大川の水 3

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芥川龍之介

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問題文

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(けれども、じぶんをみするものはひとりおおかわのみずのひびきばかりではない。)

けれども、自分を魅するものは独り大川の水の響ばかりではない。

(じぶんにとっては、このかわのみずのひかりがほとんど、どこにもみいだしがたい、)

自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見出し難い、

(なめらかさとあたたかさとをもっているようにおもわれるのである。)

滑らかさと暖かさとを持っているように思われるのである。

(うみのみずは、たとえばじゃすぱあのいろのようにあまりにおもくみどりをこらしている。)

海の水は、例えば碧玉の色のようにあまりに重く緑を凝らしている。

(といってしおのまんかんをまったくかんじないじょうりゅうのかわのみずは、)

といって潮の満干を全く感じない上流の川の水は、

(いわゆるえめらるどのいろのように、あまりにかるく、)

いわゆるエメラルドの色のように、あまりに軽く、

(あまりにうすっぺらにひかりすぎる。)

あまりに薄っぺらに光りすぎる。

(ただたんすいとしおみずとがこうさくするへいげんのたいがのみずは、ひややかなあおに、)

ただ淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷やかな青に、

(にごったきのあたたかみをまじえて、どことなくひゅうまないずされたしたしさと、)

濁った黄の暖かみを交えて、どことなく人間化された親しさと、

(にんげんらしいいみにおいて、らいふらいくな、)

人間らしい意味において、ライフライクな、

(なつかしさがあるようにおもわれる。)

なつかしさがあるように思われる。

(ことにおおかわは、あかちゃけたねんどのおおいかんとうへいやをゆきつくして、)

ことに大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、

(「とうきょう」というだいとかいをしずかにながれているだけに、そのにごって、しわをよせて、)

「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、

(きむずかしいゆだやのろうやのように、ぶつぶつぐちこごとをいうみずのいろが、)

気むずかしい猶太の老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、

(いかにもおちついた、ひとなつかしい、てざわりのいいかんじをもっている。)

いかにも落付いた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。

(そうして、おなじくまちのなかをながれるにしても、なお「うみ」というおおきなしんぴと、)

そうして、同じく市の中を流れるにしても、なお「海」という大きな神秘と、

(たえずちょくせつのこうつうをつづけているためか、)

絶えず直接の交通を続けているためか、

(がわとかわとをつなぐほりわりのみずのようにくらくない。ねむっていない。どことなく、)

川と川とをつなぐ掘割の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、

(いきてうごいているというきがする。しかもそのうごいてゆくさきは、)

生きて動いているという気がする。しかもその動いてゆく先は、

(むしむしゅうにわたる「えいえん」のふしぎだというきがする。)

無始無終にわたる「永遠」の不思議だという気がする。

など

(あづまばし、うまやばし、りょうごくばしのあいだ、こうゆのようなあおいみずが、)

吾妻橋、厩橋、両国橋の間、香油のような青い水が、

(おおきなはしだいのかこうせきとれんがとをひたしてゆくうれしさはいうまでもない。)

大きな橋台の花崗石と煉瓦とをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。

(きしにちかくふなやどのしろいあんどんをうつし、ぎんのはうらをひるがえすやなぎをうつし、)

岸に近く船宿の白い行燈をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、

(またすいもんにせかれてはしゃみせんのおとのぬるむひるすぎを、)

また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、

(べにふようのはなになげきながら、きのよわいあひるのはねにみだされて、)

紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみだされて、

(ひとけのないくりやのしたをしずかにひかりながらながれるのも、)

人気のない厨の下を静かに光りながら流れるのも、

(そのおもおもしいみずのいろにいうべからざるおんじょうをぞうしていた。)

その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。

(たとえ、りょうごくばし、しんおおはし、えいたいばしと、かこうにちかづくにしたがって、かわのみずは、)

たとえ、両国橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに従って、川の水は、

(いちじるしくだんちょうのしんらんしょくをまじえながら、そうおんとえんじんとにみちたくうきのしたに、)

著しく暖潮の深藍色を交えながら、騒音と煙塵とにみちた空気の下に、

(しろくただれたひをぎらぎらとぶりきのようにはんしゃして、)

白く爛れた日をぎらぎらとブリキのように反射して、

(せきたんをつんだだるまぶねやしろぺんきのはげたこふうなきせんをものうげに)

石炭を積んだ達磨船や白ペンキの剥げた古風な汽船をものうげに

(ゆすぶっているにしても、しぜんのこきゅうとがおちあって、)

揺すぶっているにしても、自然の呼吸とが落ち合って、

(いつのまにかゆうごうしたとかいのみずのいろのあったかさは、)

いつの間にか融合した都会の水の色の暖かさは、

(よういにきえてしまうものではない。)

容易に消えてしまうものではない。

(ことにひぐれ、かわのみずにたちこめるすいじょうきと、)

ことに日暮れ、川の水に立ち込める水蒸気と、

(しだいにくらくなるゆうぞらのうすあかりとは、このおおかわのみずをして、)

次第に暗くなる夕空の薄明かりとは、この大川の水をして、

(ほとんど、ひゆをたやした、ぜつみょうなしきちょうをおばしめる。)

ほとんど、比喩を絶した、絶妙な色調を帯ばしめる。

(じぶんはひとり、わたしぶねのふなばたにひじをついて、もうもやのおりかけた、)

自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄の下りかけた、

(はくぼのかわのみのもを、なんということもなくみわたしながら、)

薄暮の川の水面を、なんという事もなく見渡しながら、

(そのあんりょくしょくのみずのあなた、くらいいえいえのそらにおおきなあかいつきのでをみて、)

その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、

(おもわずなみだをながしたのを、おそらくしゅうせいわすれることはできないであろう。)

思わず涙を流したのを、おそらく終生忘れることはできないであろう。

(「すべてのまちは、そのまちにこゆうなにおいをもっている。)

「すべての市は、その市に固有なにおいを持っている。

(ふっれんすのにおいは、いりすのしろいはなとほこりともやと)

フロレンスのにおいは、イリスの白い花と埃と靄と

(いにしえのかいがのにすとのにおいである」(めれじゅこうすきい))

古の絵画のニスとのにおいである」(メレジュコウスキイ)

(もしじぶんに「とうきょう」のにおいをとうひとがあるならば、)

もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、

(じぶんはおおかわのみずのにおいとこたえるのになんのちゅうちょもしないであろう。)

自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。

(ひとりにおいのみではない。おおかわのみずのいろ、おおかわのみずのひびきは、)

独りにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、

(わがあいする「とうきょう」のいろであり、こえでなければならない。)

わが愛する「東京」の色であり、声でなければならない。

(じぶんはおおかわあるがゆえに、「とうきょう」をあいし、「とうきょう」あるがゆえに、)

自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、

(せいかつをあいするのである。)

生活を愛するのである。

(そのあと「いちのはしのわたし」のたえたことをきいた。)

その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。

(「むくらばしのわたし」のすたれるのもまがあるまい。)

「御藏橋の渡し」の廃れるのも間があるまい。

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