河童 1 芥川龍之介
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問題文
(これはあるせいしんびょういんのかんじゃ、だいにじゅうさんごうがだれにでもしゃべるはなしである。)
これはある精神病院の患者、第二十三号がだれにでもしゃべる話である。
(かれはもうさんじゅうをこしているであろう。が、いっけんしたところはいかにもわかわかしい)
彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい
(きょうじんである。かれのはんせいのけいけんは、ーーーいや、そんなことはどうでもよい。)
狂人である。彼の半生の経験は、ーーーいや、そんなことはどうでもよい。
(かれはただじっとりょうひざをかかえ、ときどきまどのそとへめをやりながら、)
彼はただじっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、
((てつごうしをはめたまどのそとにはかれはさえみえないかしのきがいっぽん、ゆきぐもりのそらに)
(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に
(えだをはっていた)いんちょうのsはかせやぼくをあいてにながながとこのはなしをしゃべりつづけた。)
枝を張っていた)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。
(もっともみぶりはしなかったわけではない。かれはたとえば「おどろいた」というときに)
もっとも身ぶりはしなかったわけではない。彼はたとえば「驚いた」と言う時に
(はきゅうにかおをのけぞらせたりした。ぼくはこういうかれのはなしをかなりせいかくにうつした)
は急に顔をのけぞらせたりした。僕はこういう彼の話をかなり正確に写した
(つもりである。もしまただれかぼくのひっきにあきたりないひとがあるとすれば、)
つもりである。もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、
(とうきょうしがいばつむらのsせいしんびょういんをたずねてみるがよい。としよりもわかいだいにじゅうさんごうは)
東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。年よりも若い第二十三号は
(ていねいにあたまをさげ、ふとんのないいすをゆびさすであろう。それからゆううつなびしょう)
丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであろう。それから憂鬱な微笑を
(をうかべ、しずかにこのはなしをくりかえすであろう。さいごに、ーーぼくはこのはなしを)
を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであろう。最後に、ーー僕はこの話を
(おわったときのかれのかおいろをおぼえている。かれはさいごにみをおこすがはやいか、たちまち)
終わった時の彼の顔色を覚えている。彼は最後に身を起こすが早いか、たちまち
(げんこつをふりまわしながら、だれにでもこうどなりつけるであろう。)
拳骨をふりまわしながら、だれにでもこう怒鳴りつけるであろう。
(ーー「でていけ!このあくとうめが!きさまもばかな、しっとぶかい、)
ーー「出て行け!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、
(ずうずうしい、うぬぼれきった、ざんこくな、むしのいいどうぶつなんだろう。でていけ!)
ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出て行け!
(このあくとうめが!」)
この悪党めが!」
(いち さんねんまえのなつのことです。ぼくはひとなみにりゅっくさっくをせおい、あのかみこうち)
一 三年前の夏のことです。僕は人並みにリュックサックを背負い、あの上高地
(のおんせんやどからほたかやまへのぼろうとしました。ほたかやまへのぼるのにごぞんじのとおりあずさがわ)
の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのに御存知のとおり梓川
(をさかのぼるほかありません。ぼくはまえにほたかやまはもちろん、やりがたけにものぼって)
をさかのぼるほかありません。僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登って
(いましたから、あさきりのおりたあずさがわのたにをあんないしゃもつれずにのぼっていました。)
いましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登っていました。
(あさぎりのおりたあずさがわのたにをーーしかしそのきりはいつまでたってもはれるけしきは)
朝霧の下りた梓川の谷をーーしかしその霧はいつまでたっても晴れる景色は
(みえません。のみならずかえってふかくなるのです。ぼくはいちじかんばかりあるいたのち、)
見えません。のみならずかえって深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、
(いちどはかみこうちのおんせんやどへひきかえすことにしようかとおもいました。けれどもかみこうち)
一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地
(へひきかえすにしても、とにかくきりのはれるのをまったうえにしなければなりません)
へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません
(といってきりはいっこくごとにずんずんふかくなるばかりなのです。)
といって霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。
(「ええ、いっそのことのぼってしまえ。」ーーぼくはこうかんがえましたから、あずさがわの)
「ええ、いっそのこと登ってしまえ。」ーー僕はこう考えましたから、梓川の
(たにをはなれないようにくまざさのなかをわけてゆきました。しかしぼくのめをさえぎる)
谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。しかし僕の目をさえぎる
(ものはやはりふかいきりばかりです。もっともときどききりのなかからふといぶなやもみのえだ)
ものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い山毛欅や樅の枝
(があおあおとはをたらしたのもみえなかったわけではありません。それからまた)
が青あおと葉を垂らしたのも見えなかったわけではありません。それからまた
(ほうぼくのうまやうしもとつぜんぼくのまえへかおをだしました。けれどもそれらはみえたとおもうと)
放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれらは見えたと思うと
(たちまちもうもうとしたきりのなかにかくれてしまうのです。そのうちにあしもくたびれて)
たちまち濛々とした霧の中に隠れてしまうのです。そのうちに足もくたびれて
(くれば、はらもだんだんへりはじめる、ーーおまけにきりにぬれとおったとざんふくやもうふ)
くれば、腹もだんだん減りはじめる、ーーおまけに霧にぬれ透った登山服や毛布
(などもなみたいていのおもさではありません。ぼくはとうとうがをおりましたから、)
