蜜柑 1

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プレイ回数970難易度(4.2) 3279打 長文 かな
芥川龍之介

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問題文

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(あるくもったひのひぐれである。)

ある曇った日の日暮である。

(わたしはよこすかはつのぼりにとうきゃくしゃのすみにこしをおろして、ぼんやりはっしゃのふえをまっていた)

私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の笛を待っていた

(とうにでんとうのついたきゃくしゃのなかには、めずらしくわたしのほかにひとりもじょうきゃくはいなかった。)

とうに電燈のついた客車の中には、珍しく私のほかに一人も乗客はいなかった。

(そとをのぞくと、うすぐらいぷらっとふぉおむにも、)

外を覗くと、薄暗いプラットフォオムにも、

(きょうはめずらしくみおくりのひとかげさえあとをたって、ただ、おりにいれられたこいぬがいっぴき、)

今日は珍しく見送りの人影さえ跡を絶って、ただ、檻に入れられた子犬が一匹、

(ときどきかなしそうに、ほえてたてていた。)

時々悲しそうに、吠えて立てていた。

(これらはそのときのわたしのこころもちと、ふしぎなくらいにつかわしいけしきだった。)

コレラはその時の私の心もちと、不思議なくらい似つかわしい景色だった。

(わたしのあたまのなかにはいいようのないひろうとけんたいとが、)

私の頭の中には言いようのない疲労と倦怠とが、

(まるでゆきぐもりのそらのようなどんよりしたかげをおとしていた。)

まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落としていた。

(わたしはがいとうのぽっけっとへじっとりょうてをつっこんだまま、)

私は外套のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、

(そこにはいっているゆうかんをみようというげんきさえおこらなかった。)

そこにはいっている夕刊を見ようという元気さえ起らなかった。

(が、やがてはっしゃのふえがなった。)

が、やがて発車の笛が鳴った。

(わたしはかすかなこころのくつろぎをかんじながら、うしろのまどわくへあたまをもたせて、めのまえの)

私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後ろの窓枠へ頭をもたせて、目の前の

(ていしゃばがずるずるとあとずさりをはじめるのをまつともなくまちかまえていた。)

停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまえていた。

(ところがそれよりもさきにけたたましいひよりげたのおとが、)

ところがそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、

(かいさつぐちのほうからきこえだしたとおもうと、)

改札口の方から聞え出したと思うと、

(まもなくいいののしるこえとともに、わたしののっているにとうきゃくしつのとががらりとひらいて、)

間もなく言い罵る声とともに、私の乗っている二等客室の戸ががらりと開いて、

(じゅうさん、しのこむすめがひとり、あわただしくなかへはいってきた、)

十三、四の小娘が一人、あわただしく中へはいってきた、

(とどうじにひとつずしりとゆれて、おもむろにきしゃはうごきだした。)

と同時に一つずしりと揺れて、徐に汽車は動き出した。

(いっぽんずつめをくぎっていくぷらっとふぉおむのはしら、おきわすれたようなうんすいしゃ、)

一本ずつ目をくぎって行くプラットフォオムの柱、置き忘れたような運水車、

など

(それからしゃないのだれかにしゅうぎのれいをいっているあかぼう-そういうすべては、)

それから社内の誰かに祝儀の礼を言っている赤帽-そういうすべては、

(まどはふきつけるばいえんのなかに、みれんがましくうしろへたおれていった。)

窓は吹き付ける煤煙の中に、未練がましく後ろへ倒れて行った。

(わたしはようやくほっとしたこころもちになって、まきたばこにひをつけながら、)

私はようやくほっとした心もちになって、巻煙草に火をつけながら、

(はじめてものういまぶたをあげて、まえのせきにこしをおろしていたこむすめのかおをいちべつした。)

初めて懶い瞼をあげて、前の席に腰を下ろしていた小娘の顔を一瞥した。

(それはあぶらけのないかみをひっつめのいちょうがえしにゆって、)

