晩年 ㊳

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太宰 治

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問題文

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(そのよる、だいぶふけてから、ようぞうのあにがびょうしつをおとずれた。ようぞうはひだとこすがと)

その夜、だいぶ更けてから、葉蔵の兄が病室を訪れた。葉蔵は飛騨と小菅と

(さんにんで、とらんぷをしてあそんでいた。きのうあにがここへはじめてきたときにも、)

三人で、トランプをして遊んでいた。きのう兄がここへはじめて来たときにも、

(かれらはとらんぷをしていたはずである。けれどもかれらはいちにちいっぱい)

彼等はトランプをしていた筈である。けれども彼等はいちにちいっぱい

(とらんぷをいじくってばかりいるわけでない。むしろかれらは、とらんぷを)

トランプをいじくってばかりいるわけでない。むしろ彼等は、トランプを

(いやがっているほどなのだ。よほどたいくつしたときでなければもちださぬ。)

いやがっている程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。

(それも、おのれのこせいをじゅうぶんにはっきできないようなげえむはきっとさける。)

それも、おのれの個性を十分に発揮できないようなゲエムはきっと避ける。

(てじなをこのむ。さまざまなとらんぷのてじなをじぶんでくふうしてやってみせる。)

手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやって見せる。

(そしてわざとそのたねをみやぶらせてやる。わらう。それからまだある。)

そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑う。それからまだある。

(とらんぷのふだをいちまいふせて、さあ、これはなんだ、とひとりがいう。)

トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言う。

(すぺえどのじょおう。くらぶのきし。それぞれがおもいおもいにしゅこうこらした)

スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもいおもいに趣向こらした

(でたらめをのべる。ふだをひらく。あたったためしのないのだが、それでもいつかは)

出鱈目を述べる。札をひらく。当たったためしのないのだが、それでもいつかは

(ぴったりあたるだろう、とかれらはかんがえる。あたったら、どんなにゆかいだろう。)

ぴったり当たるだろう、と彼等は考える。あたったら、どんなに愉快だろう。

(つまりかれらは、ながいしょうぶがいやなのだ。いちかばち。ひらめくしょうぶがすきなのだ)

つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ

(だから、とらんぷをもちだしても、じゅっぷんそれをてにしていない。いちにちにじゅっぷんかん。)

だから、トランプを持ち出しても、十分それを手にしていない。一日に十分間。

(そのみじかいじかんにあにがにどもきあわせた。あにはびょうしつへはいってきて、)

そのみじかい時間に兄が二度も来合わせた。兄は病室へはいって来て、

(ちょっとまゆをひそめた。いつものんきにとらんぷだ、とかんがえちがいしたのである)

ちょっと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考えちがいしたのである

(このようなふこうはじんせいにままある。ようぞうはびじゅつがっこうじだいにも、これとおなじような)

このような不幸は人生にままある。葉蔵は美術学校時代にも、これと同じような

(ふこうをかんじたことがある。いつかのふらんすごのじかんに、かれはさんどほどあくびを)

不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびを

(して、そのしゅんかんしゅんかんにきょうじゅとしせんがあった。たしかにたったさんどであった。)

して、その瞬間瞬間に教授と視線が合った。たしかにたった三度であった。

(にほんゆうすうのふらんすごがくしゃであるそのろうきょうじゅは、さんどめに、たまりかねたように)

日本有数のフランス語学者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたように

など

(して、おおごえでいった。「きみは、ぼくのじかんにはあくびばかりしている。いちじかんに)

して、大声で言った。「君は、僕の時間にはあくびばかりしている。一時間に

(ひゃっかいあくびをする。」きょうじゅには、そのあくびのおおすぎるかいすうをじじつかぞえて)

百回あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる回数を事実かぞえて

(みたようなきがしているらしかった。ああ、むねんむそうのけっかをみよ。)

みたような気がしているらしかった。ああ、無念無想の結果を見よ。

(ぼくは、とめどもなくだらだらとかいている。さらにじんようをたてなおさなければ)