なども並みたいていの重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、
(いわにせかれているみずのおとをたよりにあずさがわのたにへおりることにしました。)
岩にせかれている水の音をたよりに梓川の谷へ下りることにしました。
(ぼくはみずぎわのいわにこしかけ、とりあえずしょくじにとりかかりました。)
僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。
(こおんどびいふの)
コオンド・ビイフの
(かんをきったり、かれえだをあつめてひをつけたり、そんなことをしているとうちに)
缶を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、そんなことをしているとうちに
(かれこれじゅっぷんはたったでしょう。そのあいだにどこまでもいじのわるいきりはいつか)
かれこれ十分はたったでしょう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつか
(ほのぼのとはれかかりました。ぼくはぱんをかじりながら、ちょっとうでどけいを)
ほのぼのと晴れかかりました。僕はパンをかじりながら、ちょっと腕時計を
(のぞいてみました。じこくはもういちじにじゅっぷんすぎです。が、それよりもおどろいたのは)
のぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは
(なにかきみのわるいかおがひとつ、まるいうでどけいのがらすのうえへちらりとかげをおとした)
何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落とした
(ことです。ぼくはおどろいてふりかえりました。すると、ーーぼくがかっぱというものをみた)
ことです。僕は驚いてふり返りました。すると、ーー僕が河童というものを見た
(のはじつにこのときがはじめてだったのです。ぼくのうしろにあるいわのうえにはえにある)
のは実にこの時がはじめてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画にある
(とおりのかっぱがいっぴき、かたてはしらかばのみきをかかえ、かたてはめのうえにかざしたなり、)
とおりの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、
(めずらしそうにぼくをみおろしていました。ぼくはあっけにとられたまま、しばらくは)
珍しそうに僕を見おろしていました。僕は呆気にとられたまま、しばらくは
(みうごきもしずにいました。かっぱもやはりおどろいたとみえ、めのうえのてさえ)
身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ
(うごかしません。そのうちにぼくはとびたつがはやいか、いわのうえのかっぱへおどりかかり)
動かしません。そのうちに僕は飛びたつが早いか、岩の上の河童へおどりかかり
(ました。どうじにまたかっぱもにげだしました。いや、おそらくはにげだした)
ました。同時にまた河童も逃げ出しました。いや、おそらくは逃げ出した
(のでしょう。じつはひらりとみをかわしとおもうと、たちまちどこかへきえて)
のでしょう。実はひらりと身をかわしと思うと、たちまちどこかへ消えて
(しまったのです。ぼくはいよいよおどろきながら、くまざさのなかをみまわしました。)
しまったのです。僕はいよいよ驚きながら、熊笹の中を見まわしました。
(するとかっぱはにげごしをしたなり、にさんめえとるへだたったむこうにぼくをふり)
すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔たった向こうに僕をふり
(かえってみているのです。それはふしぎでもなんでもありません。しかしぼくにいがい)
返って見ているのです。それは不思議でもなんでもありません。しかし僕に意外
(だったのはかっぱのからだのいろのことです。いわのうえにぼくをみていたかっぱはいちめんにはいいろ)
だったのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色
(をおびていました。けれどもいまはからだじゅうすっかりみどりいろにかわっているのです。)
を帯びていました。けれども今は体中すっかり緑色に変わっているのです。
(ぼくは「ちくしょう!」とおおこえをあげ、もういちどかっぱへとびかかりました。)
僕は「畜生!」とおお声をあげ、もう一度河童へ飛びかかりました。
(かっぱがにげだしたのはもちろんです。それからぼくはさんじゅっぷんばかり、くまざさを)
河童が逃げ出したのはもちろんです。それから僕は三十分ばかり、熊笹を
(つきぬけ、いわをとびこえ、しゃにむにかっぱをおいつづけました。かっぱもまたあしの)
突き抜け、岩を飛び越え、遮二無二河童を追いつづけました。河童もまた足の
(はやいことはけっしてさるなどにはおとりません。ぼくはむちゅうになっておいかけるあいだになんど)
早いことは決して猿などには劣りません。僕は夢中になって追いかける間に何度
(もそのすがたをみうしなおうとしました。のみならずあしをすべらしてころがったことも)
もその姿を見失おうとしました。のみならず足をすべらして転がったことも
(たびたびです。が、おおきいとちのきがいっぽん、ふとぶととえだをはったしたへくると、)
たびたびです。が、大きい橡の木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、
(さいわいにもほうぼくのうしがいっぴき、かっぱのゆくさきへたちふさがりました。しかもそれは)
幸いにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ちふさがりました。しかもそれは
(つののふとい、めをちばしらせたおうしなのです。かっぱはこのおうしをみると、なにかひめい)
角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴
(をあげながら、ひときわたかいくまざさのなかへもんどりをうつようにとびこみました。)
をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛びこみました。
(ぼくは、ーーぼくも「しめた」とおもいましたから、いきなりそのあとへおいすがり)
僕は、ーー僕も「しめた」と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがり
(ました。が、われわれにんげんのこころはこういうききいっぱつのさいにもとほうもないことを)
ました。が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途方もないことを
(かんがえるものです。ぼくは「あっ」とおもうひょうしにあのかみこうちのおんせんやどのそばに)
考えるものです。僕は「あっ」と思う拍子にあの上高地の温泉宿のそばに
(「かっぱばし」というはしがあるのをおもいだしました。それから、ーーそれからさきの)
「河童橋」という橋があるのを思い出しました。それから、ーーそれから先の
(ことはおぼえていません。ぼくはただめのまえにいなずまににたものをかんじたきり、)
ことは覚えていません。僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたきり、
(いつのまにかしょうきをうしなっていました。)
いつの間にか正気を失っていました。