蜜柑 2
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問題文
(それからいくぶんかすぎたあとであった。)
それから幾分か過ぎた後であった。
(ふとなにかにおどかされたようなこころもちがして、おもわずあたりをみまわすと、)
ふと何かに脅かされたような心もちがして、思わずあたりを見まわすと、
(いつのまにかれいのこむすめが、むこうがわからせきをわたしのとなりへうつして、)
いつの間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、
(しきりにまどをあけようとしている。)
しきりに窓を開けようとしている。
(が、おもいがらすどはなかなかおもうようにあがらないらしい。)
が、重い硝子戸はなかなか思うようにあがらないらしい。
(あのひびだらけのほおはいよいよあかくなって、ときどきはなをすすりこむおとが、)
あの皸だらけの頬はいよいよ赤くなって、時々鼻洟をすすりこむ音が、
(ちいさないきのきれるこえといっしょに、せわしなくみみへはいってくる。)
小さな息の切れる声といっしょに、せわしなく耳へはいってくる。
(これはもちろんわたしにも、いくぶんながらどうじょうをひくにたるものにはそういなかった)
これはもちろん私にも、いくぶんながら同情を惹くに足るものには相違なかった
(しかしきしゃがいままさにとんねるのくちへさしかかろうとしていることは、)
しかし汽車が今まさに隧道の口へさしかかろうとしていることは、
(ぼしょくのなかにかれくさばかりあかるいりょうがわのさんぷくが、)
暮れ色の中に枯草ばかり明るい両側の山腹が、
(まぢかくまどがわにせまってきたのでも、すぐにがてんのいくことであった。)
間近く窓側に迫ってきたのでも、すぐに合点の行くことであった。
(にもかかわらずこのこむすめは、わざわざしめてあるまどのとをおろそうとする、)
にもかかわらずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下ろそうとする、
(-そのりゆうがわたしにはのみこめなかった。)
-その理由が私には呑みこめなかった。
(いや、それがわたしには、たんにこのこむすめのきまぐれだとしかかんがえられなかった。)
いや、それが私には、単にこの小娘のきまぐれだとしか考えられなかった。
(だからわたしははらのそこにいぜんとしてけわしいかんじょうをたくわえながら、)
だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、
(あのしもやけのてががらすどをもたげようとしてあくせんくとうしているようすを、)
あの霜焼けの手が硝子戸をもたげようとして悪戦苦闘している容子を、
(まるでそれがえいきゅうにせいこうしないことでもいのるようなれいこくなめでながめていた。)
まるでそれが永久に成功しないことでも祈るような冷酷な眼で眺めていた。
(するとまもなくすさまじいおとをはためかせて、きしゃがとんねるへなだれこむとどうじに、)
すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、
(こむすめのあけようとしたがらすどは、とうとうばたりとしたへおちた。)
小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。
(そうしてそのしかくなあなのなかから、すすをとかしたようなどすぐろいくうきが、)
そうしてその四角な穴の中から、煤を溶かしたようなどす黒い空気が、
(にわかにいきぐるしいけむりになって、もうもうとしゃないへみなぎりだした。)
にわかに息苦しい煙になって、濛々と車内へ漲り出した。
(がんらいのどをがいしていたわたしは、はんけちをかおにあてるひまさえなく、)
元来咽喉を害していた私は、ハンケチを顔に当てる暇さえなく、
(このけむりをまんめんにあびせられたおかげで、)
この煙を満面に浴びせられたおかげで、
(ほとんどいきもつけないほどせきこまなければならなかった。)
ほとんど息もつけないほど咳きこまなければならなかった。
(が、こむすめはわたしにとんちゃくするきしょくもみえず、まどからそとへくびをのばして、)
が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、
(やみをふくかぜにいちょうがえしのびんのけをそよがせながら、)
闇を吹く風に銀杏返しの鬢の毛を戦がせながら、
(じっときしゃのすすむほうこうをみやっている。)
じっと汽車の進む方向を見やっている。
(そのすがたをばいえんとでんとうのひかりとのなかにながめたとき、)
その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、
(もうまどのそとがみるみるあかるくなって、)
もう窓の外が見る見る明るくなって、
(そこからつちのにおいやかれくさのにおいがひややかにながれこんでこなかったなら、)
そこから土の匀や枯草の匀が冷ややかに流れ込んでこなかったなら、
(ようやくせきやんだわたしは、このみしらないこむすめをあたまごなしにしかりつけてでも、)
ようやく咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、
(またもとのとおりまどのとをしめさせたのにそういなかったのである。)
また元のとおり窓の戸をしめさせたのに相違なかったのである。
(しかしきしゃはそのじぶんには、もうやすやすととんねるをすべりぬけて、)
しかし汽車はその時分には、もうやすやすと隧道を辷りぬけて、
(かれくさのやまとやまとのあいだにはさまれた、あるまずしいまちはずれのふみきりにとおりかかっていた)
枯草の山と山との間に挟まれた、ある貧しい町はずれの踏切に通りかかっていた