僕は、とめどもなくだらだらと書いている。更に陣容を立て直さなければ

(いけない。むしんにかくきょうちなど、ぼくにはとてもくわだておよばぬ。いったいこれは、)

いけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いったいこれは、

(どんなしょうせつになるのだろう。はじめからよみかえしてみよう。)

どんな小説になるのだろう。はじめから読み返してみよう。

(ぼくは、かいひんのりょうよういんをかいている。このへんは、なかなかけしきがよいらしい。)

僕は、海浜の療養院を書いている。この辺は、なかなか景色がよいらしい。

(それにりょうよういんのなかのひとたちも、すべてあくにんでない。ことにさんにんのせいねんは、)

それに療養院のなかのひとたちも、すべて悪人でない。ことに三人の青年は、

(ああ、これはぼくたちのえいゆうだ。これだな。むずかしいりくつはくそにもならぬ。)

ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むずかしい理屈はくそにもならぬ。

(ぼくはこのさんにんを、しゅちょうしているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる)

僕はこの三人を、主張しているだけだ。よし、それにきまった。むりにもきめる

(なにもいうな。あには、みんなにかるくあいさつした。それからひだへなにかみみうちした)

なにも言うな。兄は、みんなに軽く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした

(ひだはうなずいて、こすがとまのへめくばせした。さんにんがびょうしつからでるのをまって)

飛騨はうなずいて、小菅と真野へ目くばせした。三人が病室から出るのを待って

(あにはいいだした。「でんきがくらいな。」「うん。このびょういんじゃあかるいでんきを)

兄は言いだした。「電気がくらいな。」「うん。この病院じゃ明るい電気を

(つけさせないのだ。すわらない?」ようぞうがさきにそふぁへすわって、そういった。)

つけさせないのだ。坐らない?」葉蔵がさきにソファへ坐って、そう言った。

(「ああ。」あにはすわらずに、くらいでんきゅうをきがかりらしくちょいちょい)

「ああ。」兄は坐らずに、くらい電球を気がかりらしくちょいちょい

(ふりあおぎつつ、せまいびょうしつのなかをあちこちとあるいた。「どうやら、こっちのほう)

ふり仰ぎつつ、狭い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こっちのほう

(だけは、かたづいた。」「ありがとう。」ようぞうはそれをくちのなかでいって、)

だけは、片づいた。」「ありがとう。」葉蔵はそれを口のなかで言って、

(こころもちあたまをさげた。「わたしはなんともおもっていないよ。だが、これからいえへ)

こころもち頭をさげた。「私はなんとも思っていないよ。だが、これから家へ

(かえるとまたうるさいのだ。」きょうははかまをはいていなかった。くろいはおりには、)

帰るとまたうるさいのだ。」きょうは袴をはいていなかった。黒い羽織には、

(なぜかはおりひもがついていなかった。「わたしも、できるだけのことはするが、)

なぜか羽織紐がついていなかった。「私も、できるだけのことはするが、

(おまえからもおやじへよいぐあいにてがみをだしたほうがいい。おまえたちは、)

お前からも親爺へよい工合いに手紙を出したほうがいい。お前たちは、

(のんきそうだが、しかし、めんどうなじけんだよ。」ようぞうはへんじをしなかった。)

のんきそうだが、しかし、めんどうな事件だよ。」葉蔵は返事をしなかった。

(そふぁにちらばっているとらんぷのふだをいちまいてにとってみつめていた。)

ソファにちらばっているトランプの札をいちまい手にとって見つめていた。

(「だしたくないなら、ださなくていい。あさって、けいさつへいくんだ。けいさつでも、)

「出したくないなら、出さなくていい。あさって、警察へ行くんだ。警察でも、

(いままで、わざわざとりしらべをのばしてくれていたのだ。きょうはわたしとひだとが)

いままで、わざわざ取調べをのばして呉れていたのだ。きょうは私と飛騨とが

(しょうにんとしてとりしらべられた。ふだんのおまえのそこうをたずねられたから、おとなしい)