それは油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結って、

(よこなでのあとのあるひびだらけのりょうほおをきもちのわるいほどあかくほてらせた、)

横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪いほど赤く火照らせた、

(いかにもいなかものらしいむすめだった。)

いかにも田舎者らしい娘だった。

(しかもあかじみたもえぎいろのけいとのえりまきがだらりとたれさがったひざのうえには、)

しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下がった膝の上には、

(おおきなふろしきづつみがあった。そのまたつつみをいだいたしもやけのてのなかには、)

大きな風呂敷包みがあった。そのまた包みを抱いた霜焼けの手の中には、

(さんとうのあかきっぷがだいじそうにしっかりにぎられていた。)

三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。

(わたしはこのこむすめのげひんなかおだちをこのまなかった。)

私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。

(それからかのじょのふくそうがふけつなのもやはりふかいだった。)

それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だった。

(さいごにそのにとうとさんとうのくべつさえもわきまえないぐどんなこころがはらだたしかった。)

最後にその二等と三等の区別さえも弁えない愚鈍な心が腹立たしかった。

(だからまきたばこにひをつけたわたしは、)

だから巻煙草に火をつけた私は、

(ひとつにはこのこむすめのそんざいをわすれたいというこころもちもあって、)

一つにはこの小娘の存在を忘れたいという心もちもあって、

(こんどはぽっけっとのゆうかんをまんぜんとひざのうえへひろげてみた。)

今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。

(するとそのときゆうかんのしめんにおちていたがいこうが、)

するとその時夕刊の紙面に落ちていた外光が、

(とつぜんのひかりにかわって、すりのわるいなにらんかのかつじがいがいなくらいあざやかに)

突然の光に変って、刷りの悪い何欄かの活字が意外なくらい鮮やかに

(わたしのめのなかへうかんできた。いうまでもなくきしゃはいま、)

私の眼の中へ浮かんできた。いうまでもなく汽車は今、

(よこすかせんにおおいとんねるのさいしょのそれへはいったのである。)

横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいったのである。

(しかしそのでんとうのひかりにてらされたゆうかんのしめんをみわたしても、)

しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、

(やはりわたしのゆううつをなぐさむべく、)

やはり私の憂鬱を慰むべく、

(せけんはあまりにへいぼんなできごとばかりでもちきっていた。)

世間はあまりに平凡な出来事ばかりで持ちきっていた。

(こうわもんだい、しんぷしんろう、とくしょくじけん、しぼうこうこく-わたしすいどうへはいったいっしゅんかん、)

講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告-私隧道へはいった一瞬間、

(きしゃのはしっているほうこうがぎゃくになったようなさっかくをかんじながら、)

汽車の走っている方向が逆になったような錯覚を感じながら、

(それらのさくばくとしたきじからきじへほとんどきかいてきにめをとおした。)

それらの索漠とした記事から記事へほとんど機械的に眼を通した。

(が、そのあいだももちろんあのこむすめが、)

が、その間ももちろんあの小娘が、

(あたかもひぞくなげんじつをにんげんにしたようなおももちで、)

あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持ちで、

(わたしのまえにすわっていることをたえずいしきせずにはいられなかった。)

私の前に坐っていることを絶えず意識せずにはいられなかった。

(このとんねるのなかのきしゃと、このいなかもののこむすめと、)

この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、

(そうしてまたこのへいぼんなきじにうまっているゆうかんと、)

そうしてまたこの平凡な記事に埋まっている夕刊と、

(-これがしょうちょうでなくなんであろう。)

-これが象徴でなくなんであろう。

(ふかかいな、かとうな、ふとうな、たいくつなじんせいのしょうちょうでなくてなんであろう。)

不可解な、下等な、不等な、退屈な人生の象徴でなくてなんであろう。

(わたしはいっさいがくだらなくなって、よみかけたゆうかんをほりだすと、)

私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を抛り出すと、

(またまどわくにあたまをもたせながら、しんだようにめをつぶって、うつらうつらしはじめた)

また窓枠に頭を靠せながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた

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