(ふみきりのちかくには、いずれもみすぼらしい)
踏切の近くには、いずれも見すぼらしい
(わらやねやかわらやねがごみごみとせまくるしくたてこんで、ふみきりばんがふるのであろう、)
藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切番が降るのであろう、
(ただいちりゅうのうすしろいはたがものうげにぼしょくをゆすっていた。)
ただ一りゅうのうす白い旗がものうげに暮色を揺すっていた。
(やっととんねるをでたとおもう-そのときそのしょうさくとしたふみきりのさくのむこうに、)
やっと隧道を出たと思う-その時その簫策とした踏切の柵の向うに、
(わたしはほおのあかいさんにんのおとこのこが、めじろおしにならんでたっているのをみた。)
私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立っているのを見た。
(かれらはみな、このどんてんにおしすくめられたかとおもうほど、そろってせがひくかった。)
彼らは皆、この曇天に押しすくめられたかと思うほど、揃って背が低かった。
(そうしてこのまちはずれのいんさんたるふうぶつとおなじようないろのきものをきていた。)
そうしてこの町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。
(それがきしゃのとおるのをあおぎみながら、いっせいにてをあげるがはやいか、)
それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、
(いたいけなのどをたかくそらせて、)
いたいけな喉を高く反らせて、
(なんともいみのわからないかんせいをいっしょうけんめいにほとばしらせた。)
なんとも意味の分からない喚声を一生懸命に迸らせた。
(するとそのしゅんかんである。まどからはんしんをのりだしていたれいのむすめが、)
するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、
(あのしもやけのてをつとのばして、いきおいよくさゆうにふったとおもうと、)
あの霜焼けの手をつとのばして、勢い良く左右に振ったと思うと、
(たちまちこころをおどらすばかりあたたかなひのいろにそまっているみかんがおよそいつつむっつ、)
たちまち心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑がおよそ五つ六つ、
(きしゃをみおくったこどもたちのうえへばらばらとそらからふってきた。)
汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降ってきた。
(わたしはおもわずいきをのんだ。そうしてせつなにいっさいをりかいした。)
私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を理解した。
(こむすめは、おそらくはこれからほうこうさきへおもむこうとしているこむすめは、)
小娘は、おそらくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、
(そのふところにぞうしていたいくかのみかんをまどからなげて、)
その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、
(わざわざふみきりまでみおくりにきたおとうとたちのろうにむくいたのである。)
わざわざ踏切まで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
(ぼしょくをおびたまちはずれのふみきりと、ことりのようにこえをあげたさんにんのこどもたちと、)
暮色を帯びた町はずれの踏切と、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、
(そうしてそのうえにらんらくするあざやかなみかんのいろと-)
そうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と-
(すべてはきしゃのまどのそとに、またたくひまもなくとおりすぎた。)
すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。
(が、わたしのこころのうえには、せつないほどはっきりと、このこうけいがやきつけられた。)
が、私の心の上には、切ないほどはっきりと、この光景が焼きつけられた。
(そうしてそこから、)
そうしてそこから、
(あるえたいのしれないほがらかなこころもちがわきあがってくるのをいしきした。)
ある得体の知れない朗らかな心もちが湧き上がってくるのを意識した。
(わたしはこうぜんとあたまをあげて、まるでべつじんをみるようにあのこむすめをちゅうしした。)
私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。
(こむすめはいつかもうわたしのまえのせきにかえって、)
小娘はいつかもう私の前の席に返って、
(あいかわらずひびだらけのほおをもえぎいろのけいとのえりまきにうずめながら、)
相変わらず皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、
(おおきなふろしきづつみをかかえたてに、しっかりとさんとうきっぷをにぎっている。)
大きな風呂敷包みをかかえた手に、しっかりと三等切符を握っている。
(わたしはこのときはじめて、いいようのないひろうとけんたいとを、)
私はこの時始めて、言いようのない疲労と倦怠とを、
(そうしてまたふかかいな、かとうな、)
そうしてまた不可解な、下等な、
(たいくつなじんせいをわずかにわすれることができたのである。)
退屈な人生をわずかに忘れることができたのである。