証人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたずねられたから、おとなしい

(ほうでしたとこたえた。しそうじょうになにかふしんはなかったか、ときかれて、)

ほうでしたと答えた。思想上になにか不審はなかったか、と聞かれて、

(ぜったいにありません。」あにはあるきまわるのをやめて、ようぞうのまえのひばちに)

絶対にありません。」兄は歩きまわるのをやめて、葉蔵のまえの火鉢に

(たちはだかり、おおきいりょうてをすみびのうえにかざした。ようぞうはそのてのこまかく)

立ちはだかり、おおきい両手を炭火のうえにかざした。葉蔵はその手のこまかく

(ふるえているのをぼんやりみていた。「おんなのひとのこともきかれた。ぜんぜん)

ふるえているのをぼんやり見ていた。「女のひとのことも聞かれた。全然

(しりません、といっておいた。ひだもだいたいおなじことをじんもんされたそうだ。)

知りません、と言って置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたそうだ。

(わたしのとうべんとふごうしたらしいよ。おまえも、ありのままをいえばいい。」)

私の答弁と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言えばいい。」

(ようぞうにはあにのことばのうらがわかっていた。しかし、そしらぬふりをしていた。)

葉蔵には兄の言葉の裏が判っていた。しかし、そしらぬふりをしていた。

(「いらないことはいわなくていい。きかれたことだけをはっきりこたえるのだ。」)

「要らないことは言わなくていい。聞かれたことだけをはっきり答えるのだ。」

(「きそされるのかな。」ようぞうはとらんぷのふだのふちをみぎてのひとさしゆびで)

「起訴されるのかな。」葉蔵はトランプの札の縁を右手のひとさし指で

(なでまわしながらひくくつぶやいた。「わからん。それはわからん。」ごちょうをつよめて)

撫でまわしながらひくく呟いた。「判らん。それは判らん。」語調をつよめて

(そういった。「どうせしごにちはけいさつへとめられるとおもうから、そのよういをして)

そう言った。「どうせ四五日は警察へとめられると思うから、その用意をして

(いけ。あさってのあさ、わたしはここへむかえにくる。いっしょにけいさつへいくんだ。」)

行け。あさっての朝、私はここへ迎えに来る。一緒に警察へ行くんだ。」

(あには、すみびへひとみをおとして、しばらくだまった。ゆきどけのしずくのおとがなみのひびきに)

兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく黙った。雪解けの雫のおとが浪の響きに

(まじってきこえた。「こんどのじけんはじけんとして、」だしぬけにあにはぽつんと)

まじって聞えた。「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと

(いいだした。それから、なにげなさそうなくちょうですらすらいいつづけた。)

言いだした。それから、なにげなさそうな口調ですらすら言いつづけた。

(「おまえも、ずっとしょうらいのことをかんがえてみないといけないよ。いえにだって、)

「お前も、ずっと将来のことを考えて見ないといけないよ。家にだって、

(そうそうかねがあるわけではないからな。ことしは、ひどいふさくだよ。おまえに)

そうそう金があるわけではないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に

(しらせたってなんにもならぬだろうが、うちのぎんこうもいまあぶなくなっているし、)

知らせたってなんにもならぬだろうが、うちの銀行もいま危くなっているし、

(たいへんなさわぎだよ。おまえはわらうかもしれないが、げいじゅつかでもなんでも、)

たいへんな騒ぎだよ。お前は笑うかも知れないが、芸術家でもなんでも、

(だいいちばんにせいかつのことをかんがえなければいけないとおもうな。まあ、これから)

だいいちばんに生活のことを考えなければいけないと思うな。まあ、これから

(うまれかわったつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。わたしは、もうかえろう。)

生れ変ったつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう帰ろう。

(ひだもこすがも、わたしのはたごへとめるようにしたほうがいい。)

飛騨も小菅も、私の旅籠へ泊めるようにしたほうがいい。

(ここでまいばんさわいでいては、まずいことがある。)

ここで毎晩さわいでいては、まずいことがある。

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