては胸を轟かせた。

(たえまなくまどのそとのやみにめをくばって、みちばたのすすきのむれが)

絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばって、道ばたのすすきのむれが

(しろくぽっかりはなさきにうかぶと、のけぞるくらいびっくりした。)

白くぽっかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくらいびっくりした。

(げんかんのほのぐらいけんとうのしたでうちのひとたちがうようよでむかえていた。)

玄関のほの暗い軒燈の下でうちの人たちがうようよ出迎えていた。

(ばしゃがとまったとき、みよもばたばたはしってげんかんからでてきた。)

馬車がとまったとき、みよもばたばた走って玄関から出て来た。

(さむそうにかたをまるくすぼめていた。そのよる、にかいのひとまにねてから、わたしはひじょうに)

寒そうに肩を丸くすぼめていた。その夜、二階の一間に寝てから、私は非常に

(さびしいことをかんがえた。ぼんよくというかんねんにくるしめられたのである。)

淋しいことを考えた。凡欲という観念に苦しめられたのである。

(みよのことがおこってからは、わたしもとうとうばかになってしまったのではないか。)

みよのことが起こってからは、私もとうとう莫迦になって了ったのではないか。

(おんなをおもうなど、だれにでもできることである。しかし、わたしはちがう、ひとくちには)

女を思うなど、誰にでもできることである。しかし、私はちがう、ひとくちには

(いえぬがちがう。わたしのばあいは、あらゆるいみでかとうでない。)

言えぬがちがう。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。

(しかし、おんなをおもうほどのものはだれでもそうかんがえているのではないか。)

しかし、女を思うほどの者は誰でもそう考えているのではないか。

(しかし、とわたしはじしんのたばこのけむりにむせびながらごうじょうをはった。)

しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張った。

(わたしのばあいにはしそうがある!)

私の場合には思想がある!

(わたしはそのよる、みよとけっこんするについて、かならずさけられないうちのひとたちとの)

私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの

(ろんそうをおもい、さむいほどのゆうきをえた。わたしのすべてのこういはぼんよくでない、)

論争を思い、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為は凡欲でない、

(やはりわたしはこのよのかなりなたんいにちがいないのだ、とかくしんした。)

やはり私はこの世のかなりな単位にちがいないのだ、と確信した。

(それでもひどくさびしかった。さびしさが、どこからくるのかわからなかった。)

それでもひどく淋しかった。淋しさが、どこから来るのか判らなかった。

(どうしてもねつかれないので、あのあんまをした。みよのことをすっかりあたまから)

どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から

(ぬいてした。みよをよごすきにはなれなかったのである。)

抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。

(あさ、めをさますと、あきぞらがたかくすんでいた。わたしははやくからおきて、)

朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでいた。私は早くから起きて、

(むかいのはたけへぶどうをとりにでかけた。みよにおおきいたけかごをもたせて)

むかいの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせて

(ついてこさせた。わたしはできるだけきがるなふうでみよにそういいつけたのだから、)

ついて来させた。私はできるだけ気軽なふうでみよにそう言いつけたのだから、

(だれにもあやしまれなかったのである。ぶどうだなははたけのとうなんのすみにあって、)

誰にも怪しまれなかったのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあって、

(じゅっつぼぐらいのおおきさにひろがっていた。ぶどうのじゅくすころになると、よしずで)

十坪ぐらいの大きさにひろがっていた。葡萄の熟すころになると、よしずで

(しほうをきちんとかこった。わたしたちはかたすみのちいさいくぐりどをあけて、かこいのなかへ)

四方をきちんと囲った。私たちは片すみの小さい潜戸をあけて、かこいの中へ

(はいった。なかは、ほっかりとあたたかかった。にさんびきのきいろいあしながばちが、)

はいった。なかは、ほっかりと暖かった。ニ三匹の黄色いあしながばちが、

(ぶんぶんいってとんでいた。あさひが、やねのぶどうのはと、まわりのよしずを)

ぶんぶん言って飛んでいた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まわりのよしずを

(すかしてあかるくさしていて、みよのすがたもうすみどりいろにみえた。)

透かして明るくさしていて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。

(ここへくるとちゅうには、わたしもあれこれとけいかくして、あくとうらしくくちまげてほほえんだり)

ここへ来る途中には、私もあれこれと計画して、悪党らしく口まげて微笑んだり

(したのであったが、こうしてたったふたりきりになってみると、)

したのであったが、こうしてたった二人きりになってみると、

(あまりのきづまりからほとんどふきげんになってしまった。わたしはそのいたのくぐりどをさえ)

あまりの気づまりから殆ど不機嫌になって了った。私はその板の潜戸をさえ

(あけたままにしていたものだ。わたしはせがたかかったから、ふみだいなしに、)

あけたままにしていたものだ。私は脊が高かったから、踏台なしに、

(ぱちんぱちんとうえきばさみでぶどうのふさをつんだ。そして、いちいちそれをみよへ)

ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ

(てわたした。みよはそのひとふさひとふさのあさつゆをしろいえぷろんでてばやくふきとって、)

手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとって、

(したのかごにいれた。わたしたちはひとこともかたらなかった。ながいじかんのようにおもわれた)

下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかった。永い時間のように思われた

(そのうちにわたしはだんだんおこりっぽくなった。ぶどうがやっとかごいっぱいに)

そのうちに私はだんだん怒りっぽくなった。葡萄がやっと籠いっぱいに

(なろうとするころ、みよは、わたしのわたすひとふさへさしのべてよこしたかたてを、)

なろうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、

(ぴくっとひっこめた。わたしは、ぶどうをみよのほうへおしつけ、おい、とよんで)

ぴくっとひっこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで

(したうちした。みよは、みぎてのつけねをひだりてできゅっとにぎっていきんでいた。)

舌打ちした。みよは、右手の付根を左手できゅっと握っていきんでいた。

(さされたべ、ときくと、ああ、とまぶしそうにめをほそめた。)

刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしそうに眼を細めた。

(ばか、とわたしはしかってしまった。みよはだまって、わらっていた。これいじょうわたしはそこに)

ばか、と私は叱って了った。みよは黙って、笑っていた。これ以上私はそこに

(いたたまらなかった。くすりつけてやる、といってそのかこいからとびだした。)

いたたまらなかった。くすりつけてやる、と言ってそのかこいから飛び出した。

(すぐおもやへつれてかえって、わたしはあんもにあのびんをちょうばのくすりだなからさがしてやった。)

すぐ母屋へつれて帰って、私はアンモニアの瓶を帳場の薬棚から捜してやった。

(そのむらさきのがらすびんを、できるだけらんぼうにみよへてわたしたきりで、)

その紫の硝子瓶を、できるだけ乱暴にみよへ手渡したきりで、

(じぶんでぬってやろうとはしなかった。)

自分で塗ってやろうとはしなかった。

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